転
*
「おつかれー。どうだった? 大学の授業」
「ああ……いや、うん……」
約束通り、理梨奈はカフェテラスで俺を待っていた。カフェでコーヒーを飲むためか、今はマスクをつけていないし、キャップも被っていない。
「え、何か問題あった? 授業、難しかったの?」
「いや。その逆っていうか……特に何もせずに、1時間30分が終わったよ。これで良かったのか?」
「んふふ。まあ、そういうものだよ。とにかく、出席さえしてればOK」
「そっか……」
確かに、問題はなかった。大きな問題はなかったが、授業の最中、一つだけ気になることがあった。
「なぁ、理梨奈。お前さぁ……いつも人形と一緒に授業受けてるって話、本当なのか?」
「えっ!? 誰から聞いたの、それ」
「俺の後ろに座ってた茶髪の女がさ、ヒソヒソ声で話してたんだよ。『この子、いつも淡見絆磨のぬいぐるみを隣に置いて授業受けてるヤバい子なんだよ。ちょっとおかしいよね』って」
「茶髪の女? それって……あの人?」
理梨奈が指差した方には、例の茶髪女がいた。カフェの入り口付近にあるテーブルで、女三人くらいで談笑している。理梨奈(今の俺)と比べると、一般的な大学生らしい格好をした普通の女だ。
「は? 全然普通じゃないから。あいつのバッグ、よく見てよ」
理梨奈に言われて茶髪女のバッグを見ると、いくつかの缶バッジやアクリルキーホルダーが付けられていた。とはいえ、目立つほどではない。
「あれ、広崎レゼンのグッズだよ。レゼン推しだよ、あいつ」
「へー、そうなんだ。人気あるよなぁ、うちのリーダーは」
「バッグにあんなの付けて推しアピってくる女とか、超痛くない? 『同じレゼン推しの人に気づいてほしいですーキャピ』みたいな。私、ああいうのほんと無理」
「……ん? んん?」
「お前も同じようなもんだろ」と、俺はそう思った。
理梨奈の独自基準では、あれはファンとしてダメらしい。
「ってゆーか、レゼン推しって、いつも自己主張が強すぎて、空気とか全然読めないよね。広崎レゼンもそういうやつだし、キモい人にはキモいファンが集まるのかなー」
「おい、何もそこまで言うことはないだろ。人それぞれに好きなアイドルがいて、それぞれの応援スタイルがある。それでいいじゃないか」
「応援するにしても、マナーが悪い人はダメだよねって言ってるの。ああいうのが、ファンの間でトラブルになったりするんだから」
「は……!? ファンクラブを追放されるようなやつが、何を言ってるんだよ……!!」
「……!」
思わず、大きな声を出してしまった。理梨奈も俺の強い言葉に驚き、目を丸くしていた。
カフェ内の注目は、俺たちがいるテーブルに集まっている。
「ファンクラブが……何? 私、間違ったことしてないよ? ただ、レゼンのファンクラブの人たちが調子に乗った発言をしてたから、それを指摘したらケンカみたいになって、絆磨ファンクラブからもウザがられて追放されただけ」
「とにかく、他のファンと揉め事を起こすなよ……! 俺を応援してくれるのは嬉しいけど、他の人とトラブルになるようなことはやめてくれ!」
「だーかーら、私からは何もしてないってば! だいたい、今回にしたって、先に悪口言ってきたのは茶髪女の方じゃん!!」
「それは、お前がっ……!」
「ねぇ、絆磨ぬいと一緒に授業受けて何が悪いの!? 一緒にご飯食べて何が悪いの!? 一緒にお風呂入って、おんなじベッドで寝て、何がダメだって言うのっ!?」
俺と同じくらい、理梨奈もヒートアップしている。言ってる内容は無茶苦茶だが、ようするにあの茶髪女にバカにされて悔しいから、大声で喚き散らしているのだ。
そして、不毛な言い争いをしているうちに、理梨奈の苛立ちは頂点に達した。
「……っ!」
サングラスを取り、テーブルにバチンと叩きつける。騒ぎを聞きつけ、「お客様、お静かにお願いします」と、カフェの店員が慌てて駆け寄ってきた。
「もういいっ!!」
「おい、どこに行くんだよっ……!」
「……ああいう茶髪女が好きなんでしょ、絆磨くんは。だから、私じゃなくてあの人の味方になるんだ」
「はあ!? またおかしなことを……!」
「絆磨くんなら……! 絆磨くんなら、私のこと、分かってくれると思ったのにっ!!!」
