月と地球と500万年
夜の海は、不思議なほど静かだった。
波の音だけが、規則正しく防波堤に当たっている。
まるで地球が、ゆっくり呼吸しているみたいだった。
真斗はコンクリートの上に寝転び、夜空を見上げていた。
満月だった。
雲一つない空に浮かぶ月は、やけに大きく、やけに白かった。
隣では、幼なじみの紗奈が膝を抱えて海を眺めている。
「ねえ、真斗」
「ん?」
「月ってさ、少しずつ地球から遠ざかってるらしいよ」
突然の話題だった。
真斗は視線を月に向けたまま答える。
「遠ざかるって、どれくらい?」
「1年で3.8センチ」
「……それ、誤差じゃない?」
「でもね」
紗奈は空を見上げた。
「500万年たつと、19万キロくらい離れるんだって」
真斗は思わず起き上がった。
「19万キロ!?」
「うん」
「今の距離が38万キロくらいだから……」
「ほぼ1.5倍」
「結構遠くなるじゃん」
紗奈は小さく笑った。
「昨日、宇宙の動画見てたの」
「相変わらず変なの見てるな」
「変じゃないもん」
月は静かに浮かんでいた。
まるで、そんな会話を何度も聞いてきたかのように。
海の上に、月の光が一本の道みたいに伸びている。
「ねえ」
紗奈が言った。
「500万年前って、人間が生まれたくらいの時代なんだって」
「マジ?」
「正確には“人類の祖先”だけどね」
「じゃあさ」
真斗は海を見ながら言った。
「その頃のやつらも、この月見てたのかな」
「見てたと思うよ」
「洞窟とかで?」
「多分」
想像すると少し変な感じだった。
毛むくじゃらの祖先が、石を握りながら夜空を見ている。
その視線の先には、今と同じ月がある。
「500万年前の誰かが見た月と」
真斗は言った。
「今俺らが見てる月って、同じなんだな」
「うん」
紗奈は少し嬉しそうに言った。
「時間はめちゃくちゃ離れてるけど」
風が吹いた。
海の匂いが少し強くなる。
遠くで船の灯りが揺れている。
「じゃあさ」
真斗は言った。
「500万年後の人間も、この月見るのかな」
「見ると思う」
「でも今より遠いんだろ?」
「うん」
「ちょっと小さく見えるのかな」
「かもね」
二人は同時に空を見上げた。
月は何も言わない。
ただそこにある。
500万年前も、
500万年後も、
きっと同じように。
波の音が続く。
ざあ、ざあ、と。
「なんかさ」
真斗が言った。
「500万年って長すぎて、逆に実感ないよな」
「わかる」
「人間の人生って80年くらいじゃん」
「うん」
「500万年って、その……」
真斗は少し考えた。
「6万回くらい人生やってやっと届く時間」
「すごい計算」
紗奈は笑った。
「つまりさ」
真斗は肩をすくめた。
「俺たち、めちゃくちゃ一瞬」
「地球から見たら」
紗奈は言った。
「瞬きより短いかも」
二人はしばらく黙った。
海の上にできた月の道が、ゆらゆら揺れている。
「でもさ」
紗奈が言った。
「500万年後の誰かも、同じこと考えてるかもしれない」
「どういうこと?」
「『月って遠ざかってるらしいよ』って」
真斗は笑った。
「同じ会話してる?」
「うん」
「それちょっと面白いな」
500万年前の祖先。
今の自分たち。
500万年後の誰か。
全然違う時代なのに、
同じ月を見上げている。
「ねえ真斗」
「ん?」
「私たちさ」
「うん」
「500万年の真ん中くらいにいるのかもね」
その言葉に、真斗は少し驚いた。
確かにそうだ。
人類の始まりから500万年。
未来に500万年。
その真ん中に、今がある。
自分たちは、その途中にいる。
「なんか」
真斗は言った。
「壮大だな」
「うん」
「でも俺らの人生は80年」
「うん」
「短すぎる」
「うん」
紗奈は少し笑った。
「でもさ」
「なに?」
「その80年の中で」
紗奈は月を見た。
「同じ月を誰かと見る時間があるなら」
少しだけ間を置いて、
「それだけで、十分かも」
と言った。
真斗は立ち上がった。
伸びをする。
「じゃあ帰るか」
「うん」
二人は歩き出した。
防波堤の影が長く伸びる。
後ろには海がある。
前には街の灯りがある。
空には月がある。
その月は、少しずつ遠ざかっていく。
それでもきっと、
500万年前の誰かも、
500万年後の誰かも、
同じように夜空を見上げる。
地球は回り続ける。
月は離れていく。
そして人間は、その間でほんの少しだけ生きる。
500万年という時間の中の、
ほんの一瞬として。




