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「僕たちはフィオナ先生を選びます」——書き置きを残して、公爵家の子供が全員いなくなった朝

作者: 歩人
掲載日:2026/03/24

 ヴェルナー公爵邸の正門に、朝靄あさもやが薄く漂っていた。


 早朝五時。使用人たちですら寝静まっているこの時間に、門番のハンスは目を疑った。

 十二歳の少年が、旅装束で立っている。背中には八歳の少女を背負い、右手で五歳の幼子の手を握っていた。


「ルーカス坊ちゃん……?」


 ハンスが声を上げると、少年——ルーカスは静かに頭を下げた。


「ハンスさん、門を開けてください」


 吃音きつおん欠片かけらもない、はっきりとした声だった。数年前まで、自分の名前すら満足に言えなかった少年とは思えない。


「開けてくださいと言われましても……こんな時間にどちらへ?」


「フィオナ先生のところに、行きます」


 背中のエミリアが、寝ぼけたように身じろぎした。


「……ルーカスおにいちゃん、ついた?」


「まだだよ。もう少しだけ寝ていて」


 ルーカスの声は穏やかだった。妹を安心させる、あの声。——私が、教えた声だ。


 ハンスが困惑している間に、マティアスが小さな手でルーカスの服の裾を引いた。


「おにいちゃん。フィオナせんせいのごはん、たべれる?」


「食べられるよ。先生のところに着いたら、きっと作ってくれる」


「にんじんのやつ? ほしのかたちの」


「うん。星の形のやつ」


 マティアスの顔がぱっと輝いた。五歳の子供が、まだ暗い空の下で、こんなにも嬉しそうに笑っている。


「ルーカス坊ちゃん、お戻りください。旦那様に知れたら——」


「知れてかまいません」


 ルーカスは背筋を伸ばして言った。


「書き置きは父上の書斎に置いてきました。『僕たちはフィオナ先生を選びます』と」


 ハンスの顔が蒼白になった。

 けれどルーカスはもう振り返らなかった。まだ暗い街道を、妹を背負い、弟の手を引いて、歩き始めた。


 十二歳の少年の背中は、小さいけれど、真っ直ぐだった。


 ——この話を、私がどうして知っているのかって?


 簡単なことだ。三日後、三人は本当に、私のところに辿り着いたのだから。




 話は三ヶ月前にさかのぼる。


 ヴェルナー公爵家の応接間。暖炉の火が穏やかに揺れていた午後、私の世界は終わった。——いいえ、終わったように見えただけで、本当は始まりだったのだけれど。


「フィオナ。お前との婚約は破棄する」


 エドワード様は窓辺に立ったまま、こちらを見もせずにそう言った。黒髪の隙間から覗く灰色の瞳が、冷ややかに光っている。


「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


「理由?」


 エドワード様は初めて私を見た。その目には、あざけりとも哀れみともつかない色があった。


「子守係風情が、婚約者面をするな。——それが理由だ」


 子守係風情。

 その言葉が、胸の奥の柔らかい場所に、まっすぐ刺さった。


「私はクリスティーナ・ハウザー伯爵令嬢と婚約する。外交力、教養、社交術——公爵夫人に必要な全てを備えた女性だ」


 エドワード様は書類に目を戻した。もう話は終わりだと言わんばかりに。


「お前は子供たちの養育係としてよくやった。感謝はしている。だが、それだけだ。養育係の延長で公爵夫人が務まると思っていたなら、分不相応というものだ」


 感謝。そう、エドワード様にとって、私が子供たちのそばにいた八年間は「養育係としてよくやった」の一言で片づくものだった。


 ルーカスが自分の名前を言えなくて泣いた夜も。

 エミリアが悪夢で叫んで私の服をぐしゃぐしゃに握りしめた夜も。

 マティアスが「にんじんいやだ」と泣きながら、それでも私が星型に抜いた人参を一つだけ食べてみてくれた日も。


 全部、「子守」の一言。


 ——でも、いいの。


 前世の記憶が、私にそうささやいた。

 私は前の世界では保育士だった。この世界に「保育」という概念はない。子供は小さな大人として扱われ、養育係は下女と同じ扱い。でも、私は知っている。子供は小さな大人なんかじゃない。日々成長し、日々変わり、その一瞬一瞬に大人の想像を超えた宇宙がある。


