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――もしこの世に、天才という言葉を実現させうる人間がいるとするならば、それはきっと、彼のことを言うのかも知れない。
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彼は背の高い木々に囲われた山の中で白い息を洩らし、大量の酸素を取り込んだ。北海道の秋の夜は寒い。ただし彼の体は激しい運動によって、汗が零れるほどの熱を伴っている。彼が強く踏みしめるたび、地は足跡を形成していく。
彼の視界の奥には雲によって遮られた月光が微かに垣間見える。実に雲行きが怪しい。じき雨が降るだろう。この頃、オホーツク海付近のココは秋雨前線の影響を受け、降水量が増えやすい地域でもある。
それから時たま手元のApple Watchで己が正しい道、つまり南西方向へと進んでいるか確認する。
こうして、開拓されずにある山を三十分ほど駆けると、遠くから自動車の排気音が聞こえてきた。次第に照明具から発せられたオレンジ色の光が木々の隙間から透けて見えてくる。
計画の終わりも近い。
踏みしめる一歩一歩に力が籠る。しかし彼はふと、足を止めた。
既にこの世を去った、娘の声が聞こえた気がしたのだ。
「………………」
彼は顔に深い悲しみを残したまま、首を左右に動かし、公道に躍りでる。開けた道に路駐させてあるMAZDA3に乗り込んだ。体はシートに溶けるかのように一気に脱力した。
……復讐は終わった。終わったのだ! だというのに、どうしてこうも、気持ちが晴れないのだろうか。
彼はステアリングに握り拳をぶつける。何度も、なんども……。
動作が止むと、彼はしばたたかせた瞳を拭い、両手で眉を上に押しのけた。近くで笑ってくれた娘の存在を思い起こし、彼はフロントグラスに反射する顔を見た。娘の姿はやはり見つけられなかった。ブレーキとクラッチペダルを踏み、エンジンボタンに手を伸ばした。
「……ようやく終わったよ、朱里」
エンジン音で落ち着きを取り戻した彼は、クラッチを一速に繫げ、車を発進させた。