悪女っぽい令嬢は、浮気にはとても寛容。
カツカツといつもより数センチ高いハイヒールを鳴らす。夜の22時。
長い長い石畳の廊下に響く足音は一つだけ。
外は肌寒く、枯れ木がさざめく。随分と貧相になった木には、ヤドリギが目立つようになっていた。
風は強く、ガサガサと音を立てて落ち葉を吹き飛ばしていく。
月は無く、ただただ暗い廊下に点々とした灯りが目立つ。灯りに照らされ、ゆらゆらと揺れる影は二つ。
足元に伸びる影が大きくなった途端、足が止まる。
はぁと深いため息を吐くと、片足に体重をかけ、ゆっくり振り返った。
ピュウッと一段と冷たい風が吹き抜ければ、太陽を溶かしたような金糸の髪が大きく乱れ、風に気後れしたように一瞬目を瞑る。一拍置いてから、大きな目を開いて見上げた。
「こんばんは。コソコソと何をしているの?」
そう声をかければ、先ほどまで誰もいなかった廊下に人が現れる。
上背のあるその男はニコニコと人懐っこい笑みを浮かべながら、「見つかっちゃった」とこれまた人好きのする優しい声で呟いた。
が、見た目は完全に怪しい。
まぁ、ここに不法侵入している時点で何も言うことは無いが、所々に血痕と思わしい赤いシミがついている。薄っすらと血の付いた黒い手袋を外しながら、こちらに近づくと私の手に額をこすり付け、ゾクリとするほど甘い声で呟いた。
「アリシアぁ、ご褒美ちょーだい」
と。嫌に口角が上がっていたような気がした。
彼女はまったく気にするそぶりを見せずに、たっぷり三秒待ってから、やっと赤い唇を微かに動かし、クスリと軽く微笑む。
「何が欲しいの?」
「何が欲しーでしょー?」
「わからないわ」
男の薄い唇が弧をかく。何が楽しいのかは全くわからないが、ふんふんと楽しそうに鼻歌を歌いながらアリシアの細い腰に手を回す。
こう言う手の早いところで、彼の遊び具合がわかってしまうが…
それを証拠付けるように、大層モテる彼…ハイドの唇は、薄っすらと色付いている。私の口紅とは違う、暗い色だ。
今日のお相手は、アデリカ嬢だったのだろう。
いやらしくない程度に軽く開けた首元には、ちらほらとキスマークが見える。彼女はこうやって、よく自分の跡を残すのだ。
アリシアはこれを見て、ほんの少し眉を動かした。
…公認しているとは言え、ハイドが会っている女は、アデリカ嬢だけでは無いのを知っているのだ。
時には軽くウェーブの付いた金髪を少女のように二つ結びにした、甘い香りの香水の可愛いルーナ嬢。時にはルビーのように真っ赤な瞳を持つ、身長180センチを超えたナイスバディのカルローラ嬢。時には絹のような銀髪を持つ、褐色の肌の美しい異国の踊り子であるバルニナ嬢。…など、上げてもキリが無いのでここまでにしておくが。
このように色とりどりの女性の元へハイドは毎日通い、そう言うことをしている。
しかも、この彼女たちは互いの存在を知っている。それどころか、アリシアの存在も知っている。
でも、戦うことはしない。だって、彼女たちは自分のように、自分だけが彼と関係を結んでいるとは思っていない。それをよく理解しているのだ。
なんなら彼女たちは、男も女もダース単位で飼っている。
だから、ハイドが何股しようとそれを当然のことだと思っている。まず、自分たちが浮気相手な訳だし。
ともあれ、相手公認となれば、浮気では無い。
他の女に手を出そうが、怒ることはしないし、泣くこともしない。
正直、どうでもいいのだ。誰に手を出そうとも。
まぁ稀に、最後に選ばれるのは自分と思って、彼に印をつけるクソ女もいるが。そう言う頭の足りない女にはお灸を据えている。二度とそんな考えが浮かばないように。