 だから、泣かなかった。


「——承知いたしました、エドワード様」


 私は深く頭を下げた。


「八年間、子供たちのそばに置いてくださり、ありがとうございました」


 エドワード様は少し驚いたように私を見た。おそらく、泣きすがるか、怒り狂うか——そういう反応を予想していたのだろう。


「話が早くて助かる。荷物はすでに馬車に積んである。今日中に出てくれ」


 今日中。

 つまり、子供たちに別れを告げる時間を、わずかしかくれないということ。


「子供たちに、ご挨拶だけさせてください」


「手短にな」


 エドワード様はもう窓の外を見ていた。




 子供部屋の扉を開けると、三人がいつものように過ごしていた。


 ルーカスは窓際で本を読んでいた。エミリアは画用紙に絵を描いていて、マティアスはエミリアの隣で積み木を重ねている。午後の陽射しが斜めに差し込んで、三人の髪をうっすらと金色に染めていた。


 この光景を見るのは、今日が最後。


 そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと締まった。でも、保育士は泣かない。子供の前では、いつだって笑う生き物だ。前世でそう教わった。前世でも、そうしてきた。


 イルマ様——公爵夫人は孫たちを可愛がっていたが、息子の決定には逆らえなかった。今朝も私を見る目が悲しげだったのは、きっと既に聞いていたからだろう。


「みんな、先生からお話があるの」


 私はいつもの笑顔を浮かべた。——いいえ、浮かべたのではない。この子たちの前では、笑顔は自然と浮かぶものだった。


「先生は、今日からちょっと遠いところに行くことになったの」


 ルーカスが本から顔を上げた。深い青の瞳が、まっすぐ私を見た。ルーカスの目はエドワード様の灰色ではなく、亡くなったお母様——アンネ様譲りの深い青だ。アンネ様はマティアスを産んだ後、体が戻らないまま静かに逝ってしまった。あれから五年。三歳だったエミリアは母の死をはっきりとは理解できず、七歳だったルーカスだけが全てを分かっていた。聡明で、繊細で、だから人の嘘にすぐ気づいてしまう。


「……先生が、出て行くの?」


「うん。でもね、ルーカス。先生がいなくても大丈夫。ルーカスはもう、自分の言葉でちゃんと話せるでしょう?」


 出会った頃のルーカスは、「ぼ、ぼぼ、ぼくは」と言うだけで顔を真っ赤にして泣いていた。


 この世界の人たちは、それを「臆病」だと言った。「公爵家の嫡男にあるまじき」と。

 でも、私は知っていた。吃音は臆病でも怠惰でもない。脳と口の連携が追いつかないだけ。前世で学んだ知識が、この世界でも同じだと教えてくれた。


 だから私は歌を使った。

 言葉をメロディに乗せると、不思議と詰まらなくなる。最初は童謡。次に詩の朗読。ルーカスが好きだった英雄叙事詩を、二人で節をつけて読んだ。


 毎朝、起きたら歌う。毎晩、寝る前に詩を読む。

 一年で、短い文は詰まらなくなった。二年で、会話がスムーズになった。三年目、ルーカスは学園の弁論大会で優勝した。


 エドワード様はそのとき、「さすが私の息子だ」と言った。


 ……私の名前は、出なかった。


「先生」


 ルーカスの声が震えた。


「ぼく——僕は、先生のおかげで話せるようになった。それなのに——」


「ルーカス」


 私は膝をついて、目線を合わせた。この子の目の高さに降りる。それが保育士の基本。


「先生はね、ルーカスが自分の力で話せるようになったと思ってるよ。先生はきっかけをあげただけ。頑張ったのは、ルーカス自身」


 嘘ではない。でも全部が本当でもない。きっかけだけでは足りない。毎日の練習、失敗したときの励まし、成功したときの喜び——その全てが積み重なって、今のルーカスがいる。


 でも、それを言っても仕方がない。今の私にできるのは、この子の自信を折らないこと。


「先生、いやだ」


 エミリアが画用紙を抱えたまま、唇を噛んでいた。描きかけの絵が見えた——蜂蜜色の髪の女性と、三人の子供が手を繋いでいる絵。私だ。この子はいつも、私の絵を描いてくれていた。


