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結局、言葉にするまでに十五年三ヶ月と十八日かかったことになる。
「お前のことが好きだ、つばさ」
考えた結果、誤解を招かないように、シンプルに言うことにした。
高坂は、いざという時に即断即決即実行ができることが自分の長所だと思っている。
みるみる顔を赤くするつばさを見て、高坂は幸せな気持ちになった。察しが悪くない高坂は、きっとつばさには好かれていたのだと思った。
答えを聞くつもりはなかったが、まるで透かして見てしまった気になって、なんだか気恥ずかしい。
ぽかんと口をあけていた幼馴染は、決心したように一度唇を引き結んでから、かすれた声で尋ねた。
「……ダウト?」
「残念」
「えっ、ちょ、まじ?」
「おう。じゃあな」
「じゃあなって、ちょ、高坂! こーさかー!」
嘘だ、と言ったら、手加減なしで背中を叩かれただろうか。
いや、一度それをして高坂が顔面から道路に倒れ、鼻血を出したことがあるから、それはしないか。
怒った顔と、その後の慌てっぷりを思い出して、高坂は小さく笑った。
後ろから追いかけてくる声に、答えを気にする反面、言わないでくれと祈りもする。
高坂は、力いっぱいペダルをこいだ。早く離れなければ、戻れなくなる気がした。
夕陽のせいではなく、目元まで赤く染めていた幼馴染を思い出して、高坂は目を細めた。
心なしか視界がぼやけている気がする。きっと、慣れないことをしたせいだ。急に自転車を思いっきりこいで、体温が少し高くなっているからかもしれない。
高坂の行く先には、日が沈んだ後の紺色が待ち受けている。
なにも手に入れない代わりに失いもしない道を選んだ偽物の神子は、ぼんやりと暗い幸せの中で微笑んだ。
あと二時間十一分で、儀式が始まる。
この、頭の中の馬鹿みたいな時計を止めるのも、もうすぐだ。
◆◆◆
死を間近に控えた高坂は、死の恐怖よりもむしろ、つばさを守り切った充実感を噛みしめていた。
体を清めて、ゆったりとした衣装に着替えて、怪しい文様だらけの地下にあるだだっ広い部屋に連れてこられて初めて、自分が神子になったことを確信した。
何のにおいもしないその部屋は、窓が一つもなく、蛍光灯の青白い光が黒々とした呪文を浮かび上がらせている。高坂はわずかに目を眇めた。想像していたよりも明るい。
白く照らされた蝋燭立ての奥に、いつもよりも複雑な作りの服を纏った教祖が、穏やかな笑みを浮かべて佇んでいた。
「やあ。準備ができたみたいだね」
「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね。じゃあちょっと装飾品を追加させてもらうよ。そこに座って」
部屋の中心に座らされると、きつく目隠しをされ、後ろ手で拘束された。
装飾品とはよく言ったものだ。ますます逃げられないような状態にしただけではないか。
高坂は、真っ黒になった世界に侮蔑の眼差しを向ける。
「まあ、神子の場合はないと思うけど、延雛様と体が合わないときは中身が押し出されることがあるからね。それを防ぐ意味でもちょっときつく留めておくことになっているんだ」
中身が押し出されるとはどういうことだろうか。言い訳めいた主張だが、それでも少し引っかかる。
これから行われる儀式については、体内にエンスウ様を招き入れ、魂を贄として捧げ、体を受け渡すという漠然とした説明でしか聞いていない。
つがい云々は魂を捧げた後、つまり高坂の存在が消えてからだそうだ。だから、死ぬまでが神子としての高坂の仕事になる。
実際は儀式と称して拷問めいたことをされて死ぬのではないかと思っていたが、一度会った〝エンスウ様〟は想像とは違っていた。確かに人知を超えた存在であるかのような気がしたのだ。
エンスウ様は、ぬらぬらとした体毛に包まれた、黒い塊だった。
人間かもわからないようなものだったが、何よりそれが知恵を持ち、生きているということが、認めたくはないが真実だった。高坂は、つばさがそうならなくて良いことにひどく安心したことを覚えている。
ふと、目玉が飛び出して死ぬ自分を想像して、どちらにせよ死ぬのなら別に意味もないことだとあっさりとそれを放り出し、幼馴染との思い出に浸ろうと目を閉じる。
その高坂の思考を遮るかのように、よく通る声が頭の中に響いた。
「きみはきみの持つ全てを延雛様に捧げなくてはならないんだ。その肉体も、精神も、記憶すら全て」
――記憶すら、全て?
何気なく告げられた一言に、高坂は凍りついた。
自分の持っているものなら、全てくれてやるつもりでいた。だが、つばさだけは駄目だ。
誰よりも大切な幼馴染。
明るく快活で、勝負は直球一本、嘘がつけず正義感が強くて、面倒見がいい。怪力がコンプレックスで、幼馴染の指を砕いたことがある。
笑顔は勿論、情けなく眉を下げた顔や、ふくれて文句を言っている不満げな顔さえ最高にかわいい、高坂がずっと好きだった女の子。
ひたすら大切に守ってきた彼女を、たとえ高坂の記憶であっても、誰かに渡すなど考えたくもない。
高坂は静かに息を吐いた。
頭の奥が怒りで熱を持っているように感じる。
つばさを神とやらに渡さないためには、なにができるのだろう。握りこんだ拳はどうやら爪が食い込んでいるらしい。
気づけば、高いような低いような声が、ざわざわと周りで上がっていた。
「全てを捧げよ。$%&#*、&%$#*#$%&、全てを捧げよ」
教祖と数人の信者しかいなかったはずだが、どんどんと声は大きくなっていく。人数が増えているようだ。
全てを捧げよ、の部分しか聞き取れないが、そのフレーズが高坂を煽る。
『全てを捧げよ。全てを捧げよ。全てを捧げよ。全てを捧げよ。全てを捧げよ……』
――馬鹿じゃねえのか。つばさは、誰にもやらねえ。
正座から上体をかがめて、高坂は荒く息をつく。
呼吸すらままならないほど、空気が重くなっている。
吸えば、腹の奥にのしかかってくるようだ。吐ききることすらできない。
声はどんどん大きくなっていき、最後には大合唱のような声量で高坂の鼓膜を揺らした。
『全てを捧げよ。全てを捧げよ。全てを捧げよ――***********様の名のもとに!』
その瞬間。
目隠しをしていたはずの高坂の目には、大口を開けて自分をのみこもうとする〝何か〟の姿がはっきりと見えた。べったりとした銀色の牙が、ぬらぬらと光っている。
恐ろしい姿が迫って来るくせに、頭を占めるのは冷えた怒りだった。
――てめえなんざつばさには相応しくねえよ、醜い化け物が。合いもしないおれの体の中で、苦しんで消えろ!
〝何か〟に喰われる直前、ありったけの恨みと憎しみと羨望と無念と、その他もろもろの強く濁った感情をこめて、高坂は唇をつり上げた。
「――あいつは誰にもやらねえよ」
高坂翼は――正確には彼の魂は、大好きな幼馴染の幸福を祈ることはついになく、神とこの世にささやかな呪いを残して、頭からばりばりと喰われてしまった。
だから、翌日から幼馴染が告白の答えを告げるために奔走することも、自分の皮を被った神さまが選んだ結末のことも、彼自身は知る由もない。