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王勃伝  作者: kanegon
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・1 竜門の神童

・1 竜門の神童


 唐の時代には、数多くの詩人たちが妙技を競い合った。それらの詩は海を越えて日本にも伝わり、一〇〇〇年以上にわたって愛読され続けている。

 優れた詩を生み出した詩人たちは、ひと癖もふた癖もある個性的な人物が多かった。

 泥酔したまま水面に映った月を取ろうとして、船から落ちて溺れて死んでしまった。そう伝えられる詩人もいる。現代的な感覚でいうと、一見マヌケのようにも感じられるが、捉え方によっては、病気で死ぬよりは風雅な詩人らしい、とも考えられる。

 これは、そんな詩人の生涯を綴った物語である。


◆◆◆◆


「キミは、まだ幼いのに、難しい文章を上手く読めるのだね」

「ありがとうございます、襄陽の杜先生」

 嬉しそうに子どもらしい笑顔を見せたのは、いまだ六歳の王勃である。実際に子どもであった。

「今、キミが読んでいるそれは、東漢の班固の正史『漢書』だろう? 大人の士太夫でも、それを読むのは難しいはずだぞ」

「はい。簡単ではありませんが、面白いので、どんどん読み進めることができます」

 年齢に似合わず大人びた口調で、王勃は顎に手を当てながら答える。もちろんそこに髯は生えていない。

「ですが、注釈にあちこち誤っているっぽい箇所があって、そこでつっかかってしまい、無駄に時間と労力がかかります」

 襄陽の杜先生は息を呑んだ。

「なんと! 注釈というのは、顔注のことであろう? それの誤りを指摘できるとは。この年齢の子としては素晴らしいことだ」

 王勃の黒いつぶらな瞳を見つめて、襄陽の杜先生と呼ばれている杜易簡は深く深く嘆息した。

 著者班固の難しい性格を反映してか、西漢の歴史を記した正史の『漢書』は難解な書物として知られる。唐が建国された頃には、大人の儒学者であっても注釈無しではとても読めないようになっていた。それまでずっと『史記』よりも『漢書』の方が史書として大きな人気を誇り、漢書学、という学問の一分野まで構成されるようになっているにもかかわらず、である。

 唐の二代目皇帝である太宗の時代に制作された顔師古の漢書注は、それまで存在していた幾多の漢書注の全てを凌駕するような決定版ともいうべき優れたものであった。だが、この王勃という六歳の童児は、その偉大な注釈に対して誤りがあると堂々と指摘しているのだ。

「私の故郷の襄陽にね、私の祖父の兄弟の孫で、杜審言という子がいるのだよ。確か、今年で九歳だったか、それくらいの歳だ。その子も優秀だと言うことで近隣では有名なのだが、たぶん、今のキミと同じくらい、上手く文章を読むことができる。九歳で文章を巧みに読むというのも勿論素晴らしいことなのだが、それと同じ水準のことを六歳でできてしまうというのだから、キミは本当に凄いと思うよ。将来が楽しみだ」

「ありがとうございます。でも、ボクは兄上二人には全然追いつけません」

 杜易簡は、王勃の父親である王福畤の友人だ。素直でありながら向上心も忘れない王勃に対して、襄陽に杜先生は目を細めた。

 杜易簡の言葉は、実は正確ではない。

 九歳にして能く文章を読んで神童と讃えられたのは、杜易簡のまたいとこの杜審言ではなく杜易簡自身であった。しかしここで自分のことを言うのでは傲慢な感じがするため、咄嗟に従祖弟の名前を出したのだった。襄陽の杜審言はこの時、本当に九歳ぐらいであり、幼い頃から優秀であるのは嘘ではなかった。杜審言は後に進士に及第し五言律詩を得意とする詩人として名を残すことになる。

「大丈夫だよ。お兄さんが千里先を進んでいても、キミも歩き続けるのを諦めなければ、いつかはお兄さんが到達した千里先の地点まで辿り着くことができる。多少早いか遅いかだけの違いでしかないよ」

「でも、早いか遅いか。それが大事なのではないでしょうか。ボクがその千里の地点まで行った時にはもう、兄は更にその先の二千里の場所へ行っているのです。追いつけないのです」

 学問の分野において優れた人物を輩出している家系だけあって、王勃だけが優秀なのではなかった。二人の兄、王勔、王勮もまた幼い頃から学に優れて神童として名高かった。王勃の弟たちはまだ幼いものの、物心がついてきたら、恐らくは王勃や兄たちと同様に文芸の才能を示すことだろう。

 王勃は二人の兄を追うだけではなく、後ろから追いかけてくる弟たちに追いつかれないように先行し続けなければならないのだ。いまだ六歳という春秋でありながら、世の競争の厳しさという現実に気づき始めている。

「人間というのはね、全速力で走り続けることはできないのだよ。幼い頃に速く走り過ぎると、大人になってから息切れして速さが落ちる。……この私のようにね」

 自嘲するように、杜易簡は視線を宙に泳がせながら呟いた。

 自身もまた九歳という幼さで能く文を草する異才と騒がれた杜易簡は、長じて後に進士となった。そこまでは順調であった。が、競争相手が進士及第者同士となると、進士であることはなんら特権ではなくなってしまう。寧ろ、自分以外の進士が自分よりも優秀に見えてしまい、自信を減退させてしまったものだ。早熟だった自分に対して他の者たちは長じてから密度の濃い勉強をして進士となったのだ。その勢いの差というものを、なんとなくではあるが肌で感じていて焦りのようなものを禁じ得なかった。

「ボクは、途中で息切れすることなんてありません。ずっとずっと、全速力で駆け続けます!」

 いまだ声変わりすらしていない甲高い童児の強い口調に、杜易簡は優しい笑みを浮かべた。

「そうだね。キミくらいの年齢ならば、それくらいの気概を持っている方がいいね」


◆◆◆◆


 王勃は山西の絳州の竜門県を本貫とする。本貫というのは言うなれば本籍地のことである。

 例えば、中島敦の名作『山月記』は唐の天宝時代末年を舞台としており、主人公は「隴西の李徴」となっている。李徴の本貫は隴西だということだ。

 では、実際に李徴が生まれた故郷はどこなのか。「故山、虢略」と記述されているので、虢略ということになる。「隴西の李徴」と称していても、ややこしいことにそれは素直に出生地を示しているわけではないのだ。

 王勃の場合。

 竜門が本貫であるが、生まれ育った場所もまた同じく竜門であった。

 そこは汾河が黄河に合流する場所である。唐王朝三〇〇年の基礎を築いた二代目皇帝太宗李世民が不老不死を手に入れることなくこの世を去り、三代目皇帝として李治が即位して、元号が貞観から永徽へと変わった、丁度その前後くらいの時期だ。

 王という姓であるが、山西の名門貴族である太原王氏の家系だ。先祖はと言うと、南北朝時代の劉氏の宋王朝時代に武将として活躍した王玄漠の弟である王玄則にまで遡ることができる。王勃が生まれる前に亡くなった祖父の王通は、文中子という謚号で知られる隋末期の高名な儒学者であり、唐建国の功臣である薛收、温彦博、杜淹などを門下生として輩出した。父の王福畤は、後に高宗が唐王朝の最大版図を現出した頃に太常博士となっている。

 山東の有力貴族である琅邪王氏ほどではないにせよ、名門であることは間違いない。

 そのような家系に生まれた王勃は、幼い頃から優秀な才能を示した。

 六歳にして難しい文章を流暢に読んだ。その三男勃の才藻を高く評価したのが、父王福畤の友人であり、自ら優れた文人の杜易簡だったのである。


◆◆◆◆


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