「新しい人が来るんでしょ。でも、新しい人はマティアスの名前を間違えるの。『マルティン』って呼ぶの」


 ——ああ。

 もうクリスティーナ様が下見に来ていたのか。


「エミリア、新しい方もきっと優しい人だよ」


「ちがう。先生は夜、エミリアが怖い夢を見たとき、ずっと背中をとんとんしてくれた。新しい人はそんなことしない」


 エミリアの夜泣き。あれは本当に大変だった。

 原因は、三歳のときに見た雷——だけではない、と私は思っている。あの頃、エミリアはお母様を亡くしたばかりだった。雷は引き金にすぎない。本当の恐怖は、大切な人がいなくなること。三歳の子供は言葉にできないから、夜に叫ぶしかなかったのだ。


 この世界の医師は「放っておけば治る」と言った。エドワード様も「子供はそういうものだ」で片づけた。

 でも、前世の知識が告げていた。幼少期のトラウマは、放っておいて治るものではない。


 私はまず寝室の環境を変えた。雷の音が聞こえにくいように窓の位置を変え、夜は小さな灯りをつけた。寝る前に毎晩同じ絵本を読み、同じ歌を歌い、背中を同じリズムで叩く。ルーティンを作ることで、エミリアの心に「安全な夜」を刻んでいった。


 半年かかった。

 半年間、毎晩エミリアのベッドの横で眠った。叫び声で目が覚めて、背中をさすって、落ち着くまで歌を歌って。目の下にはいつも隈ができていた。侍女のマルタが心配して「お休みください」と何度も言ってくれたけれど、私は首を振った。この子が安心して眠れるまで、ここにいる。それが保育士だ。


 百八十日の果てに、エミリアはようやく朝まで眠れるようになった。


 エドワード様はある日、何気なく言った。「最近エミリアが静かでいい」と。


 それだけだった。


「せんせい、いかないで」


 マティアスが私の膝にしがみついた。小さな手が、ぎゅっと私のスカートを握る。温かくて、柔らかくて、指の力だけはびっくりするほど強い。子供の手って、いつもそうだ。離したくないものを握るとき、大人が驚くほどの力を出す。


「マティアス……」


「せんせいのごはんがいい。ほしのにんじんがいい。おはなのおにぎりがいい」


 マティアスの偏食は深刻だった。

 野菜は全く食べない。肉も決まった調理法でなければ口にしない。お菓子と白いパンだけで生きていた。


 エドワード様は「甘やかすからだ。腹が減れば何でも食べる」と言って、マティアスの前の皿を下げさせた。

 結果、マティアスは丸一日何も食べずに泣き続けた。あの夜、マティアスが空腹で眠れずに泣いている声を、私は自分の部屋で聞いていた。胸が張り裂けそうだった。


 翌朝、私は別の方法を選んだ。

 裏庭に小さな畑を作った。マティアスと一緒に種を蒔き、毎日水をやり、芽が出るのを一緒に喜んだ。小さな双葉を見つけたとき、マティアスは「うまれた!」と叫んで飛び跳ねた。自分で育てた人参を、自分で抜いて、自分で洗って——私が星の形に型抜きするのを、マティアスは目を輝かせて見ていた。


「マティアスが育てた人参だよ。食べてみる?」


 あの日、マティアスは生まれて初めて人参を食べた。

 星の形の、小さな人参を。口に入れたとき、目をまん丸にして「おいひい」と言ったあの声を、私は一生忘れない。


 それから花の形のおにぎり、動物の形のクッキー。食べることの楽しさを、一つずつ教えていった。一年かけて、マティアスは好き嫌いのほとんどない子供になった。


 ——子守ではない。

 これは、子守なんかではない。


 でも、そんなことをエドワード様に言ったところで意味はない。「保育」という言葉も概念もないこの世界で、私がやっていたことの価値を説明する言葉を、私は持っていなかった。


 通常、養育係は子供が六歳を迎えれば役目を終える。私が八年もの間この子たちのそばにいられたのは、婚約者という立場で例外的に養育を続けることが許されたからにすぎない。そしてその婚約が消えた今、私がここにいる理由も消えた。


「マティアス、先生はちょっと遠くに行くだけだよ。マティアスは強い子だから、大丈夫」


 三人を抱きしめた。三つの小さな体温が、私の腕の中で混ざり合った。ルーカスの本のインクの匂い、エミリアの画用紙の匂い、マティアスの日向くさい匂い。この匂いを、明日から嗅げなくなる。


