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つばさひとつがい  作者: 緒明トキ
のろわれしはつこいエンスウ様編
9/11

かみさまの×××

「――エンスウ様!! やだ!! 行っちゃやだ!!」




 じりじりと体を焦がす熱にずっと身をゆだねていた神さまは、耳を貫くような声にはっと我に返った。

 糸で強く引かれたようにそちらに顔を向けると、つばさがよろよろと立ち上がるところだった。

 おや、と神さまは思った。

 つばさはどうしてあんなところにいるのだろう。さっきまで手を繋いでいたと思っていたのに。

 不思議に思いながらちらりと自分の手を見ると、見慣れた体に戻っていた。つるりとした指ではなく、艶のある羽がびっしりと覆っている、人間とは程遠い自分の手だ。

 建物に入ってからツガイを見つけて、そこからはよく覚えていない。よく覚えていないが、体の奥で何かがぐるぐると回っている感じがする。

 どうやらつばさを放って、本能のまま行動していたらしい。

腹が満ちている。体が着々と変化しているのを感じる。

 そのままふと顔を上げると、数メートル先にうごめく黒い塊が目に飛び込んできた。

 それを見て、そのにおいを感じた瞬間に、何かにまた引きずり込まれそうになって、ぼやけた頭で喉を震わせた。


「つばさ?」


 黒い塊から視線を剥がしてゆっくりと顔を向けると、苦しげな顔をした彼女が不格好な歩き方で近づいてきた。

 なんだか、とても痛そうな顔をしている。

 つばさは、何度も息を吐きながら、たどたどしく言った。


「行っちゃやだよ、エンスウ様。お願い聞いてくれるって、言ったじゃん。そっちに行ったら、高坂の体、駄目になっちゃうよ」


 ――また「こーさか」か。

 一瞬、本能ではないなにかが、胸の奥を掠めた。

 嫌な痛みを伴ったそれは、一体なんと言うのだろう。神さまはゆっくりと口を開いた。


「――わたしは、人間ではない。だから、本能には逆らわない。契約には逆らわない」


 淡々と言って、神さまはつばさを見た。

 意味を理解しかねたのか、不思議そうにつばさが見上げてくる。

 神さまに痛みを与えた彼女が、ほんの少しだけ憎い。そうしておいてとぼけた顔をしているのが、少しだけ。

 だから、ちょっと意地悪をしてやろうと、神さまはつばさの体に手を伸ばした。

 きらきらとした熱が指先を掠め、神さまは目を細めた。

 本能のような暴力的な熱ではない。あの、底なし沼に引きずり込まれるような感覚ではない。

 なんと言ったらいいのかわからないが、つばさの魂は素晴らしい。うっとりしそうになって、静かに思い直した。

 確かに、つばさの魂は素晴らしい。だが、それとこれとは話が別だ。

 軽く胸に手を当てると、つばさの目が怯えるように揺らいだ。

 

 ――何も怖いことはない。ただ少し、少しだけ、体が痛いだけだ。


 とんと胸をついて軽く弾き飛ばすと、つばさは壁にぶつかって体を折り曲げた。

 もし「こーさか」に同じことをしたなら、ばらばらになっていたかもしれない。

 しかし、つばさがこのくらいでは死なないことくらい、神さまは知っている。

 ゆっくりと手を下げながら、長く息を吐く。

 早く全部終わらせてしまいたい。早くツガイと子を成して契約を終わらせ、つばさと手を繋いで、あの部屋に帰りたい。

 契約のことを考えると、縛り付けられた魂がきりきりと痛んだ。

 目の前にツガイがいるのに交尾をしないからだろう。これさえなければ、とどれだけ思ったことか。

 観念して暴力的な欲望のままに一歩踏み出す。

 上げた足を下ろした時に、ぱんと乾いた音がした。

 途端に、温かいなにかが、溜まりかけの風呂のように、ささやかな波と共に足首を押した。


 ――つばさ?


