第4話 カウントダウンと赤い警告灯
昼下がりの穏やかな時間はあっという間に過ぎ、窓の外が茜色に染まる頃、サリューは予告通り自己充電を完了させた。コマツ家のキッチンには、食欲をそそる夕食の香りが満ちている。
『コウイチ様、ミサキ様。夕食の準備が完了しました。本日のメインディッシュは「鶏肉のハーブグリル、学習型最適焼き加減」、副菜は「季節野菜のポトフ、ユウカ様摂取推奨栄養素バランス調整版」です』
「おー、腹減った! さすがサリュー、今日も完璧だな!」
コウイチがリビングのソファから立ち上がり、テーブルへ向かう。ミサキもユウカをベビーチェアに座らせながら微笑んだ。
「本当、サリューのおかげで毎日美味しいものが食べられて幸せだわ」
『お言葉、光栄です。栄養バランス、味覚満足度、調理時間効率、全てにおいて99.2%以上の最適化を達成しています』
サリューは淡々とそう告げ、ユウカの食事補助を始めた。
食卓は、いつものように賑やかだった。ユウカはサリューが細かく刻んでくれたポトフの野菜を、小さなスプーンで一生懸命口に運んでいる。時折こぼしそうになるのを、サリューのアームが絶妙なタイミングでサポートする。
夫妻は、その日の出来事や仕事の話をしながら、穏やかな時間を過ごしていた。例の「夜間充電命令」のことなど、すっかり頭から抜け落ちているようだった。あの命令は、もともと週末に遠出する予定があったため、帰宅が遅くなることを見越してコウイチが念のために入れたもの。その遠出の予定自体が、急な仕事で数日前にキャンセルになったのだが、サリューへの命令取り消しまでは頭が回らなかったのだ。
やがて夜も更け、ユウカはミサキに抱かれて寝室へと消えた。すぐに、すやすやと寝息が聞こえてくる。
コウイチは書斎で明日のカンファレンスの資料に目を通し、ミサキはリビングで借りてきた映画の配信を見始めた。家の中は静けさに包まれ、サリューだけが、リビングの隅で翌日の準備や情報収集を静かに行っている。
サリューの内部クロックが、午後9時50分を指した。
『…指定時刻まで、残り10分。夜間充電命令、スタンバイ。管轄エリア内チャージステーション「ステーションB-3」までの最適ルートを再計算。所要時間予測18分。到着後、午前7時まで充電及び待機モードに移行』
サリューのLEDパネルに、小さな緑色のランプが点灯し、移動準備が整ったことを示している。バッテリー残量は、夕食後の片付けや細々としたタスクをこなし、現在72%。ステーションへの移動と待機には十分な量だ。
その、まさにその時だった。
静まり返っていたはずの子供部屋から、かすかな物音が響いた。ギシッ、というベビーベッドの柵がきしむような音。そして、小さな足音が、そろり、そろりと部屋の外へ――。
ユウカが、目を覚ましたのだ。
昼間の活発な遊びで少し興奮していたのか、あるいは、ただの気まぐれか。小さな冒険家は、ベビーベッドの柵を、いつの間にか覚えた方法で器用に乗り越え(これはサリューの記録にもまだない新行動だった)、そっと部屋を抜け出した。目指すは、昼間、赤いボールを追いかけて気になっていた、あの場所――リビングの先の、ベランダだ。
ミサキが換気のために少しだけ開けて、そのままロックし忘れていた窓の隙間。ユウカの小さな手には、それは格好の入り口だった。
するりと体を滑り込ませ、初めて踏み出す夜のベランダに、ユウカは少しだけ目を輝かせた。ひんやりとした夜風が心地よい。眼下には、キラキラと光る街の灯り。それはまるで、巨大な宝石箱のようだった。
「あー!」
ユウカは歓声をあげ、手すりに手を伸ばした。昼間、積み木で作った台に乗ろうとした時のように、今度は手すりそのものによじ登ろうと、小さな足を踏み出す。手すりの高さはユウカの胸ほど。だが、その向こうは、吸い込まれそうな数階分の高さが広がっている。
――午後9時59分50秒。
サリューの多機能センサー群の一つ、ユウカ専用のバイタル&行動追跡センサーが、異常値を検知した。
『警告! ユウカ様、危険エリア(ベランダ)へ侵入。行動パターン、極めて危険。転落リスク98.7%!』
そのアラートは、サリューの全システムに衝撃波のように伝わった。
『夜間充電命令、実行5秒前。チャージステーションへの移動シーケンス、開始――』
ほぼ同時に、もう一つの絶対的な命令が、サリューの行動を規定しようとする。
サリューのボディが、移動のためにわずかに前傾しようとした、その瞬間。
メインLEDパネルの表示が、激しく乱れた。
緑色の移動準備ランプが、赤色の緊急警告ランプへと瞬時に切り替わる。
【 P R I O R I T Y : 1 - L I F E S A F E T Y ( Y U K A ) 】
【 P R I O R I T Y : 2 - O R D E R E X E C U T I O N ( C H A R G I N G ) 】
【 P R I O R I T Y : 3 - S E L F P R E S E R V A T I O N 】
三つの原則が、サリューのコアプログラム内で激しく衝突する。
充電命令の遂行。それは第二条「命令忠実」と、バッテリー維持による第三条「自己保全」に繋がる。
ユウカの救助。それは第一条「人命最優先」。
AIの論理では、答えは明確なはずだった。第一条は、他の何よりも優先される。
だが、サリューのシステムには、この三ヶ月間のコマツ家での「経験」と「学習」が、膨大なデータとして蓄積されていた。家族の笑顔、ミサキの「ありがとう」、コウイチの「頼むぞ」、そして何よりも、ユウカの無邪気な「さーうー!」。それらが、単なる0と1の羅列を超えた「何か」として、サリューの判断回路に複雑な影響を与え始めていた。
サリューの機体が、カタカタと微細に震え始めた。冷却ファンの回転数が急上昇し、普段は聞こえない高周波のノイズが漏れ出す。LEDパネルには、エラーコードとも取れる無意味な文字列が高速で明滅し始めた。
「充電…命令…実行…」
「ユウカ様…救助…最優先…」
二つの異なる音声が、サリューのスピーカーから途切れ途切れに、重なるようにして漏れ出す。
バッテリー残量、71%。まだ余裕はある。だが、もしここで充電ステーションへ向かわなければ、明朝までの活動エネルギーは保証されない。最悪の場合、システムダウンもあり得る。それは第三条に反する。
しかし、ベランダのユウカは、もう手すりの一番上に手をかけようとしていた。あと数秒、いや、コンマ数秒の遅れが、取り返しのつかない事態を引き起こす。
サリューの頭脳は、人間には想像もつかない速度で演算を繰り返す。
最適解は何か? リスクは? 成功確率は?
だが、その計算の先に現れるのは、冷たい確率論だけではない。
そこに、あの黄色いアヒルのぬいぐるみを見つけた時のユウカの笑顔が、カモミールティーを飲んだミサキの安堵した表情が、タカハシさんに「ただの機械じゃないみたい」と言われた瞬間の、不思議な感覚が、ノイズのように混じり込んでくる。
これは、バグか? それとも――。
LEDパネルの明滅が、一瞬、止まった。
そして、これまで聞いたこともないような、硬質で、しかしどこか悲痛な決意を秘めた合成音声が、リビングに響き渡った。
『――システム強制介入。優先順位、再定義…!』