 泣きたかった。でも泣かなかった。

 泣いたら、この子たちが不安になる。保育士はいつだって、子供の前では笑う生き物だ。


「ルーカス。エミリアとマティアスのこと、お願いしてもいい?」


「……うん」


 ルーカスは涙を拭って、頷いた。十二歳の瞳に、決意のようなものが光っていた。


「お願い。二人を、よろしくね」


 私は三人の頭を一人ずつ撫でて、子供部屋を出た。


 扉を閉めて、誰もいない廊下で、初めて涙を流した。背中越しにマティアスの泣き声が聞こえた。「せんせい、せんせい」と繰り返す声。エミリアが「泣かないの、マティアス」と言っている声。ルーカスが何も言わず、きっと二人を抱きしめているのだろう。


 私が教えたことを、もうこの子たちは自分でできるようになっている。


 ……だから、大丈夫。大丈夫だから。


 涙を拭いて、私は背筋を伸ばした。




 辺境の街グリューネヴァルトに着いたのは、馬車に揺られて一日半の旅路の果てだった。


 婚約破棄の際、エドワード様は手切れ金として少額の支度金を用意していた。それと、実家のメルツ伯爵家から届いた仕送りが、当座の支えだった。


 森に囲まれた小さな街。建物は古びていて、大通りと呼べるものもない。王都の華やかさとは正反対の、静かで素朴な場所。木々の間を抜ける風が湿った土の匂いを運んでくる。


 ここで私は、小さな学び舎を開くことにした。

 前世で保育士をしていた記憶。この世界で八年間、子供たちと過ごした経験。その全てを注ぎ込める場所が、ようやくできる。


 教会の神父様が空き部屋を一つ貸してくれた。壁は煤けていたが、窓は東向きで朝日が入る。子供たちが来る場所には、朝日が必要だ。それは前世からの、私の小さなこだわり。


 最初は散々だった。


「なんだよ、お勉強かよ!」


 初日に来た男の子——トビアス、八歳——は、椅子を掴んで投げた。


 グリューネヴァルトの子供たちは荒っぽかった。貧しい家庭が多く、親は朝から晩まで働いている。子供たちは放置され、街を走り回り、喧嘩と悪戯で日々を過ごしていた。


 椅子が壁にぶつかって大きな音を立てた。他の子供たちが怯えた目で私を見る。四歳の女の子が口をへの字に曲げて、泣く一歩手前の顔をしている。


 ——さて、どうしよう。


 前世の経験が教えてくれる。怒鳴っても無駄。叱りつけても逆効果。この子は注目されたいだけ。自分の存在を認めてほしいだけ。椅子を投げたのは攻撃じゃない。「俺を見ろ」という叫びだ。


「トビアス、すごいね。そんなに遠くまで投げられるんだ」


 トビアスが目を丸くした。


「明日は外でやろうか。どっちが遠くまで投げられるか、競争しようよ」


「……は?」


「先生と勝負。負けたほうが椅子を元の場所に戻す。どう?」


 トビアスは困惑した顔をしていた。怒られると思っていたのだろう。褒められるとも、ましてや勝負を挑まれるとも思っていなかったはずだ。


「……おもしれぇ姉ちゃんだな」


 翌日、裏庭で椅子投げ競争をやった。

 私は思いきり負けた。——いえ、本当に力がなくて負けたのだけれど。


 トビアスは大笑いした。「せんせい弱っ!」と。腹を抱えて笑いながら、目尻に涙を浮かべていた。こういう笑い方をする子は、普段あまり笑っていない子だ。保育士は、笑い方で子供の日常を読む。


 それから約束通り、トビアスは椅子を元の場所に戻した。次の日も、その次の日も。いつの間にか、トビアスは自分から椅子を並べるようになっていた。


「先生、並べておいたよ」

「ありがとう、トビアス。助かるなぁ」


 子供は命令では動かない。自分で選んだと思えたとき、初めて動く。

 前世でも、この世界でも、それは同じだった。


 口コミは少しずつ広がった。

 「あの学び舎に行くと、うちの子が落ち着く」「野菜を食べるようになった」「夜ちゃんと寝るようになった」


 一ヶ月で五人だった生徒は、三ヶ月で二十人になった。


 そんなある日、学び舎を一人の青年が訪ねてきた。


「失礼します。ここが噂の学び舎ですか?」


 亜麻色の髪に、深い緑の瞳。日に焼けた肌に、服にはうっすらとチョークの粉がついている。穏やかだけれど、どこか情熱的な光を宿した目。


「レオン・グリューネと申します。この街で教師をしています」


「フィオナ・メルツです。まだ学び舎と呼べるほど立派なものではないのですが……」


 レオン先生は教室を見回した。壁には子供たちの絵が貼ってあり、棚には手作りの教材が並んでいる。積み木の箱の横に、色とりどりの布で作ったお手玉。窓辺には小さな植木鉢が並び、マティアスに教えたのと同じやり方で、子供たちと種を蒔いた野菜が芽を出していた。


