かみさまと×××
随分と窮屈な体に押し込まれたものだ。
はみ出しそうになるのをぐっとこらえて、神さまは何度かつるりとした指を動かした。
神さまにとっては、これが初めての召喚になる。
◆◆◆
自分を呼び出した人間と、自分の器となる人間とはわかった。
他は、区別をつけるほどの興味がないし、必要もない。大人しく皮を被って、呼び出した者の命令を聞き、ツガイと子を成すという契約だ。
呼び出した人間が権力を持っており、信者を動かしていることがわかった。白を纏う人間は信者、生き物から離れた匂いを好んでいるのが信者、一定の音を好み、独特な話し方をするのが信者だ。
それだけ覚えておけば、ツガイと出会うその日まで、ただぼんやりとしているだけでよかった。
教祖と信者が周りをせわしなく移動している間、神さまは思考の海に身を沈めていた。
はみ出さないようにするには、考え事をするのが一番いいことに気付いたのだ。
どうやら、この体は身にこそ合わないが頭の中は十分すぎるほど広いらしい。様々なものがきっちりと整頓されて、とり出しやすいところに置いてある。神さまはそれを眺めることにした。
そうしていなければ、遠くに感じるツガイの気配に向かって、契約を無視して駆けて行きそうだった。
この狭苦しい体を取っ払って、手当たり次第に人間を喰らって行けば、契約違反で魂が引き裂かれる。さすがにそれはごめんだ。
魂を喰っても残ってしまった記憶や感情を眺めて、神さまは暇をつぶしていた。
その時に、ふとそれを見つけてしまったのだ。
――×××。
塗りつぶされたそれは、神さまであっても透かして見ることができなかった。
仕方なく他の記憶を見てみるも、所々にそれがある。しかし、どれも全て真っ黒に塗りつぶされている。
神さまは、とても興味をそそられた。
それの存在を見つけると、ツガイへの飢えが薄れた。どうやらこの体がそれを忘れさせるらしい。
この人間には、なにかとても大切なものがあったようだ。
ツガイへの本能を押しつぶすほどのなにか、自分が知らないなにかが。
気まぐれに耳を澄ますと、がんがんと響くように、一つのことだけが繰り返されていた。
――×××は、絶対にやらない。
それはなんだと問うても、誰も答えない。
ともすれば、誰かに――神さまに渡さないために塗りつぶしたのかもしれない。
そのことに少し苛立ちながら、神さまは教祖の言葉を待った。
「高坂さん、後で息子さんのことについて少し伺いたいことがあるので、待っていてくださいますか? ――ああ、延雛様は日が出てから沈むまでおとなしくしていてください。もう少し信者を増やしたいので」
静かに神さまの目元に手をかざすと、神さまはすとんと眠りに落ちた。
力を封じられたことになるが、逆にはみ出す心配はない。
神さまは、誰がどう見ても神というかはわからないが、少なくとも人知を超えた存在ではある。
食料となり得る人間に多幸感を与えておびき寄せることくらいは、はみ出しかけていようが眠っていようができてしまうのだ。
次に神さまが目覚めた時、目の前にいたのは信者でも教祖でもなかった。
◆◆◆
「お願いします! 高坂に体を返してもらえないでしょうか! 契約とかは、その……私がなんとかするので!」
爆ぜるようにきらめき、温かな熱を持つ魂。
黒い髪ときらきらとした瞳の、信者ではないらしい人間が、真剣にこちらを見つめていた。
ツガイではない。それは本能でわかる。
だが、ひどく胸が騒いだ。
はみ出しそうになるのを全身全霊で抑え込む。わけがわからず、神さまは困惑した。
自分はまだ名前を一つも持っていない存在で、召喚も一度目だ。呼び出した人間に契約で縛られ、言うことを聞かされるだけだと思っていた。それが、これほどまでに美しい魂を持つ存在から、まるで対等かそれ以上の立場にいるかのように、「お願い」をされるとは。
――もしかして、わたしは、嬉しいのか?
