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つばさひとつがい  作者: 緒明トキ
隠れネガティブ高坂くん編
6/11

運命を変えたその後で

 七年三ヶ月と十日前のその日。

 つばさを失いたくない高坂は、一つ嘘をついた。

 例えそのせいで、彼が積み上げてきたささやかな全てがいっぺんに駄目になるとしてもかまわないと思っていたし、そのことに関して何ら後悔はない。

 幼い彼には一つも怖いことなどなく、ただ真っ直ぐに、つばさとの未来が見えた方へと進んだだけだったのだから。




◆◆◆




 気づいたころにはもう駄目だった。

 見た目にはなにも壊れてやしない癖に、中身はだいぶ前からずたずただった。

 いついつまで時間を巻き戻せたら、なんてものはない。

 きっと緩やかに全部がおかしくなったのだ。自分にはどうにもできないくらい、全てが。

 自己暗示のようにそればかりを考えて、高坂翼はぼんやりと窓の外を見る。

 家の中は外と同じ、いや、それ以上に暗い。

 ずっと眺めていると、無性に明るい光のもとへ飛び出したくなる。

 目がつぶれても、体がとけても、ここにいるよりは正解に近づける気がする。

 高坂は街灯の眩しさに目を細めた。部屋の電気をつけることはまだ許されていない。

 集会までは禁じられているのだ。

 おかげで携帯電話をいじるくらいしかすることがない。

 死ぬほど退屈していたし、同じくらいこれからのことが嫌でたまらなかった。

 パスワードを解除して、ずっと右にフリックすると、高坂の特効薬が笑っていた。

 中学の卒業式で、満面の笑みを浮かべている幼馴染――香坂つばさの写真だ。

 高坂が呪ってやまないこの世界での、唯一の良心。誰よりも大切な、愛すべき幼馴染。

 つばさ本人には絶対に言えないし、一生言うつもりもないことを心から思って、高坂は目を細めた。

 ――と、階下から聞きなれた平坦な声が響いた。


「翼くん、時間ですよ」


 高坂はうんざりした。

 途端に魔法が解けたようだった。携帯電話をポケットに突っこんで、白いローブを乱暴に羽織る。


「翼くん、お祈りの時間ですよ」

「今行きます」


 無視したせいでもう一度呼ばれる羽目になった。

 小さく舌打ちをして、大股で部屋を横切っていく。

 耳に張り付くような平坦な声が嫌いで仕方がない。それが実の父親のものだとしても、叶うなら耳をふさいでしまいたかった。

 声が似ずに良かったと幾度目かわからない安堵をして、地下室へと急ぐ。

蝋燭の明かりで照らされたそこには、白い服の信者たちが幽霊のようにひしめき合っていた。

 この中には、確かクラスメイトとその家族もいたはずだ。

 傾いだ頭の間を通り、前の方へと進んでいく。

 最前列の右から二番目。

 定位置に腰かけて、高坂はぼんやりと明日の単語テストのことを思った。


「みなさん、時間です。本日のお祈りを始めましょう」


 穏やかな笑みを浮かべた高坂の父親が、機械的な声で言った。

 高坂は話をすっかり無視して、英単語を思い出す。〝演説〟は確か〝address〟だったか。

 父のあれは、演説というには中身がなさすぎる。

 頭を下げる信者たちに合わせて自分も頭を下げる。隣に座る母は、唇だけで祈りの文句を唱え続けていた。


 高坂の両親は、巷で噂のカルト集団の幹部だ。

 元々行っていた高額の金銭的支援だけでなく、息子が神子だという名声まで手にした二人は、着実に地位を築き上げていた。

 高坂が高校に入ってからは、家の地下に増設した礼拝堂に近隣の信者を集め、定期的に集会を開いている。

 それがなくとも、日々の礼拝の時間に引きずり出される高坂夫妻の権力の象徴である高坂翼は、兎角全てにうんざりしていた。



 

