芽を見る人たち
伯爵とリーナは、村――と呼ぶにはまだ新しすぎるその場所を、魔術師の爺さんに案内されて歩いていた。
建物はまだ少ない。
だが、人の気配があり、生活の音があり、そして――考えられた配置がある。
「……なるほどのう」
ハインリヒは、腕を組みながら低く唸った。
「悪知恵ばかり働かせていた頃のお前からは、想像もつかん場所じゃな」
「先生……」
ハインリヒは苦笑する。
「そんな昔の話を。しかもリーナの前で」
「フォフォ」
爺さんは、悪戯っぽく笑った。
「しかしまあ……」
一度、足を止め、倉庫を中心に広がる生活圏を見回す。
「先生が、ここに居られたと知った時は肝を冷やしましたぞ」
「ほう?」
「正直に言えば、報告書を読んだ時点で“嫌な予感”はしておりましたが」
ハインリヒは、ゆっくりと息を吐いた。
「魔石の再利用、魔力集束、生活魔法の拡張……どれも単体なら偶然と言えなくもない。しかし、それらが一か所に集まっている」
「フォフォ。察しが良くなったな」
「それはもう。先生に叩き込まれましたから」
二人のやり取りを、リーナは静かに聞いていた。
「……でも」
リーナが、控えめに口を開く。
「お父様。先生は“引退した”と仰っていましたよね?」
「ああ」
爺さんが頷く。
「わしはもう表舞台には立たん」
そう言ってから、杖で地面を軽く突いた。
「自由にしておっただけじゃ」
ハインリヒは、真剣な表情になる。
「ですが……先生。ひとつだけ、約束を」
「なんじゃ?」
「かおり殿には……先生の正体は、伏せておいてください」
一瞬、爺さんの目が鋭くなる。
だが、すぐにいつもの飄々とした表情に戻った。
「……うむ。承知した」
「ありがとうございます」
リーナも、小さく頭を下げた。
「……わたくしも、秘密は守ります」
「よい子じゃ」
三人は再び歩き出す。
作業場。
井戸。
配管。
建築途中の家々。
「報告書では理解した“つもり”でしたが……」
ハインリヒは、正直に言った。
「実際にこの目で見ると……」
言葉を探し、そして苦笑する。
「ひっくり返りますな」
「じゃろ?」
爺さんは、満足そうに頷く。
「ここから、世界が変わる」
その言葉は、断言だった。
ハインリヒは、しかしすぐに続ける。
「……だが」
爺さんが、先に言った。
「今はまだ、“発芽したばかりの小さな芽”じゃ」
二人の視線が、自然と合う。
「分かるな?」
「はい」
ハインリヒは、迷いなく頷いた。
「焦れば、踏み潰される。守らねばならない段階です」
「そうじゃ」
そして、爺さんはリーナを見る。
「リーナちゃんも、分かるか?」
リーナは、一瞬だけ考え、それからはっきり答えた。
「……はい」
「私は、これまで本で多くを学んできました」
視線を前に向ける。
「でも、ここにあるものは……本で読んだだけでは、分からない物ばかりです」
風の流れ。
人の動線。
道具の配置。
魔力の使い方。
「便利で、優しくて……でも、間違えれば怖い」
リーナの胸の内で、言葉が静かに形を成していく。
(これが……私の領地)
――リーナ視点――
正直に言えば、私はまだ夢を見ているような気分だった。
補助器具を付けて歩けるようになったこと。
この場所に立っていること。
そして、私がここの責任者に立候補したこと。
どれも現実なのに、どこか遠い。
でも。
この村を歩いていると、不思議と胸がざわつく。
人が動いている。
目的を持って、声を掛け合って。
かおりさんの指示で、皆が迷いなく動く。
(……強い人だ)
力があるからじゃない。
命令が厳しいからでもない。
“考えている”のだ。
皆がどう動けば楽か。
どこが危険か。
何を優先すべきか。
(私は……どうだろう)
本なら読める。
数字も政策も、理屈なら分かる。
でも、この場所で生きる人たちの“生活”を、私はまだ知らない。
(だから……)
私は、決めた。
急がない。
奪わない。
誇らない。
この芽が育つのを、邪魔しない。
(父は、政治を見る人)
(先生は、危険を知る人)
(……私は)
芽のそばで、学ぶ人になろう。
歩けるようになった足に、そっと力を入れる。
「……この場所、好きです」
思わず、口から零れた。
ハインリヒが驚いたようにこちらを見る。
「リーナ?」
「はい。まだ何も分からないけれど……」
小さく、でもはっきりと言う。
「ここで、学び育てたいです」
爺さんが、満足そうに笑った。
「うむ」
「それでよい」
「芽を見る者が、増えるのは良いことじゃ」
三人の歩みは、ゆっくりと続いていく。
まだ小さな芽を囲むように。
踏まぬように。
焦らぬように。
世界が変わる、その前の――静かな時間の中で。




