第8話 安泰な婚約
キャロモンテ侯爵家を出て屋敷に戻ると、折悪しく父の帰宅とかち合ってしまった。
「出掛けていたのか、ティーノ」
「ええ、少し」
父は脱いだジャケットを執事に渡しながらこちらを見る。その視線が頭からつま先まで上下した後、肩のあたりで止まった。なんとなく視線を追いかけてみれば、僕の肩にはピンク色の髪がついていた。
今は気づかない振りで誤魔化すしかない。慌てて払えばやましいことがあるみたいに映るからな。
「お前は自身の評判について耳には入っているのか」
「言いたいヤツには言わせておけばいいんですよ」
またこの話かと肩をすくめる。
周囲の人間は僕がオリエッタに冷たいと言いたいらしい。僕からしたら夫婦の問題に首を突っ込まないでもらいたいものだが。
「改善の意思がないなら、弟に継がせることも考えるぞ」
「キャロモンテ侯爵家との婚姻をふいにしてまでですか? オリエッタとの婚約は僕がミラベラを継ぐことを条件に成立しているのでしょう?」
キャロモンテはミラベラと、ミラベラはキャロモンテと縁を持ちたいんだ。だから基本的に僕とオリエッタの婚約が解消されることはない。
オリエッタは小さな頃から引っ込み思案で、僕がいないと何もできない。僕はそんなオリエッタを可愛いと思っているし、この手で幸せにしてやるつもりだ。
家同士も、僕も、この婚姻を歓迎している。オリエッタだってゆくゆくは宰相夫人になるんだから、僕に選ばれたことを感謝しているに違いない。
だからこの婚約は万全なんだ。
「……その程度の考えでは先が思いやられるな」
「どういう意味ですか」
父はそれには答えず自室へと戻ってしまった。執事も従者もそれに追随し、静かなエントランスホールにひとり取り残される。
「まったく、父上も父上だ。気に食わないことがあるならハッキリ言えばいいのに」
ぼやいても、「おっしゃる通りですわ!」とニコニコ頷くナタリアはいない。
部屋へ戻り、着替えもそこそこに書き物机の引き出しを開けた。
普段は鍵を掛けてあるそのスペースには、オリエッタに関わる全てがある。気鋭の画家に描かせた絵姿でも、そのままの姿を写し取る映写水晶でも、愛しい婚約者が微笑んでいる。それに彼女から届いた手紙はすべて取ってある。
手のひらほどの大きさの絵姿をひとつ取り出して眺めれば、些細な苛立ちなど霧散してしまうというものだ。
「今日はさすがに少し拗ねたか」
思い出すのは先ほどの冷え冷えとしたオリエッタの翡翠の瞳。大方、アクセサリーを買ってやらなかったことに拗ねていたのだろう。
従妹のナタリアには友人が少ないから、何かあれば気を付けてやってくれと言ったのはオリエッタなのに、いくらか面倒を見てやっただけで周囲もオリエッタでさえも眉をひそめる。
だから言ってやったのだ、家庭は羽を休められる場所であれと。男が外に愛人を持つのは普通のことだし、門の外には7人の敵がいると昔から言うだろう、と。
大体、宰相夫人ともなれば国外の要人と顔を合わせる機会も増える。ファッションの流行を押さえておくのは外交にだって有効だ。
何もできない無能だって、それくらいはできるだろうとアドバイスしてやっているのに……。今日の首飾りの件で少しでも奮起してくれればいいんだが――。
さらに映写水晶を慎重に取り出して、スイッチを入れる。これは映写水晶の中でも任意の時間をそのまま記録できる最高級品だ。
水晶の中には幼い男女が向かい合って座る様子が映し出される。しっかり整えられた花壇が背景にあることから、場所はどこかの庭であろう。
『はじめまして、私はオリエッタです。お父様からあなたと仲良くするようにって言われたの』
幼い少女が少年……つまり子どもの頃の僕に微笑みかけた。
そう、これは僕が社交の場に初めて参加した日の映像であり、両親が記念にと記録していたらしい。
『こ、この僕が女なんかと仲良くできるか』
『そうなの? お兄さまは遠征に参加しているから今日は私しかいないのだけど、ううん、どうしましょう、困ったわ』
『……い、いないのならいい。お前で我慢してやる』
『わ、嬉しい。優しいんだね、ありがとう!』
今にも泣きそうだったオリエッタが僕のひとことで笑顔になった。
潤んだ翡翠の瞳も、白い歯を覗かせる小さな唇も、バラ色の頬も全部が完璧で、僕は雷に打たれたような衝撃を受けたのを今でもよく覚えている。
あっちに泉があってねと、歩き出す幼いオリエッタとそれについて行く僕の背を見送ったところで、水晶の映像は終わりだ。
あの日のような完璧な笑顔が見たくて、その後も度々彼女を困らせてみたが……そのうちに困った顔も魅力的なことに気付いた。途方に暮れたような、助けを求めるような、心細そうな表情。これを笑顔に変えられるのは僕だけなのだという特別感。
……ただ最近はそんな顔もあまり見せなくなった。未来の宰相夫人として感情を表に出さないようにしているのだろう。少々つまらないが、いい心掛けではあるから如何ともしがたい。
顔を上げればオリエッタが作ったドライフラワーのリースがある。中でもメインを飾るバラに目が留まり、昨日の出来事が思い出された。
「ジュスト・ブルームめ……」
オリエッタには、誰が婚約者であるかをしっかり教え込まないといけないようだ。




