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高坂翼と香坂つばさは、とても仲の良い幼馴染だ。
名前はどちらもコウサカツバサ。
お揃いの名を持つ二人は、お互いのことを片方はつばさと呼び、もう片方はこうさかと呼んだ。
生年月日から血液型まで全く一緒で、しかも家が隣同士という、双子より縁が深い関係にある。
ただ一つ大きく違うのは、高坂翼は男で、香坂つばさは女だという、それだけだった。
◆◆◆
それは、ひどくおかしな光景だった。
白い服の人々が恍惚とした表情でばけものにすり寄っていき、お菓子のようにぱくぱくと食べられていくのだ。ぼやけた視界では細かい部分が見えないせいもあって、おにぎりが二つの塊にそれぞれ食べられていくかのように見えた。
ぼろぼろと涙をこぼしているつばさの側に座り込んだ教祖は、世間話でもするかのようにのんびりと話しかけてくる。奥から聞こえてくる身の毛もよだつような音を聞いていたくなくて、つばさは必死に特徴のない声を追った。
「神産みに耐えられるだけの〝力〟を持った人間っていうのが、代替わりが近づくと、エンスウ様と同じ誕生日に生まれることになっているんだ。ただそれだけじゃない。エンスウ様が名前を指定するんだ。予言と言ってもいい。それが、コウサカツバサだった。まさか二人いるなんて思いもしなかったけどね」
体が動かない。指一本動かない。
風邪どころか怪我さえしたことがないつばさは、初めての感覚にもがいていた。
「で、あの夫婦が連れてきたのが高坂翼くんだったんだ。元々はただの信者だったんだけど、エンスウ様の器の名前を知ってびっくり、自分たちの子どもがぴったりだったってわけだね。まあ僕らとしても信者の子の方がやりやすいわけだし、良かったなって思ったんだけど、一応調べてみることにしたんだ」
契約をした張本人だからだろうか、教祖はわれ関せずと言った風によどみなく話し続ける。
この空間にいた自分と教祖以外の人間は、誰もがうっとりとした表情で自分の順番を待っているというのに。
「でもあの高坂夫婦、実はなかなかの曲者でね。自分の隣の家の子どもの名前を知っていたくせに、ひた隠しにしたんだ。自分の子どもが器になれば、間違いなく幹部確定だからね。しかも翼くん、すっごく頭がよくてね。僕らはそれが〝力〟だと思い込んでしまったんだ。だから、エンスウ様が誘拐されるまできみの存在に気付けなかったのさ。知ってた? きみの誕生日って実は、一か月遅れで登録されてるんだよ」
知らなかった。高坂の父親が医者だったはずだから、そこでいじったのだろうか。
高坂が頭がよかったというのも、つばさの常人離れした力と似て、隠されていたものだったのかもしれない。それが少しだけ、寂しくもある。
「ねえつばさちゃん、きみのその常人離れした怪力は、何のためにあるんだと思う? それはね、神をその身に宿し、神を産むことを運命づけられていたからさ。今はそうやってしくしく泣いているけど、本当はきみがあそこで、いっぱい食べなきゃならなかったんだよ? でも大丈夫。きみの大好きな翼くんが、きみの運命を全部肩代わりしてくれたんだ。さっきは言わなかったけど、彼は男の子だし体も弱いから、きっと神産みには耐えられないと思うな、残念だね」
つばさは静かに唇を噛んだ。
こいつは、この光景がつばさのせいだとでも言いたいのだろうか。それは違うだろう。
誰かを犠牲にして神さまを産むなんて考え付いたこいつが、こいつらが悪いのだ。
高坂と同じ日に生まれてきたつばさには、神さまを産む気なんてなくて、生まれてきた意味だってなくて、ただ生きて死ぬはずだった。
信者が神さまにもぐもぐ食べられていることも、高坂が神さまの器になってしまったことも、今の今まで気づかなかったつばさには、どうにもできなかったことなのだ。
ただ一度だけ、つばさが何かを変えられる瞬間があったとしたら、それはあの日のこと。
あの日、高坂に「私も好きだ」と言わなかったことを、今でも死にたいくらいに後悔している。
「――ああほら、ご覧。もうすぐ神産みが始まるよ」
やっとご飯タイムが終わったらしい。退屈していたらしい教祖も、いささか姿勢を正した。
つばさは息をのむ。エンスウ様がゆっくりと体を起こすのが見える。生臭い匂いが鼻の奥にこびりついていた。
――ダメだ。
頭の中でがんがんと警鐘が響く。
もしもエンスウ様があの黒い塊と子を成してしまったら、高坂の体が壊れてしまう。
それは絶対にダメだ。つばさが想いを伝える相手がいなくなってしまう。高坂が、駄目になってしまう。
つばさは、ゆっくりと体に力を込めた。体が重い。指先が痺れたように動かない。
強く唇を噛む。ふざけるな、これ以上後悔を増やしてたまるか!