その言葉の勢いのまま、理梨奈はカフェを飛び出してしまった。
「お、おいっ! 待てよっ! 戻ってこいっ!」
俺がそう叫ぶと、理梨奈はカフェ内に戻ってきた。
「えぇっ!? 戻ってくんのかよっ!」
しかし、理梨奈は俺が座っているテーブル席には戻ってこずに、カフェのレジでしっかりと支払いを済ませてから、さっきの茶髪の女に向かって叫んだ。
「広崎レゼンって、ファンの子に手ぇ出してるからね!! あと、薬物にも手ぇ出してるってウワサもあるから!! あんなやつのファンとか、ほんとヤバいからねっ!!」
負け惜しみ。というか、もはや広崎レゼンに対する名誉毀損。
そんな言葉だけを残して、理梨奈は再びカフェを飛び出していった。言われた方の茶髪の女は、怒るわけでもなく、ただただびっくりしていた。
*
「へっくちゅん……!」
とにかく後を追わないと。そう思って、俺も急いでカフェを出たが、付近に理梨奈らしき成人男性の姿はなかった。
「マズい……! あいつ、もう変装をしてないぞ。騒ぎが起こるのも、時間の問題だ……!」
悪い予感しかしなかった。
活動休止中のアイドル淡見絆磨が、こんなところで何をしているのか。言い訳なんて、まるで思い付かない。せめて目立たない行動をしていてほしいが、坂芝理梨奈という女には、その期待が全くできない。
「どうする……。どこに……行けば……」
理梨奈を捜そうにも、その宛がない。
そもそも俺は、この大学のどこに何があるかを全然知らないんだ。歩けば歩くほど、希望が見えなくなっていく。
「はぁ、はぁ……くそっ……! 汗が、止まらないっ……!」
今日の天気は晴れ。昨日は雨だったので、今日はなんだか蒸し暑い。
額や背中や太ももに、ダラダラと汗をかいているが、この汗が暑さなのか焦りなのかも、もう分からない。とりあえず、メイクはまだ崩れていない。
「うおっ……!?」
厚底のブーツが歩きにくくて、ついにドテッと転んでしまった。道行く大学生たちは、転んだ女を障害物のように扱い、みんな器用に避けて通っていった。
(ああ……なんて、惨めなんだ……。どうしてこんな、情けない姿になってしまったんだろう……)
立てない。
立ち上がる気力が、今の俺にはない。
「こんな女と……入れ替わりさえ、しなければ……へっくちゅん! あ……くしゃみ、が、へっくちゅん!」
突然、くしゃみが止まらなくなった。今になってやっと気づいたが、この身体は風邪を引いていたんだ。昨日、雨に濡れたせいで。
(なんか……もう、無理だな……。少しだけ、このまま……休もう……)
畳み掛けるような苦難の連続に、ついに気持ちまで切れてしまった。人々の往来の真ん中で、倒れたまま立ち上がることができず、俺は無防備にもそのまま眠ってしまった。
────
「……!」
そして、パチリと目を覚ましたのは、ベッドの上だった。俺の隣では、淡見絆磨クッションが添い寝をしてくれている。
(そうか……帰ってきたのか……)
今朝と同じ場所に。当然、ワープをしたわけではないので、道で倒れてる俺を「あいつ」が見つけて、ここまで運んでくれたのだろう。
「痛って……!」
近くにいるはずの「あいつ」を探すため、身体を起き上がらせようとしたが、できなかった。肩や腰が、ズキッと痛んだからだ。節々の痛みは、風邪の症状。
仕方なく、首を左右に動かすと、ベッドのそばで正座している「あいつ」を見つけた。
「運んでくれたのか。俺を」
「うん……」
「そうか。ありがとう、理梨奈」
感情を込めずに、俺は礼を言った。運んでくれたことには「ありがとう」だけど、そもそもこうなった原因は……。
その「ありがとう」の冷たさは、理梨奈にも無事に伝わった。
「……絆磨くん、怒ってる?」
「うん」
「私のこと、恨んでる?」
「うん」
「辛くて、苦しくて……もううんざりだって、私に言いたい?」
「うん」
俺が言いたいことを、ちゃんと分かってくれていた。
「ごめん……なさい……」
涙を流しながら頭を下げた理梨奈を見て、俺はなんだかホッとした気持ちになった。今までは、得体の知れない女だったけど、今やっと、その正体が分かったのだ。
(そうか……! 理梨奈は、夢を見るタイプのファンだったんだ……!)