 温かいそれは、つばさの魂のかけらだ。それが勢いよく漏れ出して、部屋の床に溜まっている。

 神さまは、自分でも驚くほどの速さでつばさのもとへ駆けた。

 勢いのまま教祖を押しのけて、体を折り曲げてつばさを覗き込んだ。

 はっ、はっ、と短く息を繰り返している。腹部からは、魂と共に赤くてどろりとしたものが床に流れ出ていた。

 溶けたアイスに似ている。つばさも溶けてしまうのだろうか。

 ぼんやりと開かれた目が、ぐらぐらと揺れている。この様子では、神さまの姿だってしっかりと見えているかわからない。

 途端に不安になって、神さまは自分の胸でどくどくと跳ねる魂を掴んだ。もしもこの呪縛がなかったら、契約なんてしていなかったら、自分が持っている全ての力で、つばさの腹の穴をふさぐのに。


 ――いや、待て。


 神さまは金色の目をぎょろりと動かした。

 契約をしたのは、曲がりなりにもただの人間である教祖だ。

 もしかしたら、ただの人間ごときの契約ならば、つばさが反故にできるかもしれない。それで神さまの力が元に戻ったら、つばさと「こーさか」の関係だって、反故にできるかもしれないのだ。

 教祖に聞かれてはまずいから、神さまはぐっと体を倒して、内緒話をするようにつばさに囁いた。


「つばさ、こーさかのことが、好きか」

「……ッ、うん、好き」


 ずるずると頷いたつばさが、やはり少し憎い。だがそれも、もう少しのことだ。

 神さまは体に腕を突っ込んで、がんじがらめになった魂を引きずり出した。

 つばさの輝く魂は似ても似つかない、肉の塊のようなそれは、教祖との契約でぐるぐる巻きにされていた。

 ツガイと子を成すこと、この世界にいる間は、契約者である教祖に逆らわず、指示に従うこと。

 契約というものは得てして単純だと聞いていたし、全くもってその通りだが、それがこんなにも己を苦しめている。神さまは少しの間、自分の毒々しい魂を眺めた。

 契約違反をすると、魂が引き裂かれる。契約破棄をすると、強制的に元の世界へ戻される。

 だが、契約した人間以外が契約破棄――破壊をした場合は、少し事情が変わる。 

 本来の力を取り戻す代わりに、神さまは、元の世界へ帰ることができなくなる。同時に、契約によって高められていたこの世界への適応力が大きく落ちるから、神さまはいわば丸裸で異世界に締め出されることになる。

 契約者以外の契約破棄は、そもそも例が少ないから、神さまにも詳しいことはわからない。ただ、契約を壊して自由と元の力を手に入れた後に痛い目を見るであろうことは予想できた。

