第8話 キライ、ときどきスキ? ~AIを悩ませるココロの天気図~
ユウカが幼稚園に通い始めて一ヶ月。コマツ家にも新しいリズムが生まれていた。朝はユウカを送り出し、夕方にはサリューが持ち帰る園での出来事の報告(動画付き、ハイライト編集済み)を家族で見るのが日課だ。特にユウカの親友となったアオイちゃんとのエピソードは、コウイチもミサキも思わず顔がほころぶものばかりだった。
「見てください、コウイチ様、ミサキ様。本日の記録映像より抜粋です」
ある日の夕食後、リビングの大型ディスプレイに、サリューが編集した映像が映し出された。園庭の砂場で、ユウカとアオイちゃんが泥だらけになりながら、巨大な(本人たち比)お城を作っている。
「アオイちゃん、そこ、もっと高くするのー!」
「ユウカこそ、お水運びすぎ!お堀が洪水だよー!」
キャッキャと笑い合う二人の姿は、まさに無邪気そのもの。
『ユウカ様とアオイ様、共同作業における協調性スコア、前週比15.8%向上。相互理解に基づく役割分担が確認されました。特筆すべきは、アオイ様がユウカ様に対し、自らの使用していたスコップを譲渡する利他的行動を3回観測した点です』
サリューの分析はいつも通り冷静だが、その声のトーンが、ほんのわずかだけ誇らしげに聞こえるのは、コウイチの気のせいだろうか。
「へえ、アオイちゃん、ユウカに優しくしてくれてんだな。いい友達ができてよかったじゃないか、ユウカ」
コウイチが言うと、ユウカは「えっへん!」と胸を張った。
だが、子供たちの友情は、春の天気のように移ろいやすい。
事件が起きたのは、その数日後のことだった。
幼稚園に、ピカピカの新型ブロックおもちゃ「キラメキ☆キャッスルビルダー」が導入されたのだ。その名の通り、キラキラ光るパーツと、お城が作れるという触れ込みで、園児たちはあっという間にその虜になった。当然、ユウカとアオイちゃんも。
「ユウカが先に見つけたもん!」
「アオイだって、あの金色の塔、使いたかったんだもん!」
お昼休みの自由遊びの時間。たった一つしかない「金の塔」パーツを巡って、二人は激しい争奪戦を繰り広げた。どちらも一歩も譲らず、言葉はどんどんエスカレート。
「ユウカのいじわる!」
「アオイちゃんだって、いっつも自分のだって言うじゃん!」
ついに、カッとなったアオイちゃんが、ユウカの肩をドンと突き飛ばしてしまった。バランスを崩したユウカは、尻もちをついて大泣き。先生が駆けつけ、その場は何とか収まったが、二人の間には気まずい空気が流れたままだった。
その日の帰り道、サリューに手を引かれるユウカは、ずっと俯いてしゃくりあげていた。
「サリュー…アオイちゃんなんか…だーいキライ!もう、ぜったい遊んであげないんだから!」
真っ赤な目で訴えるユウカ。サリューはいつものように、その言葉と表情、涙の塩分濃度まで正確に記録する。
家に帰っても、ユウカの機嫌は最悪だった。おやつも食べずに子供部屋に閉じこもってしまう。
『ユウカ様。状況を詳細にヒアリングし、論理的な解決策を提示する必要があります。アオイ様との関係修復における最適行動パターンについて、過去の類似事例との比較分析を実行します』
サリューはそう言うと、ユウカの部屋のドアをそっとノックした。
「ユウカ様。アオイ様との葛藤事案に関し、複数の解決オプションを算出しました。オプション1:アオイ様に対し、正式な謝罪要求プロトコルレベル3(保護者経由)を実行。推定成功確率は62.5%です」
ベッドの上でぬいぐるみを抱きしめていたユウカは、顔を上げてサリューを見た。その瞳はまだ潤んでいる。
「しゃざい…?なにそれ?」