つまり理梨奈は、アイドル淡見絆磨との「疑似恋愛」を楽しんでいるファンなのだ。歌が上手いから好き、ダンスが上手いから応援する……とかではなく、「この人はもう私の彼氏」だと、理梨奈は思い込んでいる。
他のファンやアイドルを鬱陶しく感じるのは、絆磨以外の登場人物がいらないから。俺に対してリスペクトを欠いている理由は、「アイドルとファン」ではなく「彼氏と彼女」の距離感だと思っているから。俺にイタズラをしかけたり困らせようとするのは、自分だけを見てほしくて、自分だけに構ってほしいから。
「ごめんなさいっ……。絆磨くん、ごめんなさい……」
言ってしまえば、妄想が激しいだけ。ウザくてキツくて痛々しくて、いろんな人から嫌われるタイプの女だ。でも──。
「理梨奈……!」
「ご、ごめんなさいっ。ごめんなさい……絆磨くんっ」
「謝るなら、もっと近くで言ってくれ。そこじゃ聞こえないよ」
「え……? えっ、でも、絆磨くんの近くって……」
「俺の隣。クッションをどかせば、二人で寝られるだろ」
そういう女の子たちに、幸せな夢を見せてあげるために、俺たちアイドルがいるんじゃないか。
「絆磨くん、あのっ、本当に……いいの……?」
「お前のベッドだろ。いいかどうかは、お前が決めるんだよ」
「そ、そっか……。えへへ、じゃあ……いいんだ……」
ごそごそと、でっかい身体で俺の隣に入ってきた。思ったよりベッドがせまくて、俺と理梨奈は自然に密着していた。
「ごめんね……。今までのこと、全部」
「……」
「私、もう反省したからっ。絆磨くんの気持ち、全然考えてなかったなって」
「……」
「き、絆磨くん……? どうしたの、急に黙って……。何か言ってよ……」
「……」
「え……あっ、あのっ、顔が、近いよっ!? そんな、だめっ……。きゃっ……!」
やっと、普通のファンらしい反応が出た。理梨奈にも、そういうところがちゃんとあるんだ。
「キス、すると思ったのか」
「え……? え?」
「今朝の仕返しだ。やられっぱなしだと悔しいからな」
「も、もうっ! そんなの、まだ覚えてるなんてっ!」
「ははっ……これで、おあいこだ。はぁ……はぁ……」
こちらから攻めてみたものの、俺の身体はやっぱり女として反応し、「乙女の気持ち」がまた抑えきれなくなっている。しかし、今回ドキドキしているのは……俺だけじゃなさそうだった。
「ふぅ……。汗、たくさんかいたな」
「ベトベトだね……。今日、暑かったから」
「濡らしたタオルで、身体の汗を拭いてくれよ。あと、着替えもさせてくれ。俺、ちょっと動けないからさ」
「それ、本気で言ってる?」
「もちろん。お前の手で、俺の身体に、触れてほしい」
「……ヘンタイ」
* * *
翌朝。
「「へっくちゅん……!」」
相変わらず、身体は入れ替わったまま。
昨日と違うのは、二人仲良く風邪を引いてること。
「あー。移っちゃったな……」
「一緒に寝たらこうなるでしょ。当たり前のことじゃん」
「大学、どうする? 今日もあるんだろ?」
「行かなくていい。風邪が治るまで、一緒に寝てよ」
「真面目に治そうとしないと、いつまでも治らないかもな」
「別に……それでもいいもん」
どうやら微熱があるらしく、頭がポーッとする。しかし、俺も理梨奈も、頭を冷やしたり薬を飲んだりはせず、風邪が完治するまでベッドから出ないという、フザけた治療法を選んだ。
「理梨奈、体温計は?」
「この家にはないよ。そんなの」
「じゃあ、おデコ出せよ」
「うん……」
おデコ同士を、ピトッとくっつける。見つめあっていると恥ずかしいので、お互いに目を閉じている。
「やっぱり、熱があるみたいだな」
「そっちもね」
「……このまま、頭をゴツンってぶつけたらさ」
「元に戻れるね、きっと。絆磨くんはそうしたいの?」
「うーん……。いや、今はいいか。俺たちの風邪が治ってからにしよう」
「そうだね。風邪の時は、独りぼっちだと寂しいから」
風邪が治るまで。このままで。
「今日は、絆磨くんの番だよ」
「え……何が?」
「タオルで身体を拭くのと、服の着替え。私は昨日やったから、今日は絆磨くんが私にやってね」
* * *
夜が来て、朝が来て、また夜が来た。
残念ながら、くしゃみはもう出ない。そうなると、なんとなくこの生活にも終わりが見えてきた。おそらく今夜が、理梨奈と過ごす最後の夜になるだろうと。
「ねぇ、絆磨くん。ちょっと……聞いてもいい?」
「うん?」