そう言うこともあり、基本的に、ハイドの周りにいるのは男で泣かない毒蜘蛛のような良い女か、タダでは起きないような図太い女である。そうで無くてはハイドとやっていけない。
毒蜘蛛たちの中心にいるハイドは勿論、猛毒のような男であり、人々を惹き付ける。…そして、女で泣かない男だった。
まぁ、彼女もハイドの近くにいる時点でそう言う部類の女なのだが…
アリシアは彼に興味を持ってしまってから、こうして腹立たしくその光景を眺めている。
彼は顔が良い分、アホな女が付いて来ることがある。
自分の男に手を出されて気分が良いことなんて無いが、誰のモノに手を付けたのかわからない者はいらない。
いくら、頭が下半身野郎の彼だからと思い上がる女は許せない。
彼と関係を続けたいなら、ルーナ嬢のように上手くやるべきだ。
彼女は命じれば、犬のようにベロベロと靴を舐めるような女だ。バカだが、勘は悪くない。だから、まだ生き残っているのだ。頭が無いのなら無いなりに、媚びなくてはならない。尻尾を振って、「殺さないで」と汚い地面に顔を押し付けて懇願するべきだ。まぁ、死にたがりは別だがな。
それか、カルローラ嬢のような同類かだ。自分と同じような女なら、分別がある。彼のことを装飾品とか、味見程度に考えている。
彼女たちには、家で飼殺している人間もいるのだ。人の縄張りには踏み入らない。そうで無くては許せない。自分も、相手も。
やはり、こう言う人間が一番付き合いやすい。
そうで無くとも、色気があることしか取り柄の無い、思い上がった雌豚と、自分とではレベルが違い過ぎる。彼に賭ける愛の差があり過ぎる。
「私の方が愛している」とか、「貴方には屈しない」とか、そう言う話では無い。
ハイドの眼中にも入れない脳内お花畑が、自分に勝てる訳が無い。これでは不戦敗だ。可哀想に。
そもそも、そんな相手と戦う意味すら無い。
やたらめったらに暴れれば、格が落ちる。それは頂けない。
自分の価値を守るのも自分だ。
醜く騒ぎまわる、ダサい女にも優しく対応してやる。
が。度が過ぎれば、地下室に連れて行くだけだ。そこでどうなろうとも自業自得だろう。
まぁ、明日にはアデリカ嬢が地下のサド部屋にいるはずだ。
彼女はやり過ぎたのだ。手を出してはいけないところまで手を出した。今までは目を瞑っていたが、もう我慢できない。一線を越えて来たのだ。何をされても文句は言うまい。
これまで上手くやっていただけに、ここでミスをするとは残念だ。
ハイドと自分をまとめてゲットするつもりだったかもしれないが、とんだ期待外れ。同類だと思っていたが、どうやら買い被っていたらしい。到底勝てない相手に挑むバカだとは思っていなかった。
そもそも、相手の実力もわからない内に、宣戦布告してくるなんて…浅はかにもほどがある。もっと面白い女だと思っていたのに、ガッカリだ。案外詰まらない女だったらしい。
きっと命乞いも見苦しいのだろう。
また床が汚れるなと思うと、はぁと深いため息が出てしまう。
アリシアにとって、ハイドは一時の戯れであり、人生を彩るスパイスだ。
自分が、彼を慕って楽しんでいる内は、ある程度の嫉妬をしようとも、何もするつもりは無い。相手が一線を越えなければ。
遊び相手には少々イラつくこともあるが、所詮縄張り争いをする獣と変わらない。目障りに思えども、自分に火の粉が飛んでこないならどうでもいい。
自分は今の状況を楽しんでいるのだ。
過度に干渉してこなければ、相手をすることはしない。
こう言う所が、毒蜘蛛である彼女を毒蜘蛛たらしめる所以なのだが…