「……これは、すごいな」


 レオン先生の目が、棚の一角に止まった。


「それは?」


「観察記録です。子供たち一人ひとりの、成長の記録ですわ」


 私は革表紙のノートを手に取った。この学び舎で三ヶ月間つけた記録。全ての子供について——いつ何ができるようになったか。何に困っていたか。何が好きで、何が嫌いで、どんなときに笑って、どんなときに泣いたか。公爵家でも同じことを八年間続けていたけれど、あの記録はあちらの書斎に置いてきてしまった。


 レオン先生はノートを受け取り、ぱらぱらとめくった。


 そして、動きが止まった。


「……これは」


 ページを繰る手が、震えていた。


「フィオナ先生。これは——子守の記録じゃない」


 私は首を傾げた。


「一人の人間が、別の小さな人間の人生に、本気で向き合った記録だ」


 レオン先生は顔を上げた。深い緑の瞳が、真っ直ぐ私を見ていた。


「すごいな、これ。俺が十年教師をやってきて、一度もできなかったことだ。一人ひとりをここまで見るなんて……」


 レオン先生は少し間を置いて、声を低くした。


「……三年前、一人だけ救えなかった生徒がいた。家が貧しくて学校を辞めるしかなかった子だ。才能があったのに——俺は結局、教室の中のことしかできなかった。あの子が今どうしているか、俺は知らない」


 その声には、古い痛みが滲んでいた。レオン先生の目が、ほんの一瞬だけ遠くを見た。教壇に立ち続けてきた人が背負っている後悔——それは、私がよく知っている種類の痛みだった。前世でも、救えなかった子はいた。親の転勤で突然いなくなった子。虐待の通報が間に合わなかった子。保育士は無力だ。でも、無力だから何もしないわけにはいかない。


「でも、あなたの記録は違う。教室の外まで、生活の全部まで見ている。——俺がずっとやりたくて、できなかったことだ」


 そう言って、レオン先生は少し恥ずかしそうに笑った。笑うと目が細くなって、日に焼けた頬にえくぼが浮かんだ。


「だから——もし迷惑でなければ、俺にも学ばせてくれないか」


「レオン先生も、十分素敵な先生だと思いますわ」


「いや、俺は教壇の上からしか見ていなかった。あなたは膝をついて、子供と同じ目線で見ている。——教育って、こういうことだったんだな」


 その言葉が、不思議なほど胸に沁みた。


 八年間、誰にも言われなかった言葉。

 「子守ではない」——それだけのことを、この人は記録を読んだだけで理解してくれた。


 ふと、視線が合った。レオン先生が慌てて目をらし、耳の先がほんのり赤くなったのが見えた。

 ——不思議だ。私の頬まで、つられて熱くなる。




 公爵家では、地獄が始まっていた。


 ——というのは、後から聞いた話だ。ルーカスが辿り着いた後、侍女のマルタが手紙で教えてくれた。


 クリスティーナ様は確かに優秀な女性だった。外交力、社交術、教養。公爵夫人として申し分ない。

 ただ一つ、致命的な欠落があった。


 子供を「子供」として見ることが、できなかった。


 この世界では当然のことだ。子供は小さな大人。言い聞かせれば理解する。従わなければ罰する。それが常識。クリスティーナ様は常識通りの対応をしただけ。むしろ、この世界の基準で言えば正しい養育だった。


 でも、子供はそうはいかない。


 最初に崩れたのは、マティアスの食事だった。


 クリスティーナ様は星型の人参なんて作らない。そんなものは「下女の仕事」だ。普通の食事を出し、マティアスが食べなければ下げる。エドワード様の方針と同じ。


 三日で、マティアスはまたパンしか食べなくなった。中庭の菜園は誰にも水を与えられず、マティアスが育てた小さなトマトの苗は枯れた。マティアスはそれを見て、声も出さずに泣いたという。