眠れないのは、お互いに同じ。
「どうして、活動を休止してるの? ZEROsの他のメンバーは活動してるのに、なんで絆磨くんだけ?」
「ああ、その話か。そうだなぁ……理梨奈になら、話しても大丈夫かな」
「うん。言っちゃダメなことなら、絶対秘密にするしっ」
「簡単に言うと……女性関係だよ」
「えっ!?」
理梨奈は驚きと共に、眉をひそめた。やっぱり、アイドルに女性関係のスキャンダルがあると、ファンはショックを受けるらしい。
「うちのリーダーの広崎レゼンは、ファンの女の子に手ぇ出してるんだ。それも、七人同時にな。だから、レゼンは……裏ではよくファンの女の子と揉めてた」
「え……」
「レゼンと女の子が口論になって、女の子が暴れてさ。それを止めようとして間に入ったら、なぜか俺が突き飛ばされて、窓ガラスに頭ぶつけて、病院送りだよ。だから、しばらく活動休止」
「あ……そうなんだ。よかった」
「よくないだろ。大ケガだぞ」
「うん。でも……絆磨くんの女性関係じゃなくてよかった」
理梨奈は、ホッとした表情を浮かべた。不安が一気になくなったような、柔らかい笑顔だ。
「ケガは無事に治ったけど……ちょっと『心に引っ掛かること』があってさ。復帰をどうしようか悩んでいたところに、お前が俺を殺しに来たんだ」
「あ、あの時は……その、早とちりをしてたの! SNSとかのウワサでは、絆磨くんが女性関係で活動休止してることになってるから! だから、絆磨くんを殺して、私も死ねばOKかなって……」
「入れ替わった後、俺の家に勝手に入ったのも、証拠を探すためだったんだろ? 女性関係の」
「う、うん……。証拠なんてなかったから、安心したけど」
「まあ……それほどまでに、深い愛情を注いでくれてるんだって、好意的に解釈してやるけどさ」
「そうなの……! 深い愛情があるの……! それで、絆磨くんの復帰を遅らせている『心に引っ掛かること』って、一体何?」
「うん……。レゼンの様子を近くで見ていて、思ったんだ。アイドルは、誰かを好きになっちゃいけないのかなって」
「え……!」
今は……もう朝の4時くらいか。
時計を見ないようにしていたから、現在の時刻はよく分からない。カーテンも閉まったままだし、部屋の電気もつけていないけど、理梨奈と二人きりで過ごすこの薄暗い時間が、俺はなんとなく好きだった。
「そりゃあ、レゼンみたいな七股はどうかと思うけどさ。ファンにはアイドルを好きになる自由があるのに、アイドルには誰かを好きになる自由はないのかな」
「絆磨くん……」
「アイドルだって一人の人間だろ? 人間らしく誰かを愛するのは、おかしいことなのか? もしも、俺が本気で誰かを好きになったら、理梨奈はどう思うんだ……?」
「……!」
俺は理梨奈に、ズルい質問をした。「そんなの、殺したくなっちゃう」って、言ってもらいたかったんだろう。ナイフ女に、過激な言葉で否定してもらって、安心したかったんだろう。
でも、俺の一番のファンは、俺の質問に対して真剣に悩んで、しばらく考えた上で、答えを出してくれた。
「うーん……。『アイドルだって一人の人間』っていうのが、間違いなんだと思う」
「え……!?」
「ファンの夢の中にいるのは、アイドルの淡見絆磨であって、人間の淡見絆磨じゃないの。それぞれ別の存在で……あなたと私たちファンが、みんなで協力して、アイドル淡見絆磨という夢の世界の恋人を作ってるんだよ」
「つまり……人間の俺は、アイドルの俺じゃない?」
「そう。いつもアイドルのキグルミを着ているだけの、ただの人間。アイドルを好きなように動かすことはできるけど、みんなの夢の世界にいるのは、あなたじゃない」
「もしも俺が、誰かを好きになったら」
「人前でキグルミを脱ぐのと同じ。夢が壊れちゃうよ。だから、そんなことはやめてほしい。人間の部分を見せずに、どうか、アイドルでいてね」
「そうか……。それは、辛いな……」
「でも、いつか終わりが来ることくらい、ファンも分かってる。あなたがアイドルを引退させたら、ファンの夢も消える」
「引退……。その時が来るまでは、人間らしいことはできない、か」
「そう思ってくれたら嬉しいな。……いつも素敵な夢を見せてくれてありがとう。絆磨くん」
理梨奈はこっちを見て、にっこりと微笑んでいた。
ああ……そうだ。ステージの上から見る景色は、いつもこんな幸せそうな笑顔で溢れていたな。活動休止の期間が長くて、今の今まで忘れていた。