彼女が気付くことは無いだろう。
グルグルと回る嫉妬心を無視して、無駄にエスコート慣れしている彼に身を任せる。
始めは物珍しくて、乙女のようにドギマギしたものだが、今はいつまでこの状況が続くのか侍女と賭けている。
アリシアが飽きるのか、ハイドが飽きるのか。
結果はどちらでもいいが、どのくらいこの関係が持つのかを賭けの対象にしている。
アリシアは一ヶ月以内。侍女は十日以内。
二人ともそれ以上続かないと思っている。それどころか、いつフラれるのか少々ワクワクしている。
勝つのはどちらかとワイワイ話して、早二ヶ月。もうこの話題にも飽きていた。
まぁ、アリシアも侍女も負けているので、この話題をするのは十日で辞めた。
百万賭けてどちらも負けては詰まらない。
なので、次は〝誰〟と〝どのくらい〟賭けようか悩んでいる。
どうせ飽きられるなら、より楽しみたい。
赤い唇が弧をかき、頬がほんのり色付く。
気分が上がって来て、ヒールの高い、お気に入りのハイヒールをカツコツと鳴らして歩く。
少し火照った体に、ひんやりとした風が気持ちいい。
月の無い空では、勢いよく雲が流れていく。
何となく窮屈な気がして、華やかな赤い薔薇のバレッタを外すと、金貨の髪が大きく揺れた。
大分ウェーブがかった細い髪がふわりとなびけば、ユラリと後引く炎のように輝いて見えた。
一枚の宗教画のようで、信仰心すら湧いて来る。
アリシアは流れる髪を一切気にせず、ランウェイの上かと言うように堂々と歩いて行った。
数分経ってから、ふと思い出したかのようにチラリとハイドを見れば、頬についた真っ赤な血が、灯りに照らされてテラテラと輝いていた。
生乾きの血は痒そうなので拭かないのかと思いつつも、血など何のその。最早、日常の一部である。
早々に興味を失った彼女は、それより大切な今日の紅茶に思いを馳せていた。
今の気分的に、お気に入りの茶葉でぬるめのミルクティーが飲みたいところだが、本日はハーブティーの予定だ。就寝前と言うことで、茶葉がすり替えられた。
これには半分嫌がらせが入っている。多分、この間の賭けでボロ負けしたからだと思う。
無論、自分は大変儲かった。規模がデカかった分、余分に。
まぁ、それはどうでもいいが、自分はハーブティーが嫌いだ。美味しくないし。
さして味がある訳でも無いのに、強過ぎる香りがクドイ。口の中で不思議な香りが巡って気持ち悪い。
何で存在しているのか正直わからないが、すり替えられてしまったものは仕方ない。
しかも、新しいものを取りに行こうとしたら、ハイドが来てしまったのだ。
諦めるしかない。
…しかし、少し憂鬱だ。本当に飲みたくない。
これはどうしたものか。
そんなことをウンウンと考えていると、石畳に足を取られたようで、体が大きく傾く。
みっともなく転ぶと思った瞬間、ゴツゴツと大きな手が腰をがっしりと掴み、支える。まるで、何も起きていないのだと言うように。
まぁ、今まで何人の女を抱いたのかもわからない手だ。このくらいのことは何度もあったのだろう。
……相も変わらず、博愛主義者のようだ。女性限定だがな。
自分でもわからない、何とも言えない感情を持て余す。これが恋かと自嘲気味にクスリと笑った。
好き勝手に腰をグッと掴んで、恋人かと錯覚してしまいそうになる距離まで近づかせる。
素肌で触ってしまったのは悪いと思っている。だって、クソ共の血で汚れた手袋で触られるのは、綺麗好きの彼女には受け入れられないだろう。
転びそうになった彼女を支えたと言う免罪符はあるが。許してもらえるかは、今日の機嫌次第だ。
