・12 雨の日の情景
・12 雨の日の情景
ここは長安ではないが、少し西へ行けば長安であることは事実だ。王勃の自尊心を中途半端に満足させるには丁度良い位置であった。
中島敦の『山月記』の中で虢略と表記されている主人公李徴の出身地である。
「鴻雁那從北地來」
散歩の途中で足を止めて、また、蜀時代に詠じた詩の一節を思い出す。物好きな雁は、なぜ、王勃が帰りたいと思っている北の方向から、わざわざ南へ渡って来るのだろう。不思議でならなかった。雁はただ、雁の生き方に従って自在に飛んでいるだけなのだ。
そして改めて思う。自分の書いた文章は悪くない。いや、天地開闢以降、随一の文章と称しても良いはずだ。そこは誇りに思っていい。才能があるにもかかわらず、あちらこちらと振り回されてばかりで実力を発揮しきれずにいる不遇の身を思えば、純粋な文章の実力だけが王勃の心の支えであった。王勃は左手の甲で額をぬぐった。汗をかいているわけではない。なんとなく、この空間そのものが、自らの肌にまとわりついてくるような重苦しさを僅かに感じたのだ。
「虢州の季節は、どんなものなのだ、曹達よ」
細いけれども太い眉毛が凛々しい表情を醸し出している、精悍な若者が答える。
「たぶん、長安の春ほど素晴らしいものではないと思います。それでも、蜀よりは心地よい春風を感じることができるのではないでしょうか。オイラは蜀へは行ったことが無いから蜀がどうなのかは知りませんけど」
そう言った曹達という男は、長安にも行ったことは無いはずだ。官奴という身分に堕とされたからには、それ以降は虢州から出たことは無いのだ。ならば、それ以前に長安へ行ったことがあるのだろうか。王勃が本人から聞いた話では、虢州生まれの虢州育ちだという。たぶん、虢州を出て遠くへ行ったことは無いのだろう。
「蜀といえば、劉玄徳の国ですから、オイラだってそう貶めて言いたいわけではないのですが、劉玄徳だって、別に好きで蜀の地で漢を復興したわけではなく、本当は長安で復興したかったはずですからね。しょせん、蜀は蜀ですよね」
軽い口調で曹達は言う。三国志にあっては魏こそが正統とされているものの、劉備や諸葛亮らが活躍した蜀を好む者は多い。王勃だけでなく、この曹達もそんな一人だ。
「蜀って、本来ならば大漢帝国の皇帝となるべき劉玄徳が仮住まいとした国ですから。なんていうか、本来、その人が持っている人徳とか、或いは器と言うべきか、そういったものが正しく報われていないのを象徴していると思うんですよ。いつの時代にもどこにでも居ますよね。才能や能力はあるんだけど、上司との相性や運の巡り合わせが悪くて、正しく評価されずに過度に貶められているような人」
「そうだな。杜少府なんか、まさにそういった人物だったなあ。それに、そういった人物の流謫先として、長安から遠く離れた蜀が選ばれるわけだし」
王勃もまた左遷で蜀へ行った一人である。若くして官途に就いたものの、そこからなかなか自らの才を認められない悔しさゆえに歪み始めてきた自尊心を抱えている。そんな王勃は、官奴という身分に甘んじている曹達とは心の歪み方の波長が偶然に合った、ということなのだろう。
それ以外にも、二人の年齢が近い、というのが、王勃と曹達が身分の差を超えて友誼を結ぶにいたった理由であろう。お互いに年齢を確かめてみると、王勃の方が一つ年上であった。
「あ、王子安参軍さまも、ここに来る前は蜀におられたんですよね。王参軍さまを蜀に行かせるような輩が長安に居るってことですから、やっぱりいつの時代にも、優れた人物を正しく評価できずに、そういうことが起こるってことの証明ですよね。でも短期で考えれば正しく評価されない時期もあるかもしれませんが、長い長い目で見れば、いつか必ず王参軍さまの素晴らしさ、特に詩の良さが評価されるようになりますよ」
「まあ、あまり長安のエラい人たちの批判は口にしない方がいいぞ」
王勃は、皇帝である高宗の怒りを買って、蜀に流された、ということになっている。もちろんそれは、皇帝や武皇后に対して王勃の讒言を吹き込んだ奴の陰謀と言うのが正しいだろう。それでもあくまでも皇帝の意向として王勃は長安を追放されて都落ちしたのだ。王勃の左遷を批判するということは、皇帝を批判することに繋がる。そのような言葉が第三者に聞かれでもしたら、不敬の大罪に陥れられてしまう危険がある。だから王勃は冷静に、曹達の発言を窘めた。だが王勃はそう言いつつも、眉根が緩み、少し鼻の穴がふくらんでいた。曹達に自らの詩才を持ち上げられて、悪い気はしなかったのだ。
曹達は、一つ年上であり豊かな詩才に溢れている王勃を素直に尊敬し、率直に称賛した。真っ直ぐに褒められれば、王勃としても気分が悪かろうはずがなかった。鷹揚に頷き、一身に褒め言葉を浴びる。周囲の不当な評価と、曹達の正しい評価。この参差ぶりは大きな落差であり、落差が大きいほどに王勃は曹達に親しみを感じた。長安に近いとはいえ、異郷の地である不毛の虢州にあって、唯一といっていい、良く評価できる点が曹達の存在なのだ。