「――エンスウ様!! やだ!! 行っちゃやだ!!」
靄が晴れたかのようにすっきりとした頭で叫ぶと、ばけものも教祖も一斉につばさを見た。
ゆっくりと体に力を入れていく。いつも通りとはいかないが、なんとか立ち上がることができた。
「つばさ?」
頭の奥に響くような声で言って、高坂だったばけものはゆっくりと顔をこちらに向けた。
教祖が「猛獣用じゃ駄目ってわけか」と呻くように言ったのが聞こえた。
がくがく震える足を一歩前に出す。吐き気がひどい。というか、生まれて初めて味わっている。これが吐き気というやつか。
他人事のように考えながら、荒く息をつきつつエンスウ様のもとへ向かう。
ぎらぎらとした羽の奥の金色を見つめて、つばさはかすれた声で言った。
「行っちゃやだよ、エンスウ様。お願い聞いてくれるって、言ったじゃん。そっちに行ったら、高坂の体、駄目になっちゃうよ」
どろりとした金色が、黙ってつばさを見下ろした。
つばさはまた泣きたくなった。
高坂ではない。もう、高坂ではなくなってしまった。
エンスウ様は、嘴のようなものをゆっくりと開いた。銀色の絵の具でべたべたと塗ったような鋭い牙がずらりと並んでいた。
「――わたしは、人間ではない。だから、本能には逆らわない。契約には逆らわない」
羽に覆われた大きな手のひらが、つばさの胸に触れた。
心臓に触られる、と思った瞬間、つばさは後ろに吹っ飛んだ。
背中を強かに打ち付けて、つばさは呻いた。柱にぶつかったらしい。靴が片方ない。
口の中が切れたようだ。しょっぱい味がすると思っていたら、じわじわと鉄の味が広がってきた。
立ち上がろうと手をつきながら、つばさは考える。
どこでまちがえた? どこが駄目だった?
結末はこれしかなかったのだろうか?
