・11 穴熊の地より
・11 穴熊の地より
さすが蜀である。三国志の英雄である諸葛亮のゆかりの地である。名軍師がこの地を熱く駆け抜けたのだ。あの山の頂から、何を見たのだろうか。どのような未来を思い描いたのだろうか。いかなる野望に胸を焦がしたのだろうか。どんな感慨を抱いたのだろうか。もしあそこに登ったら、自分もまた諸葛亮の思考を追体験できるのだろうか。
「そういう俗説があるってことよ。別に歴史の事実として孔明様が登ったという証拠があるわけじゃねえ」
「な、なんだ俗説ですか。そうでしょうね、現実なんて、そんなもんでしょうね」
思わず脱力してしまった。膝の力が抜けてそのまま座り込んでしまいそうになったのを、必至に堪える。顔の表情にはなるべく出さないよう、冷静さを保つ。辺りは薄暗くなりつつあるので、初対面の人の顔は表情までは読み取りにくいはずだ。
「でもな、単なる言い伝えであったとしても、そうであった方が面白いんだから、それでいいじゃないか」
そう言って唇を尖らせた農夫の顔は、真っ黒な髭によって、鼻の下と顎だけではなく、頬骨の辺りまで鬱蒼と覆われている。素肌の部分も泥で汚れているせいか、どこまでが黒い髭なのかぱっと見ただけでは判別しにくい。
「そもそも、孔明様が活躍なさったこの蜀の地でなければ、そういう言い伝え自体が生まれなかったはずだぞ。あんた、長安から来たんだろう? 長安に、孔明様が将兵達に演説をした場所とか仲間たちと酒を酌み交わした場所だとか、そういった何かゆかりの地があったりするのかね?」
もちろん諸葛亮ゆかりの場所など、長安にあるはずもない。だが長安ならば、秦の始皇帝や漢の歴代皇帝の関係する地がすぐ近くにある。
長安ならではの、歴史上の偉人の跡地があるならば、蜀には蜀ならではの偉人の足跡がある。葛憤山というのは、広大な大唐帝国の中でも剣南の地にしか存在し得ない独特なものだ。
「そうですね。仰る通りですね。その葛憤山というのに、近いうちに登ってみたいと思います」
「おう。そうしろそうしろ」
「それはそうと、葛憤山ってのは、悪い意味で特徴のある名前ですね。それって本当の名前ではなく、通称のようなものですよね?」
「おお、そうだ。よく分かったな。正式名称は知らん。たぶん、ウチの家内も近所の爺さんも知らん。だから旅人のあんたが気にすることはないよ。それにな、この近くには八陣磧というのもあるんだ。知っているか?」
「いいえ。何なんでしょうか、八陣磧というのは?」
「河原に石が並べられている場所なんだが、それが、諸葛孔明様の考案した八つの陣形の形をしているのだよ。蜀に来たからには孔明様の足跡を存分に楽しむのがいいさ」
農夫は満面の笑みを湛えて、励ますように王勃の肩を叩いて、去って行った。
「靴の大きさに合わせて自分の足を切るのではなく、自分の足の大きさに合った靴を探して履けばいい、ということか。八陣磧も、いずれ見に行ってみようかな」
一人その場に残って佇む王勃は小さく呟く。ここは長安ではなく蜀だ。遥か北に望む長安は細く狭く山々の間を繞る路の向こうだ。蜀に来たからには、蜀に合わせた生き方をしなければならないだろうし、それができないならば、早く蜀から脱出できるような何かの働きかけでもしなければならない。
いかに諸葛亮ゆかりの地とはいえども、とにかく、無駄に長居をしたいとは思わない土地だ。
王勃の祖父は、名を王通という。隋の頃にこの蜀にて郡司戸書佐の任にあったが、煬帝が江南に引きこもって隋全土が叛乱で荒れていた大業の末年に官を棄ててしまった。その後は在野の人となり、学にその生涯を捧げて生きた。偉大なる祖父も蜀に居たことがあるのだ。そういう意味では蜀とは縁はあるのかもしれないが、それでもやはり相性が良い土地とは思えない。
蜀というのは、穴熊のように引き籠もるには良い場所かもしれないが、飛龍のようにここから天下に打って出るには相応しい土地ではない。あの諸葛亮をもってしても、蜀を地盤としては天下を取ることはできなかったのだ。
とはいえ。王勃は、祖父のように官を捨て去る覚悟までは無かった。祖父の時代とは状況が違う。隋は、結果として短命に終わった王朝だ。その末期と唐の草創期には多数の人材が機を得て翼を広げて飛翔した。祖父は、薛収に代表される優れた人材を世に送り出して、在野でありながら寧ろ官中にある以上に存在感を示した。
今、単純に王勃がそれを真似しても、何も成果を挙げられないだろう。野に出た時の祖父はもう随分と春秋を重ねていたが、王勃はまだまだ若輩者である。人柄を慕って弟子が集まるだろうか甚だ疑問だ。そして仮に弟子を育てたとして、その弟子達に活躍の場があるのか。
弟子に活躍の場があるくらいなら。その前に王勃自身が今頃はもっとずっと宮廷の中核の役割を果たしているはずだ!
「諸葛孔明ゆかりの山に登って、蜀を一望の下に見渡す。そして、長安とは違って何もない蜀の様子を瞳に刻み込むのだ。少しでも早くここから抜け出すという気持ちを強く持ち続けることを忘れないために」
拳を握りしめ、曇った夕闇にぼやけつつある山の頂を睨み付ける。風が吹く。風だけが吹き抜けて、どこかへ行く。
「蜀という地が、引き籠もりのための場所であり、諸葛孔明を含めてここから天下に打って出ることができなかった、というのならば、自分が一番最初の例となってやる。それでいい。穴熊の逆襲だ」
飛び去る鴉の群れを見送り、夜へと急ぐ時間帯に佇む。
◆◆◆◆
「と、蜀に到着したばかりの頃には息巻いていたのだけどなあ……」
嘆息するしかない。それでも、蜀からの脱出を果たした後だからこそ、まだ余裕の色を含ませることができている。中原に吹く湿った風は、蜀とはどう違うだろうか。
「もう、回り道は懲り懲りだな」
若い頃の苦労は後々の血肉になる、という年配者の言葉をよく聞く。そういうこともあるのだろう。だが、それは絶対ではないはずだ。
王勃にとって、蜀へ左遷された経験など、何の肥やしにもならぬ時間だった。せいぜい、幾度か山登りを体験しただけのことだった。
蜀へ回り道などしていては、二人の兄に追いつくどころではない。弟たちにも追いつかれてしまうのではないか。
「形隨朗月驟東西,思逐浮雲幾南北」
蜀に居た頃に記した文章の一節を口遊む。西から吹く風が、砂漠の砂を運んでくる。空が少し黄色い。大地も黄色が静かに積もり行く。
王勃の現在の任地は虢州である。