お風呂に入ろう
久しぶりに身体を動かしたせいか、その夜は驚くほどよく眠れた。
目を覚まして、かおりは天井を見上げる。
「……ぐっすり寝たわ」
身体を起こしてみるが、思ったほどの疲労は残っていない。筋肉痛も、あるにはあるが動けないほどではなかった。
「昨日あれだけ動いたのに……」
軽く肩を回しながら首を傾げる。
「よく寝たから?それとも、環境が変わったせい?」
理由は分からないが、体調は悪くない。なら、気にしないことにする。
立ち上がって、ふと現実的な欲求が浮かんだ。
「……お風呂、入りたい」
汗と土の匂いが、今になって気になり始める。シャワーでもいいが、できれば湯船に浸かりたい。
倉庫の中を見回し、記憶を辿る。
「そうだ……!」
以前、店でお風呂と給湯器を交換したとき、回収した部品があったはずだ。まだ使えるから、と倉庫の奥にまとめて置いていた。
「確か、この辺……」
棚の裏、少し埃を被ったスペース。
「あった!」
そこにあったのは、簡易浴槽と小型の給湯ユニット。業務用ほどではないが、家庭用としては十分なサイズだ。
「これを付ければ……入れる!」
一気にテンションが上がる。
が。
「……重っ」
浴槽に手を掛けた瞬間、現実が戻ってきた。
びくともしない。
「無理無理。これ、一人で運ぶ重さじゃない」
引きずろうとしても、床との摩擦でほとんど動かない。
「うーん……」
そこで、ふと昨日のことを思い出す。
青白い炎。
魔力。
イメージ。
「……ん?」
一拍おいて、かおりは口元に手を当てた。
「魔法で……浮かせない?」
視線が浴槽に戻る。
「持ち上げるなら……風?」
ミリャが言っていた。生活魔法は、イメージが大事だと。
「この場合……」
かおりは目を閉じる。
「上から持ち上げるんじゃなくて……下から」
頭に浮かんだのは、昔見た映像。
「……ホバークラフトみたいに」
浴槽の下に、均一な風を送り込む。
支えるように、押し上げる。
指先に魔力を集め、集中する。
「……風」
一瞬、空気が揺れた。
次の瞬間。
「……あ」
浴槽が、ふわりと浮いた。
床から数センチ。完全に持ち上がっているわけではないが、重さが消えている。
「……できた!」
驚きと嬉しさが同時にこみ上げる。
そのまま、ゆっくりと押す。浴槽は抵抗なく滑るように動いた。
「すご……」
設置予定の場所まで運び、そっと魔法を解く。浴槽は、音も立てずに床に収まった。
給湯ユニットも、同じ要領で移動させる。
「……これは、便利すぎる」
一息ついて、ふと気づく。
「……ん?」
眉をひそめる。
「昨日、なんでこれ思いつかなかったのよ」
木を切るとき。
丸太を運ぶとき。
あれだけ苦労したのに。
「風で……転がすとか、浮かせるとか……」
頭を抱える。
「慣れ、ね。完全に」
魔法を“特別なもの”として扱っていたせいで、選択肢から外れていたのだ。
「……道具なのに」
かおりは苦笑した。
「次からは、ちゃんと使おう」
設置が終わった浴槽を見下ろす。
まだ湯は張っていない。それでも、想像するだけで心が緩む。
「よし。今日は、ちゃんとお風呂入ろう」
異世界での生活は、まだ始まったばかりだ。
けれど、こうして一つずつ。
“当たり前”を取り戻していく。
それもまた、生きていくための大事な作業なのだと、かおりは実感していた。