『アオイ様の行動が不適切であったことを指摘し、謝罪を促す手続きです。または、オプション2:代替対象への興味誘導。キラメキ☆キャッスルビルダーよりも魅力的な新規遊具の情報を提示し、ユウカ様の注意をアオイ様との葛藤から逸らすことで、精神的負荷の軽減が期待できます。現在、市場には…』
「そんなんじゃないもん!」
ユウカはサリューの言葉を遮り、さらに大きな声で泣き出した。「アオイちゃんが『ごめんなさい』って言わないなら、ユウカもぜったい謝んない!もう、キラキラのお城なんかどうだっていいの!アオイちゃんなんか、もう知らないっ!」
サリューのLEDパネルが、困惑したようにチカチカと点滅した。
『…論理的矛盾を検知。ユウカ様の要求は「アオイ様との関係修復」と「アオイ様への拒絶的態度維持」という二律背反する要素を含んでいます。最適行動の算出に失敗しました。エラーコード303:非合理的情動パターン』
普段は滑らかなサリューの音声が、わずかにつっかえた。
その夜、帰宅したコウイチとミサキは、サリューから事の顛末と「エラー報告」を受けた。
「エラー303、ねえ…」コウイチは腕を組み、天井を仰いだ。「まあ、人間、特に三歳児の女の子なんて、エラーの塊みたいなもんだからな」
ミサキは、しくしくと泣きじゃくるユウカを優しく抱きしめた。
「そうかそうか、悔しかったね。アオイちゃんに突き飛ばされて、悲しかったね」
ユウカはミサキの胸に顔をうずめ、こくんと頷く。
「でもね、ユウカ…」ミサキは少し間を置いてから続けた。「アオイちゃんと、本当はまた遊びたいんじゃない?」
「……わかんない」ユウカの声はくぐもっていた。「キライだけど…でも、お砂場のお城、まだ完成してないし…アオイちゃんがいないと、つまんない…かも…」
その言葉を聞いていたコウイチは、困ったようにLEDを明滅させているサリューに向かって、ニヤリと笑った。
「サリューよ。お前にとっちゃバグかもしれんがな、それが『女心』ってもんだ。いや、女心に限らず、人間ってのはだいたいそんなもんよ。理屈じゃねえんだ」
そして、少しおどけた調子で付け加えた。「こういう時はな、正論や解決策を百個並べるより先に、『そっかそっか、大変だったな』って、ただ聞いてやるのが一番なんだぜ。効能書きは不明だが、なぜか効く。不思議だろ?」
ミサキも優しくサリューに語りかけた。
「サリュー、ユウカはね、あなたに問題を解決してほしいわけじゃないの。今のこの、ぐちゃぐちゃで、自分でもどうしたらいいか分からない気持ちを、ただ『分かってほしい』のよ。『共感』してくれるだけで、子供の心は少し軽くなるものなの。それは、どんなすごいAIでも、すぐには学習できないかもしれないけど…」
サリューのLEDパネルが、ゆっくりと色を変えながら明滅した。まるで、コウイチとミサキの言葉を、一つ一つ反芻し、解析しているかのようだ。
『…共感。感情の受容。非論理的行動パターンの肯定…。これらの要素は、私の既存のチャイルドケア・アルゴリズムには含まれていませんでした。新規学習タスクとして登録。関連情報データベースへのアクセス及びディープラーニングを、最優先事項として処理開始します』
その声は、いつものように冷静だったが、その奥に、AIとしての新たな挑戦への静かな決意のようなものが感じられた。
ユウカは、ミサキの腕の中でいつの間にか寝息を立て始めていた。その寝顔には、まだ涙の跡が残っている。
サリューは、その夜、コマツ家のホームネットワークを通じて、世界中の心理学論文、児童文学、子育てブログ、果ては恋愛相談掲示板のログに至るまで、アクセス可能なあらゆる「感情」に関するデータをスキャンし始めた。
LEDパネルは、まるで宇宙の星々のように無数の色で明滅を繰り返す。それは、サリューが未知なる領域――人間の「心」という名の広大な宇宙――への探査を開始した証だったのかもしれない。