先ほどまで眺めていた記憶に似た感覚があったのを思い出し、神さまはふと考える。
本能があるうちは、心などできない。
では、胸のあたりに広がる、温かくちくちくと痛む感覚はなんなのだろう。本能が求めるもの以外をツガイにしたいと願うこれは、なんというのだろう。
握られた手から、ふわりと熱が流れ込んでくる。
はみ出しそうになる魂をなだめるような、包み込むような感覚に、神さまはうっそりと目を細めた。
人間とは思えない。まるで、そう、理解を越えた、神のような存在に思える。
本能すら飛び越えて、彼女――つばさは、頭の奥に痺れるような感覚を刻み付けた。
――この人間と、つばさと、ツガイになりたい。
ちらりと浮かんだ自分の欲望に、神さまは興味を持った。本能の外から沸いたこれは、いったい何なのだろう。
つばさともっと一緒にいれば、わかるだろうか。つばさが言う「こーさか」は自分が喰ったから、どこへ行ったかはわからない。だが、知っていそうな人間ならば、神さまにも覚えがある。
そのことを告げると、つばさはわずかに顔を綻ばせた。
「おねがいというのをされたのは、生まれて初めてだから、きいてやろう。つばさのおねがいを、きいてやろう」
その手に頬ずりすると、まるで風がすり抜けるように、優しい熱が体を駆けた。
他の、餌となるような人間とは格が違う。神さまは、確信めいた思いを抱いていた。
ツガイになりたい。どこまでも、つばさの味方をしていたい。
と、突然頭の奥がじりじりと痛んだ。
思わず頭の中を見渡すと、×××を塗りつぶした黒いものが、恨めしげにとぐろを巻いていた。
神さまに敵うはずがない、虫けらのような相手だ。現に魂は喰らいつくしている。だが、その×××が何なのか知ることはできない。
相手にせずにつばさをじっと見つめていると、ちりちりと焦がすような痛みが強くなった。
なるほど、と神さまは喉の奥で笑った。
――そうか、これが守っているのは、つばさか。
頭にちらりと浮かんだ幸福な記憶に目をやると、真っ黒な×××に手を伸ばす情景がよぎった。
神さまは、うらやましく思った。そして、この体がもつ記憶よりたくさん、つばさの手を握ろうと決めた。
喜びを感じることも、触れたいと思うことも、ツガイになりたいと思うことも、そもそも本能を無視した不可解な欲望を抱え込んだことすら、神さまにとって初めてのことだった。
◆◆◆
つばさに手を引かれて街を歩き回り、白服の信者たちを退けて、なにか甘いものを食べて、つばさに手を引かれて家に帰り、テレビとやらで人間の勉強をする。
明るい間はつばさをずっと見ていられるから、夜に必死になってはみ出さないよう抑え込まなくてはならなくても、それでもいいと思えるようになった。つばさと手を結びつけて寝るようになってからは、だいぶ楽になったが。
シュークリームとやらを頬張りながら、つばさと繋いだ手をぶらぶらと揺らしていると、隣から小さなため息が聞こえた。
神さまはとろりとしたクリームをのみこんで、小さく首を傾げた。
「つばさ、疲れているか」
「えっ? あ、大丈夫だよ、エンスウ様。ちょっと眠くなっちゃって」
「そうか。では、早く帰ろう。もう一つも食べたい」
「あ、じゃあ近道するね」
「ちかみち」
「いつもより早く家に着くってことだよ」
ちかみち、とやらをすれば、袋に入ったもう一つのシュークリームが予定より早く食べられるようだ。
もう一つは、中身の色が違うらしい。今食べているのは黄色だが、袋のものは白だそうだ。
見慣れない景色を抜けると、分かれ道に出た。
また頭の奥が熱を持つ。どうやら、この体のもとの持ち主である「こーさか」に思い入れのある場所らしい。
亡霊のように時折ささやかな抵抗を見せる「こーさか」は、つばさに好かれていることとも相まって、とても憎らしい。
早く通り抜けてしまおうと、つばさの手を引いて一歩踏み出そうとすると、つないでいた手にぐっと力が込められた。
「――つばさ」
手を引いてもついてこない彼女に焦れて声をかけると、はっとしたように顔を上げた。
「えっ? ご、ごめん、なに?」
「ちかみちで、早く家に着くのでは、ないのか」
「あ、うん、そうだよ! そう……」
取り繕うように言うつばさは、軽く頭を振って、今度こそ迷いなく歩き始めた。
また「こーさか」が絡んでいるらしい。神さまはおもしろくなくて、シュークリームをがぶがぶとかじった。
どうやらこの分かれ道は、つばさにとっても大切な場所だったらしい。気にくわない。