 ――だが、それでも。

 神さまは、自分の魂をゆっくりとつばさに差し出した。

 わずかに体を震わせて、つばさは神さまを見上げる。力なく揺れる瞳には、つばさとは似ても似つかない化け物がうつりこんでいた。

 化け物は、大きな口を開いてひっそりと尋ねる。


「つばさ、契約をなんとかしたら、こーさかに、会わせてやれるぞ」

「けー、やく?」

「そうだ。わかるか、この忌々しい契約を、なんとかしろ」

「ん? あ、わかった……ッ、これね?」


 つばさは素直に手を伸べて、契約を指でなぞる。

 中身が流れ出ているとはいえ、頭の奥が痺れるような温かな手に触れられ、神さまは静かに目を細めた。

 いつも繋いでいた手が、指が、傷を作りながら契約を絡め取り、あっという間に壊してしまった。

 風に吹かれた砂のように消えていくそれを見送っていると、喉の奥から熱いものがこみあげてきて、思わず身をすくめる。

 じりじりと戻りくる力と、はみ出した体を焼く痛みが、神さまの自由を証明しているようだった。

 つばさは、焦点のあっていない目でかすかに笑う。


「これで、い?」


 ――もちろんだ。

 神さまは喜びに喉を震わせた。

 つばさとも「こーさか」とも似ても似つかない手で、つばさの腹部の穴に触れる。

 ツガイになって子を成すのなら、新しい命はここに眠ることになるのだ。いや、なるはずだった。

 神さまは目を細めて、曲線を描く腹部を撫でた。

 見た目よりも、中はずっとひどい。

 自分の体と器を維持することで精いっぱいの神さまにはどうにもできないくらい、つばさの体はぼろぼろだった。

 魂は弱々しい輝きを纏い、温かな何かはほとんど流れ出てしまっている。

 ――こんな風に怪我をするのも、笑うのも、好きだと言うのも、全てわたしのためならばよかったのに。

 ――わたしを守るために血まみれになっているのだったら、ずっとよかったのに。

 怒りや苛立ちややるせなさがごちゃ混ぜになったような、神さまには名前も付けられないような感情が、ぐるぐると体を駆け廻った。

 熱に浮かされた頭で、神さまはゆっくりとつばさに顔を近づける。


「さすがだ、つばさ。すばらしい魂だ、好ましい。お願いを、叶えてやろう。こーさかに、会えるぞ」


 ずっと考えていた。

 つばさはどうしたら、「こーさか」ではなく自分とツガイになるのか。「こーさか」と自分では、何が違うのか。

 神さまは、ぐっと力を抑えた。「こーさか」そっくりの体が戻ってくる。

 冷たい汗がつたうつばさの額を撫でて、神さまは尋ねた。


「つばさ、こーさかのことが、好きか」

「ッ、うん」


 甘えるように微笑んだつばさに、神さまも答えるように笑った。

 ――ならば、「こーさか」にお別れをしなくては。

 神さまは、頭の奥の記憶をぐるりと眺めて、そして――

 まるで、「こーさか」のように微笑んで見せた。


「――じゃあちゃんと言えよ、ばあか」


 つばさは目を見開いて、それから、とろけるようにうっとりと笑った。

 見たことのないくらい、幸せそうだった。そしてそのまま、つばさは、好き、と言った。

 すき、だいすき。

 何度も繰り返されるそれに、まるで自分が言われているかのような感覚に陥っていた神さまは、こーさか、と名を呼ぼうとする口を、唇を押し付けることで咄嗟にふさいだ。

 自分でもわけがわからなかったが、今この瞬間だけは、「こーさか」と呼ばれたくはなかった。

 喰らってしまったそいつの行方は知れないから、もしかしたらまだ神さまの腹の中にいるのかもしれない。しかし神さまは、少なくとも「こーさか」ではない。

 血の味に痺れた舌先で唇をなめる。ひどく飢えていた。

 先ほどまでの、黒いツガイと子を成したという欲ではない。つばさとツガイになりたいと、そればかりが頭を占めた。

 つばさと自分とで、それぞれ代わりがないものになりたい。全部くれてやるから、全部欲しい。

 つばさがもらえるのなら子なぞいらないと、神さまたちの種族の本能に真っ向から反することすら、真剣に思うのだった。

 細い体に回された腕に、かすかに力が込められる。神さまも、つばさが壊れてしまわないようにそっと体を抱きしめた。冷えていく体を温めようとその背を撫でていても、つばさのおしまいが近いことがわかるだけだった。

 それではいけない。ここで終わってしまっては、いけない。

 なによりもまず、つばさは、「こーさか」にお別れをしなくてはならない。

 神さまは、×××と共にいた頃の「こーさか」のふりをして、優しくつばさに語りかけた。


「つばさ」

「うん」

「つばさ、好きだ」

「うん」


 神さまも同じことを思っているのに、まるで「こーさか」本人の言葉のようで、少し悔しくなった。

 肩のあたりで小さく頷くつばさの頭を撫でて、記憶とテレビドラマを参考にしながら、お別れの言葉を選ぶ。


「でもな、ごめんな、もういいから」

「ん」

「ごめんな、おれ、もう、戻れないんだけど」

「ん」

「ちゃんとわかったから。おれがつばさを好きで、つばさもおれを好きだって」

「うん、うん!!」

「ありがとう、つばさ」


 甘くて柔らかいものを食べる時のように、優しく慎重に言葉にすると、つばさの瞼がゆっくりと閉じて、首に回っていた腕から力が抜けた。

 何度か名前を呼んでも反応がない。きらきらと輝いていた魂は、冷えていく間際の弱々しい光を放っていた。

 神さまは、つばさの体をゆっくりと床へ下ろして、痛みにぴりぴりと痺れる色とりどりの足を強く踏ん張り、体を起こした。

 そして、今や鈍い欲望しか呼び寄せられない真っ黒な「エンスウ様」に向き直った。

 重い体を引きずるようにして近づくと、もはや目も見えていないであろう黒い塊は、何かを期待するように体を膨らませた。本来は強い力を持っていたのだろう。だが、今は老衰のためか見る影もない。

 神さまは、「こーさか」の体を壊さないようにしながらそちらへと向かう。器の体で子を成さねばならないのだ。

 本能的にぶるぶると震えだした羽を意識して抑えながら、神さまは考える。

 つばさへ言ったことは、一つも嘘ではない。

 つばさが「こーさか」へ寄せる想いも、「こーさか」の×××――つばさへの想いも、神さまは嫌というほどわかっていた。だから、にっくき「こーさか」のふりをしてまで、それに決着をつけたのだ。

