在庫管理は、嫌いじゃない。
棚の番号、品名、数量、消耗期限。頭の中で項目を読み上げながら、かおりは倉庫の通路を進んでいた。店の奥にあるこの倉庫は、父から継いだ何でも屋の心臓部だ。電球、延長コード、簡易工具、ネジやボルト、パッキンに潤滑油。壊れた家電から取り外した部品も、整然と箱に分けて保管してある。
何でも屋の店員、かおり。
趣味は幅広く浅くがモットー。だからこそ、電気も機械も「簡単なものなら」直せる。専門家には敵わない。でも、困っている人の前で手が止まらない程度には、経験を積んできた。
この店は、父から受け継いだ家業だ。従業員は十名。年上ばかりで、最初は正直やりにくかったが、今では在庫の癖も、常連の顔も、皆が自然に共有できている。自分も負けていられない、と、こうして定期的に倉庫へ潜り込んで整理をするのが、かおりの日課だった。
「……よし、次は配線材」
棚の奥に手を伸ばした、その瞬間だった。
視界が、白く弾けた。
蛍光灯の光とは違う。もっと柔らかく、輪郭を溶かすような光が、倉庫全体を包み込む。音が消え、足元の感覚が抜け落ちる。
「え?」
短い声を上げたきり、かおりの意識は途切れた。
次に気づいたとき、冷たい床の感触が背中にあった。
「……ここ、どこ……?」
ゆっくりと身を起こす。頭は痛くない。めまいもない。ただ、妙に空気が澄んでいる気がした。
見回せば、そこは間違いなく倉庫だった。棚も、床の傷も、貼りっぱなしの注意書きも、見慣れたまま。倒れた拍子に、工具箱が一つ横に転がっている。
「夢……じゃない、よね」
頬をつねってみる。ちゃんと痛い。
なら、さっきの光は何だったのか。考えても答えは出ない。ひとまず、店の方へ行こう。皆、心配しているはずだ。
倉庫と店舗を繋ぐドアに手を掛ける。いつものように、重さを感じる前に押し開いた。
――ざわり。
風の音が、流れ込んできた。
「……え?」
ドアの向こうには、床もカウンターもなかった。
広がっていたのは、濃い緑の森だった。見上げるほど高い木々。陽光が葉の隙間から差し込み、土の匂いが鼻を打つ。
思考が、止まる。
「……は?」
反射的にドアを閉め、もう一度開く。だが、何度確認しても結果は同じだった。倉庫の外は、完全に森の中だ。
恐る恐る、一歩だけ外へ出る。地面は柔らかく、靴底に土が付く。振り返れば、そこには“建物”があった。
壁も屋根も、確かに自分の店の倉庫だ。ただし、周囲に街はなく、道路もない。あるのは、森、森、そして森。
「……建物は、無事。でも……場所が、違う?」
胸の奥が、遅れてざわつき始める。
異世界転移。
最近、従業員の誰かが休憩中にそんな言葉を口にしていた気がする。冗談半分で聞き流したはずなのに、今になって、妙に現実味を帯びて思い出された。
「まさか……ね」
そう呟きながらも、否定しきれない自分がいる。
かおりは深く息を吸い、もう一度倉庫の中を見渡した。棚に並ぶ在庫。工具。部品。これらは、確かに自分の知っている“現実”の名残だ。
「……とりあえず、状況確認」
声に出すことで、気持ちを落ち着かせる。
ここがどこであれ、生きている。建物もある。倉庫もある。何より――自分は、何でも屋の店員だ。
「何とか、なるでしょ」
そう言って、かおりは倉庫のドアをしっかりと閉めた。
こうして彼女は、倉庫ごと異世界へと転移した。




