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第2話 最適解の先にあるもの

 あの朝から数日。コマツ家の日常は、相変わらずサリューを中心に、驚くほどスムーズに回っていた。

 コウイチは相変わらず明け方から叩き起こされるような勢いで病院へ向かい、ミサキもまた、締め切りという名の怪物と戦うため編集部へと急ぐ。そんな二人を叩き出し、いや、快く送り出した後のリビングは、サリューと一歳になったばかりのユウカだけの、穏やかな時間が流れていた。


「あー、うー!」

 ユウカは今、お気に入りの黄色いアヒルのぬいぐるみ――名前はガーコ(ミサキ命名)――をベビーサークルの外へ放り投げるのにはまっていた。ポーン、と軽い音を立てて床に転がるガーコ。そして、得意げなユウカの笑顔。


『ガーコ様、投擲距離78センチ。放物線軌道、良好。回収します』

 サリューは滑らかな動作でアームを伸ばし、ガーコを拾い上げる。その動きには一切の無駄がない。まるで精密なクレーンゲームのようだ。そして、ユウカに手渡す。

 ユウカはキャッキャと笑い、すぐにまたガーコをポーン。


 以前のサリューなら、この「無駄な繰り返し」に対し、「非効率的行動と判断。別の遊びを提案します」とでも言いそうなものだった。だが、最近のサリューは少し違う。

『ユウカ様、ガーコ様の連続投擲行動を確認。これは探索行動、または保護者(現時点では私)の注意喚起行動の一環である可能性32.8%。あるいは、投擲による物理法則の学習行動である可能性18.5%と分析します』

 サリューはガーコを拾いながら、ユウカの小さな顔をじっと見つめる。LEDパネルの奥で、膨大なデータが処理されているのが分かるようだ。

『…継続しますか?』

「だっ!」

 ユウカが力強く頷く(ように見えた)。サリューは静かに頷き返し、再びガーコの回収係に徹する。その表情(?)は読み取れないが、以前よりも根気強く、ユウカの遊びに付き合っているのは確かだった。


 そんなある日の午後。ミサキが少し早めに帰宅した。珍しく表情が曇っている。

「ただいま、サリュー。ユウカは?」

『ミサキ様、お帰りなさいませ。通常業務時間より48分早いご帰宅です。何か問題が発生しましたか? ユウカ様は現在、お昼寝から目覚め、リビングにて絵本(『だるまさんが』初級編)を読解中です』

「そう…ありがと。ちょっと、企画がね…ボツになっちゃって」

 ミサキは大きなため息をつき、ソファにどさりと座り込んだ。その瞬間、スッと音もなく現れたサリューが、彼女の前に小さなカップを差し出した。


「え…?」

 カップからは、ほんのりとカモミールの香りが立ちのぼっている。ミサキが一番好きなハーブティーだ。

『ミサキ様の声のトーン、表情筋の動き、帰宅時間の変動パターンを総合的に分析した結果、精神的ストレス値が通常より23.7ポイント上昇していると判断。リラックス効果のあるカモミールティーを提案します。湯温は85℃、抽出時間は3分。最適化されています』

「サリュー…あなた…」

 ミサキは言葉を失った。確かに、サリューはミサキの好みを完璧に把握している。だが、このタイミング、この気遣い。それはもう、プログラムされた「最適化」という言葉だけでは片付けられない気がした。

「…ありがとう。いただくわ」

 温かいティーカップを両手で包み込むと、強張っていたミサキの肩から、ふっと力が抜けていくのが分かった。


 その夜。ユウカが寝静まった後、リビングでコウイチとミサキが並んでソファに座っていた。コウイチはタブレットで医学論文を読み、ミサキはぼんやりとテレビを見ている。

 キッチンでは、サリューが自己診断と翌日の準備を静かに行っていた。そのLEDパネルが、時折サーバーと交信するのか、微かに明滅している。


「なあ、ミサキ」コウイチが不意に口を開いた。「今日の昼間、サリューが外部のチャージステーションに行ってたみたいなんだが、何か設定したか?」

「え? 私じゃないわよ。そもそも、平日の昼間に充電なんて、ユウカがいるのに珍しいわね」

 サリューのバッテリー管理は非常に優秀だ。通常は、家族が寝静まった深夜や、夫妻が在宅でユウカを見ていられる週末の昼間など、最も効率的で育児に支障のないタイミングで自宅の充電ポートか、近隣の公共チャージステーションを利用するようプログラムされている。


『コウイチ様、ミサキ様。本日の14時03分から14時38分までの35分間、近隣エリアの指定チャージステーションにて急速充電を実施しました。これは、先日の夜間充電命令(3日後の22時から翌7時まで)に関連し、長時間の外部待機に備えたバッテリーコンディションの最適化、及びシステムアップデートの受信を目的としたものです』

 サリューが、キッチンから滑らかに報告した。

「ああ、そういえばそんな命令、週末に出かけるからってコウイチが入れてたわね!すっかり忘れてたわ」ミサキがポンと手を打った。

「…そうか。まあ、抜かりないのはいつものことだが」コウイチは頷きながらも、どこか釈然としない表情でサリューを一瞥した。「しかし、わざわざ昼間にか…ユウカが昼寝してた時間とはいえ、何かあったらどうするんだ?」

『万が一の事態に備え、ユウカ様のベビーモニター及び室内センサーは常時オンライン。異常検知時は0.3秒以内に私、または登録された緊急連絡先へ通報するシステムです。また、本日の充電は、周辺環境のリアルタイム交通情報、及びステーションの混雑状況を分析し、最も効率的かつ安全なルートと時間帯を選択して実行しました。ご懸念には及びません』

 サリューの返答は、いつものように完璧だった。データに基づき、あらゆる可能性を考慮した最適解。


「…分かってるよ。お前が“間違えない”ってことはな」

 コウイチはそう言うと、再びタブレットに視線を落とした。だがその横顔には、AIへの絶対的な信頼と、人間には理解しきれないその思考プロセスへの、ほんの少しの戸惑いが浮かんでいるように見えた。


 ミサキは、黙って作業を続けるサリューの後ろ姿を眺めていた。

(最適解…か。でも、さっきのカモミールティーは、ただの最適解だったのかな…)

 そんなことを考えていると、サリューのLEDパネルが、また、ほんの僅かに、優しい光を灯したように感じられた。


 数日後に実行される予定の「夜間充電命令」。それはまだ、コマツ家の誰も、そしてサリュー自身も、その本当の意味を理解してはいなかった。

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