◆◆◆




「おはよ、高坂!」

「おはよう、つばさ」


 朝から探していた姿を見つけて、自転車の速度を緩めて近づくと、気付いた相手から先に声をかけられた。

 快活な声に思わず頬が緩む。

 幼馴染の女の子――香坂つばさは、怪訝そうに眉をひそめた。


「なに? なんで笑ってんの?」

「いや、寝癖ひでえと思って」

「なっ……! こ、これは! ここのくるくるは! がんばったけど直んなかったの!!」

「そこだけじゃねえよ。ほら後ろ」

「えっ? あ、えっ、なにこれ!?」


 跳ねている髪を触って確かめながら恨めしげに言う幼馴染に小さく笑って、高坂は自転車を降りた。

 左手に単語帳を持っているつばさは、高坂が頭を悩ませている宗教のことは何一つ知らない。

 まるで昔見たドラマのような、礼拝も集会もない日常に、つばさは生きている。

 その事実が、神の存在や祈りの文句よりずっと高坂を救っていた。


「そういえば、今日は一緒に帰れるの? 委員会とかある?」

「ない。多分放課後は暇だ」


 放課後は、あまり遅くならなければ問題はない。

 つばさといる時間が伸びるのは喜ばしいことだし、なによりあの家には極力帰りたくないのだ。

 礼拝の時間に間に合えばいいはずだ。そこまで考えて、高坂は頭に浮かんだ無機質な白をすぐに振り払った。

 何も知らないつばさは、ぱっと表情を明るくして鞄を探る。


「じゃあちょっと付き合ってよ。えーっと……あった! これ、駅前のカフェの割引券! 昨日もらったんだよね」

「割引券? なんで?」

「日ごろの行いなんだなー、これが! この前佐藤ちゃんの自転車のパンク直したんだけど、そのお礼だって」

「なるほど、ひいては修理方法を教えたおれのおかげってことか。恩返しとは殊勝な心がけだな」

「そこまでは言ってないけどね!」


 使わせるとも言ってないよ、と不満げに言うつばさに小さく笑って、高坂は放課後に思いを馳せた。

 楽しい時間まで、あと八時間二分ほどある。急げば二時間四十七分ほどつばさといられるだろうか。

 その後帰ることになる暗い部屋のことは考えないようにして、高坂は「テストだろ?」とつばさの左手を覗き込んだ。

 慌てて復習を始めたつばさの下手くそな英語と、その後にたどたどしく続けられる和訳を聞きながら、高坂はまるで普通の高校生みたいだと自嘲まじりに息を吐いた。




◆◆◆




 隣の家の女の子は、いつもは元気に外を走り回って遊ぶくせに、保育園や学校ではどこか自信なさげで大人しかった。

 理由は知っている。力加減ができないことを怖がっていたからだ。

 高坂は、人に触れたがらないつばさにいつだって手を伸べた。

 それは、つばさを助けるためだけではなく、自分を置いて行かないで欲しくてしていたのかもしれない。

 今ではつばさが外の世界への推進力で、〝まとも〟な世界への唯一の窓だった。


「高坂翼くん」

「――はい」

 

 名を呼ばれて、高坂はとっさに返事をした。現実世界に一気に呼び戻された気分だ。

 そういえば、今日は大規模な集会の日だったか。

 どうやら集会自体は終わったらしく、信者が疎らになっていた。両親は出入り口で挨拶をしているようだ。

 目の前にいる若い男は、教祖と呼ばれている。高坂が覚えている限り、年を経ても姿かたちが変わった感じはしない、年齢不詳の不気味な男だ。

 柔らかな笑みを浮かべて、いつも通りの特徴のない声で教祖は言った。


「喜ばしいことに、いよいよ日取りが決まったよ。一週間後に延雛様をお迎えする」

「そうですか」

「心穏やかに器となれるよう、しっかり準備してきてね」

「はい」


 冷静に返事はしたものの、思いのほか迫っている期限に内心驚愕していた。

 逃走を防止する意味もあるのだろうか。それとも、〝神〟側の理由だろうか。

 なんにせよ、高坂がすることは一つだ。

 そのせいで両親や信者やエンスウ様やエンスウ教がどうなろうが、関係ない。

 香坂つばさの代わりに神子となって死ぬことが、高坂翼の目的だった。




◆◆◆



 