 次に崩れたのは、エミリアの夜だった。


 クリスティーナ様は寝室に灯りを置かない。「暗闇を怖がるのは甘えだ」と。ルーティンの絵本も歌もない。


 一週間で、エミリアの夜泣きが復活した。三年ぶりの悲鳴に使用人たちが飛び起き、邸宅は深夜に騒然となった。


 最後に崩れたのは、ルーカスだった。


 ルーカスは崩れなかった。むしろ、逆だ。

 十二歳の少年は、静かに怒っていた。


「クリスティーナ様。マティアスの名前は『マティアス』です。『マルティン』ではありません」


「ああ、そうだったかしら。似たようなものでしょう」


 ルーカスの目が、冷たく光ったという。


 ——子供は見ている。全部、覚えている。


 私が前世から持ち込んだ、たった一つの確信。


 そしてある朝、三人は家を出た。




 グリューネヴァルトの学び舎の扉が叩かれたのは、早朝だった。


 私が扉を開けると、そこにいたのは——


「先生」


 ルーカスが立っていた。土埃つちぼこりにまみれた旅装束。背中にはぐっすり眠ったエミリア。右手にはマティアス。ルーカスの靴は泥だらけで、右のかかとがすり減って穴が開いていた。マティアスの頬には小さな擦り傷。エミリアの髪は絡まって、いつも綺麗に結んでいたリボンが片方ない。


 それでも、三人とも——生きていた。


「……ルーカス」


「三日かかりました。初日は王都の門を出てから街道を歩いて、農家の納屋で眠らせてもらいました。二日目は朝から歩いていたら、荷馬車のおじさんが山の麓まで乗せてくれて。三日目は山道を自分たちだけで登りました」


「三日……!」


 私は駆け寄った。三人の顔を見る。疲れている。でも、怪我はない。ルーカスの旅装束のポケットから、折り畳んだ地図が覗いていた。——書斎で写し取ったのだろう。パンと干し肉を包んだ布、水筒、エミリアの寝付きが悪いとき用の小さなランタン。十二歳の少年が考え得る限りの準備を、静かにやっていたのだ。ルーカスの手のひらにはマメができていた。マティアスを抱き上げたり下ろしたりしたのだろう。十二歳の手に、十二歳には重すぎる責任の痕。


「なんで——どうして——」


「書き置きは残してきました。『僕たちはフィオナ先生を選びます』と」


 ルーカスの目から、涙がこぼれた。三日間、泣かなかったのだろう。妹と弟の前では泣けなかったのだろう。十二歳の少年が、三日間ずっと「お兄ちゃん」であり続けた。


「先生、ごめんなさい。勝手に来て。でも——」


「ルーカス」


 私は三人をぎゅっと抱きしめた。


「よく来たね。よく、頑張ったね」


 マティアスが目を覚ました。


「……せんせい?」


「おはよう、マティアス」


「せんせいだ! せんせいだ!」


 マティアスが私の首にしがみついた。小さな腕が首の後ろに回って、力いっぱい抱きつく。エミリアも目を覚まし、私の服を握って泣き出した。


「せんせい、もうどこにもいかないで」


「うん。うん、もう行かないよ」


 レオン先生が奥から飛んできた。


「フィオナ先生、この子たちは——」


「私の……私の大切な子供たちです」


 レオン先生は全てを察したのか、すぐに温かい食事と寝床の準備を始めてくれた。何も聞かず、ただ動いてくれた。学び舎の薪ストーブに火を入れ、毛布を三枚持ってきて、台所でスープを温め始める音が聞こえた。


 ——ああ、この人は。


 教育のことだけじゃない。この人は、「いま何が必要か」をわかる人だ。




 公爵家が動いたのは、その翌日だった。


 早馬のひづめの音が、朝の静寂を引き裂いた。半日で駆けつけたのだろう、馬は汗だくだった。続いて馬車が一台、グリューネヴァルトに到着した。中から降りてきたのは、エドワード様と——公爵夫人、つまり子供たちの祖母にあたるイルマ様だった。