「あ、王子安参軍さま、オイラ、あっちで呼ばれているみたいで。お役目がありますので、これで失礼します」
一揖して、曹達は慌ただしく駆け去って行った。曹達と合流したのは、三〇歳くらいの女だった。美男と美女の並び立つ姿は彦星と織姫を想像させた。
「さて。話し相手がいなくなってしまったからには、詩でも考えるかな」
李賢皇子に仕えていた頃に抱いた野望を、王勃は片時たりとも忘れたことはなかった。暇がある時を見つけては、詩を考案していた。皇帝や皇后のお膝元である長安にいれば、何かのきっかけで役人としての才を見出されて栄達する機会もあるかもしれない。だが辺陬の地にあっては、立身出世の機会など、夜空から星が流れ落ちるくらいの確率だ。そのような偶然に期待はできない。地方都市に居ながらにして自らの才を売り出すための唯一の正攻法は、詩が全土に広まって有名になり、それが宮廷の有力人物の目に留まって認められることだろう。
この時代、皇帝は三代目の李治、高宗である。皇后は則天武后という名で知られる、中国史上有数の烈女である武則天。かつて王勃が上申書を送った劉祥道や、秦王府十八学士の頃から頭角を顕して権勢を誇った許敬宗といった宰相は既に亡いが、龍朔三年(663年)に白江口の戦いで倭国軍を破った劉仁軌が老齢ながらも尚書左僕射として朝政に参画するようになっていた。高宗や武皇后の威を恐れずぬ諫臣として狄仁傑が歴史の表舞台に登場し始めたのもこの頃だ。
若い人材も積極性をもって登用されるようになっている時期であった。この年には張文成、そして虢州出身の宋之問といった人物が進士登第し、将来を嘱望されていた。彼等よりも先に朝廷に仕えるようになっていた王勃ではあるが、神童と騒がれていた割には、その後が伸び悩んでいる、と自分で思っていた。本来ならば、今ぐらいの年齢に達している頃にはもっと高い地位にいても良いはずであった。
王勃だけではない。王一族自体がやや不遇といえた。父の王福畤も栄達しているとは言い難い。
ふと気がついてみると、周囲は薄暗くなっていた。いつの間にか空は灰色の雲に覆われていて、雲の千切れ目から辛うじて青空がのぞく程度だ。先ほどから肌にねばつくような湿った風が気になっていたが、雲を呼び込む風だったらしい。
ほどなく、雨が落ち始めた。いつもの黄色っぽい空も、今日に関しては黄色が弱くて、灰色が強調されているかのようであった。蚕が糸を引くように落ちてくる雫は、王勃の肩を濡らす。京師でも剣南でも虢州でも、雨は降る。土地を潤して秋の収穫をもたらしてくれるものでもある。しかし今、王勃の上に降る雨は慈雨というにはあまりにも冷たく、まるで、自分の上にだけ余所よりも多めに降り注いで来ているような気がずっとしていた。
「風吹河水層層浪。雨打沙灘點點坑」
口の中から小さく呟きが漏れた。特に考える必要もなく、川の水が東の川下に向かって流れ行くように自然に言葉が出てきたから、過去に詠んだ詩の内の一節かもしれない。記憶の航跡を辿れば、すぐに思い出した。幼少時に、川沿いで遊んでいる時に豆粒のような大きな雨が降り始めた時に詠んだ上聯と下聯だった。それも、王勃が独自に作ったものではなく、たまたまその時に河を遡っていた舟の船頭が詠んだ対句を、王勃が修正したものだった。
だから自作とは言い難いのだが、それなのに何故か心に残っていて、雨を見た時に思い出されたのかというと、船頭の対句を修正した時に、周囲の人々から賞賛を浴び、雨を浴びてずぶ濡れになってしまった以上に嬉しさが勝り、幼心に誇らしかったからだ。
「あの時のことか……」
年齢はいくつくらいだっただろうか。『漢書』などの史書を読んで勉強を頑張ってはいたものの、ずっと屋内に引き籠もっていたのではない。子どもらしく、同年代の子たちと一緒に屋外で駆け回って遊ぶのも好きだった。その日は、川沿いで遊んでいた。幼い子どもだけで水辺に行くのは危険なので、何人かの大人も同伴していたはずだ。最初は晴天に恵まれていたが、急に冷たい風が吹き始めて、気がついてみたら暗い空から雨が降り始めていた。丁度、今のような急激な天候変化だった。
風邪をひいては困るので、大人たちは子どもらを連れて家に帰ろうとした。だが、子どもたちは動こうとしなかった。雨に煙った川下から、一艘の舟が遡って来るのが見えて、それに興味をひかれたのだ。
船頭が一人乗っているだけで、荷物を運搬しているようだった。川は雨を集めて早くも増水し始めていて、流れも速くなりつつあった。船頭は急湍に棹を挿して二の腕の力瘤を盛り上がらせて、必死に上流に向かっていた。それでも急な流れに逆らっていては能率が悪かった。舟は辛うじて流されるのを防いで、亀が歩むかのような速度で上流へ進んでいた。
「わあ、おそいおふねだなあ」
子どものだれかが叫んだ。幼い子どもが川岸を歩く速さと、舟の進捗とはほぼ同等だった。