苛立ちまじりに記憶を眺めていると、同じ場所のものを見つけた。
丸く曲がった鏡に、×××――塗りつぶされたつばさと、「こーさか」がうつっている。
×××と「こーさか」は、何度も何度もここで別れて、違う道を進む。
そのたび「こーさか」は、なんだかもやもやした気持ちのまま歩いて、家に近づくほどに冷たい気持ちになっていた。
神さまはふと顔を上げて、横を通り過ぎていく丸く曲がった鏡を見た。
つばさとシュークリームを頬張る「こーさか」が、手を繋いで同じ方へ歩いている。神さまは少し胸のあたりが締め付けられる感じがして、自分が嬉しいと思っていることがわかった。
見た目が「こーさか」なのが残念だが、と思っていると、隣のつばさが何か痛みをこらえるような顔をしていることに気付いた。つばさ、と声をかけるより早く鏡の横を通り過ぎてしまったから、つばさの顔は見えなくなってしまった。
神さまは、胸のあたりがざわついた。
つばさは、痛いことも嬉しいことも、「こーさか」が中心なのだろうか。そう考えると、えもいわれぬ不快感がこみあげてくる。
こんなことなら、もっとじっくり「こーさか」を食べてやればよかった。神さまは、おぼろげなあの一瞬を後悔した。自分が味わっている嫌な気持ちを、その原因にぶつけてやりたい。
だが、もしそれができたとしても、きっとつばさは神さまのツガイにはならないのだ。
――では、どうすれば。
神さまは一人、首を傾げる。
◆◆◆
神さまはテレビが気に入っている。特に、ドラマというやつは勉強になる。
つばさは規格外にしても、「こーさか」や信者のようないわゆる普通の人間たちが、好きだの嫌いだのと言っては、ツガイを交換していくのだ。きっとこれがこの生き物のやり方なのだろう。
つばさに会う前の神さまであれば、本能でツガイを識別できないなんて、と馬鹿にしたかもしれない。だが今は、本能のような絶対的な決まり事の外からツガイを決めたいと、神さま自身が思っている。
そう思った理由がもしかしたらわかるかもしれないし、何よりつばさは、にわかには信じがたいが人間である。人間同士の関係を勉強しておいて損はない。
神さまは真剣にドラマを見た。
一緒にいると、好きになる。私のことをわかってくれるあなたが好き。きみ以外愛せない。好き、すき、愛、あい。
すき、と、あい、が大切らしい。好きで愛しているから、ツガイになるようだ。
好き、と口に出して小さく呟くと、頭の奥ががんがんと痛んだ。
――お前のことが好きだ、×××。
また「こーさか」だ。神さまは奥歯をぎりりと噛んだ。
好きだと言った時、「こーさか」の鼓動はどきどきと弾むようだった。自然と上がっていく口角や泣きたくなるような胸のつまりは、嬉しいとか楽しいとか、そういった気持ちがごちゃ混ぜになっている感じがする。
つばさはまた「こーさか」の前で、「こーさか」のためだけの顔を見せたのだろうか。
神さまははみ出しそうになるのを堪えて、長く息を吐いた。と、その記憶はそこであっさりと途切れた。
おや、と神さまは思う。
好きだと言って、嬉しくて、それだけなのだろうか。
もしかして、つばさはまだ「こーさか」に好きだと言っていないのだろうか。
思わずベッドに座っているつばさを振り向くと、髪を拭いていた手を止めて、「なに?」とこちらを見た。
「――つばさ、は」
――こーさかのことが好きなのか?
問おうとして、口が動かなくなった。そうだと言われてしまったら、器である「こーさか」の体をぐちゃぐちゃにして、自らをさらけ出してしまいそうだった。
つばさは、不思議そうに首を傾げた。
「うん? 私は?」
「……テレビ、好きか?」
「うん。でもドラマよりはお笑いとかの方が好きかな」
「そうか」
くるりとテレビに向き直って、神さまは静かに息をついた。
――どうしたら、「こーさか」よりも自分のことが好きだと言ってもらえるのだろう。
――つばさとわたしは「おさななじみ」ではないから駄目なのか? では、どうすれば「おさななじみ」になれるのだろう?
時折暗くなるたびに画面に映る「こーさか」の顔はひどく不機嫌そうで、中身が自分でなければ気も晴れただろうに、と神さまはため息をついた。
数を数えるのが苦手な神さまには正確な日数はわからなかったが、その数日後に信者が迎えに来た。
思ったよりは早かったが、「こーさか」の体は限界だったから、丁度良かったと言えるかもしれない。
不安そうに顔をこわばらせたつばさの手をぎゅっと握って、神さまは儀式の場へと向かった。