まぁ、お気に入りのハイヒールを履いているから、今日は多分大丈夫だと思う。が、一筋縄ではいかないのがアリシアだ。
もしも彼女の地雷の傍を通りでもしたら、この家の敷居を跨げなくなってしまう。
正式な取り決めもして無いのに、今まで会ってくれているのは一重に彼女の情けだが。夜に会うことが無くなってしまえば、簡単にこの関係は崩れる。
まだ、全然アピールできていないのだ。それでは困る。
彼女の心の隙間に微塵にも入れてない自分にメロメロにさせなければならないのだ。
それなのにあろうことか、この関係がいつまで続くか…俺が飽きるのか、賭けの対象にされている。
これを知った時、ちょっぴりショックだった。いや、かなりショックで三日ほど眠れなかった。
必死にアピールしていた好きな子に、自身の関係について賭けられたんだ。泣いてもいいと思う。
仕方ないので、ヤケ酒して、仲の良い令嬢を何人か抱いて、えっちぃモチモチを堪能した。そして気づいたら、ベットの上で枕を抱えて気絶していた。老執事に泣かれた。
流石に、アピール中に他の女と寝てしまったので、終わったなぁと静かにロープを用意していたら、アリシアから招待状をもらった。
これで完全にフラれることが確定したので、とりあえず死ぬことにした。さっきまで用意していたロープを木に括り付け、輪っかに首を通したところで気が付いた。
アリシアの招待を断るのはとても失礼では???と。
コイツは、普通の手紙なら招待状、恋文関係なく、まとめてそこら辺の落ち葉と燃やすような男だ。その火で、そこら辺の何の関係も無いケツ持ちの顔をあぶったりする。
道徳など持ち合わせていなく、約束を守る精神など無い。
面倒になるとすぐに殴って賭博場に向かうような奴だ。
何かあれば、すぐに手が出てしまう。
気に入らなければとりあえず殴り、好き勝手に犯し、相手がうんともすんとも言わなくなろうとも、そこで一服できる…そう言う奴だ。彼には、貴族も平民も関係ない。薄ら汚い豚共の悲鳴など、ただの酒の肴である。まぁ、チーズの方が上手いが。
そんな、最近チーズの奴隷になったハイドにも流行りがある。
半分ほど飲んだ、ぬるめのワイン瓶で殴るのが最近の彼のマイブームだ。クルクルと瓶を回せば、醜い悲鳴が聞こえて来る。
豚の悲鳴など日常のBGMなので、今更感はあるものの、残ったワインをぶっ掛ければ、それだけで一つの善行だろう。今日も善行を積んでいるのだ。
毎日していれば、天国に行けるのかなとぼんやりと思う。
まぁ、そんなことを考えるのも飽きたので、臭い豚の返り血がベットリと付いたその足で、ルンルンと賭博場に行く。
何となく気の向くまま賭けて、大負けしてギャンブルに飽きたら、そこにいる可愛い子を片っ端から適当に食べる。その上、手持ちの金が足りなくなったら、そこら辺の人間から搾取するもんだから、クズの極みだ。
しかも、その金を女のために湯水のように使う。何なら、湯水の方が大切にしているかもしれない。
自分のせいで誰か死のうとも、「地球が綺麗になったね」の一言である。人間が減れば減るほど、世界がクリーンになるんだ。地球温暖化も止まる。良い事尽くめだ。良かったねとしか思わない。罪悪感など微塵にも湧かない。だって、どうせ同じ穴の狢だ。人型の畜生どもだ。
もしも、罪悪感が芽生えるなら病院に行った方がいい。頭がおかしいから。
彼がいるのはそう言う世界だ。
ゴミ溜めの住人の頭などイカれてなければ話にならない。そうでなければ、三日と経たずに穴と言う穴から白い液体を流して死んでいるだろう。指があらぬ方向に曲がっていても、目玉とか性器とかが付いていなくても、文句は言えない。ネジを付けたまま、異常者共の縄張りに踏み込んだのが悪いのだ。