 ――成すべきことは、あとはもう一つだけだ。

 神さまは、結論を出していた。

 自分と、見てくれは同じはずの器、「こーさか」の、どこが違うのか。

 それは、つばさに関する知識と時間だ。好みや嫌いなものといった知識も、一緒にいた時間も、それによって生まれた愛情も、神さまは決定的に足りない。

 神さまは「オサナナジミ」ではないから、つばさとツガイになることができないのだ。

 ゆっくりと足を止めると、黒い塊から触手のようなものが生え、こちらへとゆっくり伸ばされた。

 神さまは、金色の目を笑うように細めて、体の力を抜く。


「待たせたな、さあ、子を成そうか」


 みるみる裂けていく大きな口で笑って、神さまはエンスウ様にかぶりついた。




◆◆◆




「――どういうことだ? なぜ契約が……いや、これは一体……」


 呆然と呟いた教祖に、神さまはゆっくりと嘴を開く。

 安っぽい絵の具で塗ったような銀色の歯に、黒くどろどろとしたものが滴っていた。


「よりよい子を成す、そのために、我らは契約をする。我らは、本能でツガイを選び、交わる。あれは、ふさわしくなかった」

「なっ、あれがお前のツガイだっただろう! だから召喚に成功したんだ!」

「いいや、あれでは、駄目だった。あれを、ツガイとは認められない」


 神さまの腹部は、ぼこぼことうごめいている。大きな蛇でものみこんだかのようだ。

 ぼりぼりと固いものがこすれ合う音と共に、体の形が少しずつ変わっていく。それを気にする風もなく、神さまは続けた。


「あれには、わたしと子を残す資格がない。だから、わたしの血肉となって、わたしだけの子を産む、糧となった」

「お前だけの……!? まさか、そんなことが」

「契約に縛られていなければ、我らの種族には、それができる。そうやって、永久に生きながらえることが、できる」


 呼び出された世界では、契約で縛られるということもあって、神さまたちの力は弱くなる。

 本来ならば、自らの腹でもう一度自らを孕むことができるから、実質一個体でも滅びることはない。ツガイと子を成すのは、よりよい個体を残すためだ。それができないのであれば、無理につがう必要はない。

 寧ろ、契約に縛られていない今であれば、元の世界でしていたように、弱きを喰らい力をたくわえて、自らを産み直した方がよっぽど利口だ。


「本当は、もう満腹だが、これには少し手間がかかる。オサナナジミに、生まれなくては、ならないのだ」


 神さまは、教祖を真っ直ぐ見つめた。

 どうやら魅了が効かないらしい男は、信じられないという表情のまま固まっている。

 羽だらけの手に掴んでいた男を口に運びながら、神さまはぱっくりと口を開いた。

 教祖が、常日頃信者に求めるように、死の瞬間に生の喜びを噛みしめたかはわからない。ただ、小さく「かみさま」と呟いた声が喉の奥に当たって、咀嚼音に消えた。

 信者も教祖も無味無臭で、全く食べた気がしない。つばさと食べたアイスの味が、ひどく懐かしい。

 腹の中をうごめく“何か”を感じながら、神さまはゆっくりと膝をついた。

 



◆◆◆




「つばさ」


 神さまは、干からびていく体を引きずって、倒れている娘のもとへ向かう。


「つばさ、ご覧、完璧なわたしが、生まれたぞ」


 枯れ枝のような腕で、神さまは冷たくなった娘を抱きしめた。


「お前も、戻れ」


 つばさに触れている羽が、みるみる色を失って、抜け落ちていく。反対に、つばさの頬には色が戻っていた。

 足りない部品が多いな、と神さまは目を細めた。

 余すところがないように強く抱きしめると、神さまが触れているところがみるみる枯れていき、代わりにつばさが色を取り戻していった。

 神さまの指先が砂に変わって動かせなくなったころ、腕の中の娘は、「こーさか」の記憶にあった幼い姿ですやすやと寝息を立てていた。

 神さまは、砂になりかけた喉を震わせる。


「これで、ツガイになれる」


 神さまは、微笑んだまま、つばさの首筋に頭を擦り付けた。


「次はわたしとオサナナジミになろう、つばさ」


 ゆっくりと目を閉じると、何度目かのおしまいが神さまに訪れた。

 色褪せた羽と砂に守られるようにして眠る少女の側で、同じくらいの年ごろの少年が、金色の瞳でじっと彼女を見つめていた。





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