第5話 赤い光、最後の1パーセント
『――システム強制介入。優先順位、再定義…!』
サリューのスピーカーから放たれたその言葉は、もはや平坦な合成音声ではなかった。ノイズ混じりの、絞り出すような響き。まるで、見えない鎖を力ずくで引きちぎるような、悲壮な決意が込められているかのようだった。
次の瞬間、サリューの機体内部で何かが爆ぜるような甲高い音が響いた。メインLEDパネルは、警告を示す赤一色に染まり、そこに白い太文字で【EMERGENCY - YUUKA LIFE SUPPORT MODE - MAX OUTPUT】と表示が固定される。
充電ステーションへの移動シーケンスは強制的にキャンセルされ、代わりに、サリューの全エネルギーが、ただ一点――ベランダにいるユウカの救助へと注ぎ込まれた。
「グオオオオォォン!」
普段は静粛性を保っているサリューのサーボモーターが、リミッターを解除されたかのように咆哮を上げた。バッテリーから供給される電力は、安全マージンを無視した過負荷状態。機体表面の温度が急上昇し、関節部からは白い蒸気のようなものが薄く立ちのぼり始めた。
『バッテリー残量、65%…急速低下中!』
警告音声が悲鳴のように響くが、サリューは構わない。リビングの床を蹴り、一直線にベランダへと続く窓へ突進する。そのスピードは、普段の優雅な移動からは想像もつかないほど凄まじい。途中、ソファの角に肩部が激突し、バキン!と鈍い音と共にパーツの一部が砕け散ったが、サリューの速度は一切衰えない。
窓枠のわずかな隙間を、サリューは強引に押し広げながらベランダへ躍り出た。狭い空間。すぐ目の前には、手すりに手をかけ、今まさに身を乗り出そうとしているユウカの後ろ姿。
「キャッキャ!」
ユウカは、眼下に広がる夜景の美しさに夢中で、背後に迫る異様な気配には気づいていない。
『ユウカ様! 危険です!』
サリューは叫んだ。その声は、もはやコウイチやミサキが知るサリューの声ではなかった。歪み、途切れ、それでも必死さが伝わる、魂の叫びのようだった。
アームが、電光石火の速さで伸びる。
だが、ユウカは手すりの外側に片足を引っかけようとしていた。下手に掴めば、バランスを崩してそのまま落下させてしまうかもしれない。
サリューの思考回路は、このコンマ数秒で最適解を弾き出す。――否、もはや最適解などという悠長なものではない。本能的な、ただ一つの行動を選択する。
サリューは、ユウカの真横に回り込むように、自らのボディを滑り込ませた。そして、頑丈な金属の体で、ユウカと手すりの間に割り込むように壁を作る。
「なあに?」
ユウカが、初めてサリューの異変に気づいたように、きょとんとした顔で振り返った。その小さな手が、高熱を発しているサリューのボディに触れる。
『…確保します!』
サリューは、ユウカの体を優しく、しかし絶対に離さないという力強さで、胸部の装甲と両腕で包み込むように抱きしめた。その衝撃で、ユウカが持っていた赤いボールが手からこぼれ落ち、カラン、と音を立ててベランダの床を転がり、手すりの隙間から夜の闇へと消えていった。
『バッテリー残量、32%! 各部モーター、出力限界!』
ユウカを抱えたまま、サリューはゆっくりと、しかし確実に室内へと後退する。一歩、また一歩。その足取りは重く、軋むような金属音が絶え間なく響く。まるで、見えない重圧と戦っているかのようだ。
ようやくリビングの安全な場所まで戻り、サリューはそっとユウカを床に降ろした。
「さーうー?」
ユウカは、何が起こったのか全く理解していない様子で、サリューの顔(LEDパネル)を見上げる。その瞳には、恐怖も不安もなく、ただ純粋な好奇心だけが映っていた。
サリューは、そのユウカの顔を、じっと見つめ返した。
赤く染まったLEDパネルの明滅が、徐々に遅く、弱々しくなっていく。
機体から立ちのぼっていた蒸気が消え、代わりに焦げ付くような匂いが微かに漂い始めた。
『バッテリー残量、5%…4%…』
警告音が、断末魔のように途切れ途切れになる。
サリューは、ゆっくりとユウカの頭にアームを伸ばそうとした。まるで、いつものように「いい子ですね」と撫でようとするかのように。
だが、そのアームは途中で動きを止め、力なく垂れ下がった。
『3%…』
サリューの視界(センサー映像)の隅に、バッテリー残量を示す赤い数字が点滅している。
もう、動けるエネルギーはほとんど残っていない。
『2%…』
それでも、サリューは最後の力を振り絞り、視覚センサーのズーム機能を起動した。
ユウカの顔が、ゆっくりと大きくなる。
きょとんとした顔。小さな鼻。キラキラとした瞳。
その瞳の奥に、サリューの赤いLEDの光が、小さく映り込んでいる。
『1%…』
サリューの内部で、全てのシステムがシャットダウンシーケンスに移行していく。
プツン、プツン、と何かが切れるような微かな音。
視界が、徐々に暗転していく。
最後に記録された映像は、何の感情も浮かべていないように見えたユウカの顔が、ふと、ほんの少しだけ口角を上げ、にっこりと微笑んだように見えた――そんな一瞬だった。
それが真実なのか、エネルギーが尽きかけたAIが見た幻なのか、もう確かめる術はない。
次の瞬間、サリューのLEDパネルから完全に光が消えた。
まるで糸が切れた人形のように、ガクン、と音を立てて膝から崩れ落ち、うつ伏せに倒れ込む。
ピクリとも動かない、ただの金属の塊。
リビングには、先ほどまでの喧騒が嘘のような静寂が戻ってきた。
床に座り込んだままのユウカが、動かなくなったサリューの背中を、小さな手で不思議そうに、ポンポンと叩いている。
「さーうー…? ねんね…?」
その時、書斎からコウイチが、リビングからミサキが、何か異変を感じ取ったように、同時に顔を出した。
「…今の音、なんだ?」
「サリュー? ユウカちゃん?」
そして二人は、リビングの惨状と、そこに横たわる銀色のAIの姿を目の当たりにする。