 エドワード様は学び舎の前に立ち、冷たい声で言った。


「フィオナ。子供たちを返してもらう」


 私が答えるより先に、ルーカスが前に出た。


「父上」


 十二歳の少年は、真っ直ぐ父親を見上げた。


「一つ、聞いてもいいですか」


「何だ」


「エミリアの好きな花は何ですか」


 エドワード様の眉が動いた。


「……何の話だ」


「マティアスが昨日できるようになったことは?」


「くだらないことを——」


「くだらなくありません」


 ルーカスの声は震えていなかった。吃音の欠片もなく、はっきりと、まっすぐに。かつて「ぼ、ぼくは」と詰まっていた子が、父親の目を見て、一言も詰まらずに言い切った。


「フィオナ先生は全部知っています。エミリアが好きなのはスミレ。マティアスは昨日、初めて一人で靴紐くつひもが結べました。僕が最初に詰まらずに言えた言葉は、『おはよう』じゃなくて、『フィオナせんせい、おはよう』でした」


 エドワード様は黙った。


「父上は、僕たちの名前を正しく呼ぶ人を追い出して、名前を間違える人を連れてきた。それが、僕たちの答えです」


 沈黙が落ちた。街路を吹く風の音だけが、耳に痛いほど響いた。


 イルマ様が、静かに馬車から一冊の革表紙のノートを取り出した。


「エドワード。これを見なさい」


「何ですか、母上」


「フィオナ嬢が書斎に残していったものです。八年分の——子供たちの成長記録」


 イルマ様はノートを開いた。


「ルーカスの発語練習の経過。エミリアの睡眠記録。マティアスの食事記録。——全て日付入りで、体調の変化、感情の推移、対応方法とその結果まで記されています」


 エドワード様がノートを手に取った。ページをめくる。

 その手が、途中で止まった。


「これは……」


「ただの子守がこんな記録を残しますか」


 イルマ様の声は静かだったが、刃のように鋭かった。


「これは教育の記録です。エドワード、お前は八年間、この子たちのそばにいた女性が何をしていたか、一度でも見たことがありますか?」


 エドワード様の手が止まった。

 ノートのあるページに、小さな手形が押してあった。マティアスが三歳のときのもの。その横に私の字で、こう書いてある。


『今日、マティアスが初めて「おいしい」と言いました。星の人参を食べて。世界で一番きれいな「おいしい」でした』


 エドワード様の顔から、血の気が引いた。——一瞬、その灰色の目に、何か別のものがぎったように見えた。まるで遠い昔の記憶を見ているような、凍りついた表情。

 ノートを持つ手が、かすかに震えていた。指先が、マティアスの小さな手形の上で止まっている。

 ——好きな花を聞かれたことのない子供は、大人になっても、子供に花の名前を聞けない。

 私にはわからない。けれどその震えは、見間違いではなかった。


 私は一歩前に出た。


「エドワード様」


 声は穏やかに。でも、芯だけは折らない。


「子守ではありません」


 あの日言えなかった言葉を、今なら言える。


「私は、この子たちを——育てていたのです」


 レオン先生が、学び舎の入口に立っていた。


「子守ではない。育てていたんだ」


 レオン先生が静かに繰り返した。その声には怒りではなく、確信があった。


 エドワード様はしばらくノートを見つめていた。それから、顔を上げた。

 灰色の瞳には、初めて見る色があった。——困惑と、それから、ほんの少しの後悔。


「……返してもらうと言ったが」


 エドワード様は口を開き、そして閉じた。ルーカスを見て、エミリアを見て、マティアスを見た。


 マティアスは私の後ろに隠れて、スカートの裾をぎゅっと握っていた。


「いやだ。おうちにかえりたくない」


 五歳の子供の、小さな声。

 それは反抗ではなかった。選択だった。


 エドワード様は何も言えなくなった。


 イルマ様が静かに前に出た。


「フィオナ嬢。しばらくの間、子供たちをお願いできますか」


「イルマ様……」


「私は孫たちの幸福を何よりも優先します。公爵は——夫はこの件、私に一任すると仰っています。そして今、この子たちが幸せでいられる場所は、ここのようです」


 イルマ様は穏やかに微笑んだ。


「エドワード。これは命令ではありません。事実の確認です。お前の子供たちは、自分の足で、三日かけて歩いてこの女性のもとに来ました。それが全てです」




 エドワード様の馬車が去っていくのを、私は学び舎の前で見送った。


 隣にはルーカスがいて、私の手にはエミリアの小さな手があって、膝にはマティアスが座っていた。


「先生」


 ルーカスが言った。


「僕たち、ここにいていいの?」


「もちろんだよ」


「……ずっと?」


「ずっとだよ、ルーカス」


 ルーカスは泣かなかった。ただ、少しだけ目を赤くして、私の隣に座った。十二歳の少年は、もう幼い子供ではない。でもまだ、大人でもない。その中間の、一番不安定で、一番繊細な場所にいる。だからこそ、そばにいる大人が必要なのだ。


