早馬、到着予定
朝の空気は、いつもと変わらず澄んでいた。
湯気の立つ配管からは、規則正しい音がしている。温水は問題なく回っているし、昨夜仕込んだ簡易弁もきちんと仕事をしている。畑の土も程よく湿っていて、芽吹いた謎野菜たちは小さく葉を広げていた。
「……うん、今日は本当にのんびりしよ」
かおりは、そう呟いた。
ここ最近は、水、井戸、配管、温泉、大衆浴場と、息つく暇もなかった。今日は久しぶりに、何も“作らない日”にしようと決めていたのだ。
その空気を切り裂いたのは、遠くから聞こえた蹄の音だった。
「……?」
ミリャが真っ先に顔を上げる。
「早いな……いや、速すぎる」
森の奥から、一直線に近づいてくる気配。
見張り役が慌てて声を上げた。
「早馬だ!」
その言葉に、場の空気が一変した。
かおりの胸が、きゅっと縮む。
「……まさか」
間もなく、埃をまとった騎馬が広場に飛び込んでくる。
馬上の男は、止まると同時に息を整え、周囲を見回した。
「ここが……例の場所か」
そして、封をされた文を差し出す。
「侯爵家より。伯爵殿からの早馬だ」
一瞬、静寂。
爺さんが、静かに前へ出た。
「……来たか」
かおりは、無意識に拳を握っていた。
文の内容は、簡潔だった。
・伯爵本人が来訪すること
・到着予定は――三日後
・護衛は最小限
・視察ではなく、正式な礼訪問
「三日……!」
誰かが息を呑む。
「早すぎるだろ……」
「まだ浴場も途中だぞ」
「見せていいのか?あの辺も?」
ざわつく中、爺さんが杖を軽く鳴らした。
「慌てるな」
一言で、場が静まる。
「来るのは止められん。ならば、整えるだけじゃ」
視線が、かおりに集まった。
「……私?」
「他におらん」
爺さんは、淡々と言う。
「お主が“主”じゃ。嫌でもな」
かおりは、深く息を吸った。
「……わかりました」
逃げない、と決めた声だった。
そこからは、慌ただしかった。
建築途中の場所は、目隠し用の板を追加。
魔力装置の一部は、布で覆い、説明が必要な物は倉庫奥へ移動。
大衆浴場の工事現場も、導線だけを整え、立ち入り制限をかける。
「見せるものと、見せないものを分ける!」
かおりは指示を飛ばす。
「生活部分は見せていい。でも、実験系は絶対に触らせないで!質問は全部、私か爺さん経由!」
弟子たちも、ミリャたちも、動きが早い。
この場所が、もう“共同体”になっていることを、かおりは改めて感じた。
「……みんな、ありがとう」
思わず零れた言葉に、ミリャが笑う。
「何言ってんだ。もう仲間だろ」
そして、三日目。
朝から、空気が違った。
鳥の声が少なく、風も静かだ。
遠くの街道から、規則正しい蹄の音が近づいてくる。
「……来るぞ」
森の端から現れたのは、整った隊列。
派手さはないが、無駄のない動き。
中央に、一台の馬車。
「……あれが、伯爵」
かおりは、背筋を伸ばした。
馬車が止まり、扉が開く。
降り立ったのは、落ち着いた雰囲気の男だった。
派手な装飾もなく、だが立ち姿だけで“格”が伝わる。
男は周囲を見回し、ゆっくりと言った。
「……ここが」
一拍置き。
「娘が、世話になった場所か」
かおりは、一歩前に出る。
「はじめまして。ここを管理しています、かおりです」
伯爵は、真っ直ぐに彼女を見た。
その視線は、値踏みではなかった。
試すようでもなく、ただ――父親の目だった。
「……噂以上、だな」
短く、そう言って。
こうして。
のんびり生活のはずだった日常は、
静かに、しかし確実に次の段階へと踏み込んだ。
この場所に、ついに“外の世界”が到着したのだった。




