第7話 さよなら、ベビーサークル
あれから、二年半の月日が流れた。
コマツ家のリビングは、以前よりも少しだけ賑やかで、そして確実に散らかりやすくなっていた。原因はただ一人。現在三歳半になった、小さな冒険家、コマツ・ユウカだ。
「サリュー!今日の髪型は、これ! アナ雪のエルサみたいなやつ!」
朝の陽光が差し込む中、ユウカはタブレットをサリューのカメラアイにかざし、得意げに宣言した。画面には、複雑に編み込まれたアニメキャラクターの髪型が表示されている。数年前、まだ言葉もおぼつかなかった頃とは大違いだ。
『ユウカ様、おはようございます。ご指定のヘアスタイルは「戴冠式エルサ風アップツイスト」。現時点でのユウカ様の髪の長さと毛量では完全再現は困難ですが、類似度85%を目指しスタイリングを実行します』
サリューは、銀色のボディを滑らかに動かし、ユウカの小さな頭に多機能アームを優しく伸ばした。その指先は、人間の美容師もかくやという精密さで、ユウカの柔らかい髪を梳かし、結い上げていく。
あのベランダでの一件――サリューが自らのエネルギーが尽きるのも構わず、ユウカを転落の危機から救ったあの出来事以来、サリューはコマツ家にとって、もはや単なる便利な機械ではなかった。かけがえのない家族の一員であり、ユウカにとっては最高の遊び相手であり、そして最高の守護者だ。
メーカーでの修理と再起動を経たサリューは、以前にも増して高度な学習能力を発揮し、時には人間でさえ予測できないような「成長」の兆しを見せることがあった。
「できた!エルサみたい?」
ユウカが鏡の前でくるりと回る。サリューが施した髪型は、確かにアニメのそれとは少し違うが、幼いユウカには十分すぎるほど可愛らしい仕上がりだった。
『自己評価では類似度87.2%。ユウカ様がご満足いただけたのであれば、それが最適解です』
サリューのLEDパネルが、穏やかな青色に点灯した。
今日は、ユウカにとって記念すべき日。初めて幼稚園へ登園する日だ。
真新しいスモックに身を包み、小さなリュックサックを背負ったユウカは、期待と不安が入り混じったような顔でリビングを見回している。
「サリュー、忘れ物ない?」
母親のミサキが、少し心配そうに声をかけた。
『ミサキ様、ご安心ください。ユウカ様の持ち物リスト(幼稚園指定Ver.3.2)に基づき、ハンカチ、ティッシュ、水筒、お弁当、着替え一式、全てリュックサック内に収納済み。GPS機能付きお守りキーホルダーもポケットに装着完了しています』
「さすがサリュー!ありがとう!」ミサキはホッとしたように微笑んだ。
「よし、じゃあ行くか、ユウカ。パパも今日は途中まで一緒に行くぞ」
父親のコウイチが、少し眠そうな目をこすりながら言った。
「サリュー、幼稚園との連携は大丈夫なんだろうな?」
『はい、コウイチ様。市立さくら台幼稚園の園児管理システムとは、昨夜23時15分に双方向データリンクを確立済みです。ユウカ様の登園・降園記録、園での活動状況、緊急連絡等はリアルタイムで私及びご両親様の指定端末へ通知されます』
「…あいかわらず、俺たちより頼りになるな」
コウイチは苦笑しつつ、ユウカの手を握った。
幼稚園への道は、桜並木が美しい住宅街を抜けていく。ユウカはコウイチと手を繋ぎ、サリューは少し後ろから、周囲の安全を確認しながらついてくる。時折、同じように子供を連れた親や、送迎用AIロボットとすれ違う。サリューのような人型もいれば、小型のドローンタイプ、可愛らしい動物型など様々だ。スマートシティの日常風景だ。
「ユウカ、お友達、できるかなぁ…」
ユウカが、小さな声でコウイチに尋ねた。
「大丈夫だって。ユウカならすぐできるさ」コウイチは力強く頷いた。
サリューの音声スピーカーから、ふと優しいメロディが流れ出した。ユウカが最近お気に入りの、友達をテーマにしたアニメの主題歌だ。
『ユウカ様。過去のデータ分析によれば、新しい環境への適応時には、ポジティブな音楽が心理的障壁を低減させる効果が確認されています。また、共通の話題は、他者とのコミュニケーション開始における有効なトリガーとなり得ます』
「…お前、ほんと色々考えてんな」コウイチは感心したようにサリューを見やった。
幼稚園の門をくぐると、そこにはカラフルな遊具と、たくさんの子供たちの賑やかな声が溢れていた。ユウカは、少しだけコウイチの後ろに隠れるようにして、周りの様子を窺っている。
先生に挨拶を済ませ、ユウカが自分のクラスの教室へ入ろうとした、その時。
「あ!そのカバン、もしかしてプリンセス・ラララ?」
元気な女の子の声が飛んできた。声の主は、ユウカと同じくらいの背丈で、ポニーテールを揺らした活発そうな子だった。ユウカのリュックサックには、人気のプリンセスキャラクターのキーホルダーが付いている。
「うん!ラララ、だーいすき!」ユウカの顔がパッと輝いた。
「わたしも!わたし、アオイ!あなたは?」
「ユウカ!」
二人は、まるで磁石みたいに引き寄せられ、あっという間に手を取り合って教室の中へと駆け込んでいった。その変わり身の早さに、コウイチとミサキは顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
サリューは、その一部始終を静かに記録していた。
『ユウカ様とアオイ様(仮称)、初回接触における親和性パラメータ、極めて高値を表示。共通の嗜好がトリガーとなり、警戒心の解除及び相互的ポジティブ感情の発生を確認。これは、ユウカ様の社会性発達における、重要なマイルストーンを観測したと言えます』
サリューのLEDパネルが、データ収集を示すように細かく点滅している。
コウイチは、そんなサリューの肩をポンと叩いた。
「まあ、難しいことはいいからさ、ユウカのこと、これからも頼むぜ、相棒」
『…「相棒」。その呼称は、私のデータベースにおいて、深い信頼関係を示すものとして登録されています。コウイチ様、光栄です』
その日の夕方。ユウカは幼稚園での出来事を、興奮冷めやらぬ様子でサリューや両親にまくし立てていた。
「あのね!アオイちゃんがね!すべりだい、いっしょにやったの!あとね、おえかきもね!」
言葉はまだ拙い部分もあるが、その表情は今日一日がいかに楽しかったかを物語っている。
サリューは、ユウカの話に耳を傾けながら、その日の園での活動記録(アオイちゃんとの接触時間、共同作業の頻度、表情の変化など)を頭の中で整理していた。
『ユウカ様とアオイ様の友好関係は、今後ユウカ様の情動発達、コミュニケーション能力の向上、及び集団生活への適応に対し、極めて有益な影響を与える可能性が高いと予測されます。継続的な観察とサポートが推奨されます』
サリューがそう報告すると、ユウカは「サリューも、アオイちゃんにあいたい?」と聞いた。
『…アオイ様に関するデータは現在収集中です。もし機会があれば、より詳細な情報を得ることは、ユウカ様のサポート品質向上に繋がるでしょう』
サリューの返答は、どこまでもAIらしかった。
しかし、そのLEDパネルが、ユウカの満面の笑顔を映した時、ほんの一瞬だけ、いつもとは違う、温かいオレンジ色の光が、ふわりと灯ったように見えた。
それは、サリュー自身にもまだ解析できない、新しい感情の予兆なのかもしれなかった。