 レオン先生が温かいスープを持ってきてくれた。


「はい、まずはご飯にしよう。——マティアス君、人参入ってるけど大丈夫か?」


「にんじん? ほしのかたち?」


「いや、普通の形だけど——」


「だいじょうぶ! マティアス、にんじんたべれるもん!」


 マティアスがスプーンを握って、人参をぱくりと食べた。

 レオン先生が驚いた顔をした。


「……本当に食べた」


「ふふ、マティアスは偏食を自分で乗り越えたんですよ。すごいでしょう?」


「すごいな、マティアス君!」


「えへへ」


 マティアスが照れ笑いをした。スプーンを握った小さな手で、もう一切れ、人参をすくう。


 エミリアがスープを飲みながら、ぽつりと言った。


「……ここ、あったかいね」


「うん。あったかいよ」


「先生のそば、あったかい」


 私は、ようやく泣いた。

 子供たちの前だけれど、今日だけは許してほしい。嬉しくて、嬉しくて、どうしようもなかった。


 レオン先生が黙ってハンカチを差し出してくれた。


「……ありがとうございます」


「教育ってさ」


 レオン先生は子供たちを見ながら言った。


「こういうことだったんだな。教壇で何かを教えることじゃなくて、その子のそばにいて、その子を見て、その子が自分で歩けるようになるまで、そっと手を添えること」


「……はい」


「俺、ずっと勘違いしてた。フィオナ先生を見て、やっとわかった」


 レオン先生の深い緑の瞳が、夕日に染まっていた。


「だから——もしよかったら、俺にも手伝わせてくれないか。この学び舎を、一緒に」


 私は涙を拭いて、笑った。


「もちろんですわ。——よろしくお願いします、レオン先生」


 後日聞いた話では、エドワード様は帰りの馬車の中で、一言も喋らなかったという。

 跡継ぎであるルーカスが辺境にいるという事実は、公爵家に波紋を広げた。社交界では囁きが始まった。「公爵家の子供が全員家出した」と。


 クリスティーナ様との婚約は——どうなったのだろう。私は知らないし、興味もない。


 ただ一つだけ。

 数週間後、公爵家から一通の手紙が届いた。差出人はエドワード様。中にはたった一行、こう書かれていた。


『子供たちは元気か』


 私は便箋に、こう返した。


『子供たちは元気です。マティアスは昨日、自分で靴紐が結べるようになりました。エミリアは夜通しぐっすり眠れています。ルーカスは、毎朝学び舎で年下の子供たちに本を読み聞かせています。——どうかご安心ください』


 子供は見ている。全部、覚えている。


 そして、子供は自分の足で、自分の居場所を選ぶ。


 それを私に教えてくれたのは、前世の保育園の子供たちだった。そして今、この世界でもう一度、三人の子供たちが教えてくれた。


 グリューネヴァルトの小さな学び舎から、子供たちの笑い声が聞こえる。


 星の形の人参を食べる子がいる。

 夜泣きを乗り越えた子がいる。

 自分の言葉で語れるようになった子がいる。


 そして——椅子を自分から並べるようになった子がいる。

 窓辺の植木鉢に水をやる子がいる。

 年下の子の手を引いて、「大丈夫だよ」と言える子がいる。


 ——子守ではありません。

 私は、この子たちを育てているのです。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 「子守ではありません。育てていたのです」——この一文を書きたくて、この物語を書きました。星型の人参も、百八十日の夜泣き対応も、歌に乗せた発語練習も、目に見えない仕事です。でも子供だけは知っている。誰が本当に自分を見てくれていたか。三人の家出は反抗ではなく選択でした。世界のどこかで見えない保育を続けている全ての人に届きますように。




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婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。




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― 新着の感想 ―
今まで無給で働かせていたのをはした金で追い出し、無給で三人の子供を育てることになったってことでいいのかな?
クリスティーナと新しく貴族向きの子供を作った方が話が早そう。
貴族家の教育は篩にかける教育だから、そこで育った人にはこう言う育てる教育は、理解出来無い事なんだろうな・・・。
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