――いや、まだだ。まだ終わっていないはずだ。
即座に否定して、つばさは拳を握った。
つばさは、運命を信じない。
過去に決まっていたことはないし、未来に決まっていることもないのだ。
『つばさが、力が強く生まれてきたことは、偶然だろ。おれの骨を折っちゃったこともさ』
転びそうになって咄嗟に強く握りすぎてしまい、高坂の左手の指の骨をほとんど折ってしまった時、幼い高坂はつばさに笑って見せた。
『つばさは、つばさの力で何かを変えられるときにがんばればいいよ。過ぎたことをどうにかできるわけねえじゃん。これから先、おれが転びそうになった時に、助けてくれたらそれでいいんだよ。そしたら未来のおれはきっと、ケガしなくてすむんだからさ』
未来は、今の行動次第でいくらでも変わる。だからつばさは、運命を信じないし、常に全力で今を生きる。
軽く頭を振って、壁を支えに立ち上がる。と、目の前に影が差した。
「――よく頑張ったよ、本当に。でも、きみはもういいよ」
教祖だ。
姿を捉えたと思ったら、乾いた音と共に腹部を熱が襲った。
思わず膝をつく。体を丸めてみると、じわじわと赤いしみが広がっているのが見えた。
痛いというよりも、熱く感じる。撃たれたらしい。
やばい、と落ち着け、が拮抗する。浅くなる呼吸を落ちつけようと目を閉じた。
ゆっくりと瞼を開くと、金色の瞳がこちらを覗き込んでいることに気付いた。エンスウ様だった。
エンスウ様は、ひそひそ話をするかのように顔を寄せて、こっそりと尋ねた。
「つばさ、こーさかのことが、好きか」
「……ッ、うん、好き」
床に頭をこすりつけるようにして頷くと、エンスウ様は少し動きを止めてから、ゆっくりとつばさから離れた。
少し遠くで何か音がする。
ぼんやりとした視界に、何とも言えない色をしたぬらぬらと光るものが差し出された。
「つばさ、契約をなんとかしたら、こーさかに、会わせてやれるぞ」
「けー、やく?」
「そうだ。わかるか、この忌々しい契約を、なんとかしろ」
「ん? あ、わかった……ッ、これね?」
ぬめりを帯びた熱いくらいに脈打つ丸いものを探っていると、何か鎖のようなものが食い込んでいるのがわかった。どくどくと手の中で跳ねるそれを握りつぶしてしまわないように気を付けて、鎖を指に絡ませる。
内側にとげが生えている細い鎖は、つばさの血だらけの指にも容赦なく牙をむいたが、気にすることなく力いっぱい指を開く。
するとそれはまるで紐のように頼りなく千切れ、跡形もなく消えた。
「これで、い?」
薄く笑って見せると、金色の瞳が微笑むように揺れた。
「さすがだ、つばさ。すばらしい魂だ、好ましい。お願いを、叶えてやろう。こーさかに、会えるぞ」
ほんと、と聞き返す前に、羽のない柔らかな指が、汗で張り付いたつばさの前髪を掬う。
「つばさ、こーさかのことが、好きか」
「ッ、うん」
うっとりと目を閉じたまま頷くと、小さな笑い声が耳をくすぐった。
「ーーじゃあちゃんと言えよ、ばあか」
――高坂?
つばさは、誘われるように目を開く。
見慣れた焦げ茶色の瞳が、そこにはあった。
からかうような、いつくしむような、優しい親しみを込めた眼差しに、目の前がゆらぐ。
つばさは、自然と笑みを浮かべていた。
「好き、大好き。ずっと前から、ほんとに、だいすきだよ、だいすき、すき、すきだよ、」
こうさか、と続けようとしたところを、柔らかな唇が降ってきて止められた。
あたたかい。高坂がいる。つばさは、痺れる腕を伸ばして、高坂を力いっぱい抱きしめた。
高坂は、相変わらず頼りない腕を回して、大きな手でつばさの背中を撫でた。
「つばさ」
「うん」
「つばさ、好きだ」
「うん」
「でもな、ごめんな、もういいから」
「ん」
「ごめんな、おれ、もう、戻れないんだけど」
「ん」
「ちゃんとわかったから。おれがつばさを好きで、つばさもおれを好きだって」
「うん、うん!!」
「ありがとう、つばさ」
息もできないくらいに強く抱きしめられて、つばさは、壊れたように頷いた。
高坂がいる。こうさかがいる。
一休みしたら、今度はちゃんと守るから。全部わかったから、今度は絶対大丈夫だから。
――だから、行かないで。
言葉にならないそれは、呼吸にもなり切れずに、散り散りになって消えていく。
聞こえていると言うかのように、高坂は優しく背中を叩いた。
小さな子どもをあやすようにゆらゆらと揺らされて、途端に眠気が襲ってくる。抗えないつばさは、ゆっくりと沈んでいく。
なにもかも考えられなくなる前に、祈るように、誓うようにつばさは思う。
未来だって、なんとかしてみせる。だからまだ終わらせないで。
ぬくもりの中で名を呼ばれた気がしたが、どろどろとした眠りの底に引きずられるつばさは、身を丸くするだけだった。