 休日を抜いて、つばさに会える日はあと四日しかない。

 時間にしたら、十時間四十分会えればいい方だ。

 しかし、そんな時に限って委員会の仕事が長引いてしまった。

 今朝から雨が降っていたこともあり、担当分の資料整理を終える頃には、見慣れた暗闇が窓の外に広がっていた。白と黒だけの場所を思い出して、高坂はわずかに顔をしかめた。

 つばさが様子を見に来たのは、もう一時間五十八分前のことになる。遅くなるからと帰らせたことを今になって少し後悔していた。

 だが、無理に待たせて高坂の様子が違うと気づかれたらまずい。つばさを絶対にあの宗教に近づけたくはないのだ。

 ずっと守ってきた幼馴染が、その怪力を活かして高坂を救おうなんて考えたら困る。

 高坂には、多勢に無勢だということも、エンスウ教がひどく執念深い不気味な組織だということも、身にしみてわかっていた。

 先ほどまでつばさが顔をのぞかせていたドアの奥には、暗い影が息をひそめて固まっている。高坂は鞄を持って、迷わずに足を踏み出した。これから後は、神子としての高坂の時間だ。

 ――つばさといる時間と、神子でいる時間。どちらが日常でどちらが非日常なのだろう。

 考えて、前提が違うな、と高坂は目を伏せた。

 本当は、表も裏もないのだ。全てが一枚の世界の上にある。


 人気のない昇降口を抜けて、紺色の傘をさす。

 しっかりと重さを持った雨がその上を滑り落ちて行った。

 神子として高坂翼が死ぬまで、片手で数えられるほどの日にちしかない。

 それでも考えるのは、たった一人の幼馴染のことだ。

 好きだった。つばさを、ずっと。

 誰にも渡したくない、渡すものかという執念が、高坂の恋だった。

 褒められたものではないということは、自分でもよくわかっている。だからこそ、表に出さないよう必死に抑えてきたのだ。

 つばさが高坂以外の誰かといつか幸せになるなんて、考えるだけで吐き気がした。それが幼いころからずっと不思議だったから、どうしたらそれがおさまるのかをずっと考えていた。

 だが、エンスウ教という檻に閉じ込められてから、なんとなくわかってきた。

 つばさを失えば、高坂はもう飛べない。窓の外の〝まとも〟な世界には出て行けない。だから、つばさにもそうであってほしいと思っている。

 客観的に見ても、つばさは高坂を大切にしていると思う。

 だがそれは、幼馴染だから、お揃いだらけだから特別なのかもしれない。だから、それよりもっと切実な愛をもって、高坂を特別にしてほしい。

 雨粒の奥ににじむ赤信号を見つけて、高坂は立ち止まった。

 力で守ることはできないから、それ以外の部分でつばさを守ってきたつもりだ。

 そうすることでしか、つばさの特別になれない。敵を排除し、気さくに接して、優しくすることが全てだ。

 思ったより長い赤信号に、時計を見ようと携帯電話をとり出すと、無意識に待ち受け画面をフリックしていた。

 微笑む幼馴染は相変わらず能天気そうで、人の良さと明るさをさらけ出して笑っている。

 えもいわれぬ幸福感に目を細めた高坂は、ふと思い当った。

 ――そういえば、一度もちゃんと言ってねえな。

 つばさに気持ちを伝えたとして、答えを聞いたところで、その先に未来などない。高坂はすぐに死ぬのだ。

 だから避けていたのだが、結局残された彼女の幸福を祈れないのなら、最後に言っておくのもいい。

 惨めにぼやけた青信号を確認して、携帯電話をしまう。

 言うのなら、本当に最後にしよう。そして、答えは聞かずに死のう。

 それが、自分勝手で臆病者の高坂翼とその歪んだ恋には、お似合いの最期だろう。

 運命の日を控えた神子は、くるりと一度傘を回して、その細長い足を迷いなく踏み出した。



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