間に合わなかった手
小さな歪みは、いつも静かに始まる。
リバーシブルの生産が増え、取引も増え、人の動きも増えた。
それ自体は喜ばしいことだったが、同時に判断の数も増えていく。
「この分はどこに回す?」
「次はどれを優先する?」
「今、作るべきか、止めるべきか」
それらは、かつてならかおりが一言で整理できた問題だった。
けれど――
かおりは、口を出さなかった。
その結果、生産の一部が余り、倉庫の一角に積まれたまま動かなくなった。
資材も、人の手も、少しだけ無駄になった。
大きな損失ではない。
誰かが傷ついたわけでもない。
それでも。
「……かおりさんが言ってくれてたらな」
誰かの、つぶやき。
それを、かおりは聞いてしまった。
胸の奥が、ちくりと痛む。
(言えた。止められた。修正も、早かったはず)
自分の判断が正しかったことを、否定はできない。だからこそ、苦しかった。
だが、その夜。
リーナは、住民を集めて淡々と話した。
「今回の判断は、私の責任です」
「余った分は、次の取引に回します」
「失敗ではありますが、致命的ではありません」
誰も責めなかった。
誰も、かおりの名前を出さなかった。
問題は、ゆっくりと処理されていった。
かおりは、その様子を少し離れた場所から見ていた。
(……壊れていない)
胸の痛みは消えなかったが、同時に、確かな事実もそこにあった。
リーナは、その夜遅くまで灯りを消さなかった。
机の上には帳簿と、簡単なメモ。
完璧とは言えない数字。
けれど、自分の判断の痕跡。
側近が、控えめに口を開いた。
「……かおり様に、ご相談なさらなくてよろしかったのですか?」
一瞬、リーナの手が止まる。
だが、すぐに首を振った。
「いいえ」
はっきりとした声だった。
「彼女に聞けば、もっと良い答えは出たでしょう」
「けれど、それをしてしまえば……」
リーナは、ペンを置き、前を見据える。
「この領地は、彼女がいないと立てなくなります」
側近は、息を呑んだ。
「彼女は、助ける力を持っている」
「だからこそ、使わない覚悟も持っている」
リーナは、微かに笑った。
「私は統治者です」
「判断を誤る責任は、私にあります」
その背中は、以前よりも少しだけ大きく見えた。
誰かに寄りかからず、誰かを言い訳にせず、
決める者の背中だった。