優秀と評判の刑事だって、翌日には変死体として見つかった。
手の付けようが無い。
例え、どんなに優秀な医者やカウンセラーだって、母胎に置いてきた常識とか、良心とか、無い物を生み出すのは無理である。お手上げだ。
医者だって人権が存在する。そんなところには酔っていたって入りたくないし、国から命令されても国外逃亡するか、自殺する。死ぬなら楽に死ねる内に死にたい。
もしも連れていかれたら、ソイツと国を末代まで呪う。「どうか、自分より酷い目に逢いますように」と。
そんな世間様に匙を投げられた畜生が、顔だけで死ぬほどモテるのだから世も末である。今すぐ、世界を作り直した方がいい。最早、神様を変えろ。
常識の欠片も持ち合わせていないゴミカス野郎が、招待を断ることは失礼かもと考え始めたのだ。
多分、明日は槍の雨が降る。皆は鍋を被って移動しよう。間違っても、肌は見せないようにしてね。
ハイドは、明日の天気に備えてフライパンを用意しながら、幼女のようにポロポロ涙を流していた。だって、アリシアが怖いから。
美人が起こると怖いのだ。
まぁ…ただの美人なら良かった。でも、アリシアは毒蜘蛛だ。普通の乙女では無い。
浮気がバレたら、砂糖を煮詰めたように甘い声で、「My sweet honey」と一言。極上の笑みを浮かべて。それから、血のように真っ赤なハイヒールで腹を思いっきり蹴られて、血反吐を垂れ流す、悲鳴すら上げないお人形にされる。それか、彼女愛用の鞭で百叩きにあって、痛々しいミミズ腫れの目立つ、犬のように従順なアリシア専用の可愛い玩具にされてもおかしくない。
細い針を爪の間に刺すようにネチネチと、的確に心を抉って。死んだ方がマシと言うことをするくせに、お気に入りは絶対に殺さない。毎日嬲って楽しむような女だ。
そう言うところが、最高にクールで好きなんだが。如何せん、自分が受けたいと言うほどのマゾでは無い。アリシアに可愛がられたいが、嬲られたい訳では無い。されるなら別の意味がいい。
だから、本当に行きたくなかった。死ぬなら女を抱きながら死にたい。
でも、遅れたら折檻されるので、とりあえず向かった。
迎えの馬車の中でベショベショ泣いた。初めて、信じてもいないカミサマに祈った。
両手を胸の前で硬く握りながら。
そうしていれば、おもむろにドアが開いて眩しいくらいの日差しが入って来る。
これが最後の空かなぁと目に焼き付けながら、死刑囚のようにトボトボと歩いて行った。
連れて来られたのは応接室。大きな窓が目立つ割に、イマイチ開放感に欠ける場所である。
瞬間、本能のように窓を割って逃走しそうになった。
でも、なけなしの理性で嫌々ながらも、大人しく応接室で待つ。逃げたら殺されるから。
数分おきに激しい脱走衝動に駆られるが、ここで死にたくないので何とか耐える。耐えなくてはならないのだ。
時間だ経つごとに増える、滝のように流れ出す汗を感じながら、随分とぬるくなったお茶に手を付けることなく、小さくなっていた。
カチコチと神経質に響き渡る時計の音が妙に恐ろしくて、大きくてふわふわしたソファーの隅っこに座って、ガタガタと震えた。
頭は真っ白で何も考えられない。今すぐ気絶しそうだ。
とりあえずティーカップを割って、その破片で首を切ろうと考えて、カップを持ち上げたところで、やっとこさ扉が開いた。
ギギギと錆びたブリキの人形のように固い動きでカップを置くと、逆に恐ろしいほどニコニコと可愛い笑顔を浮かべた彼女が目の前にいた。
ハイドは、「ふ~ん。今日が俺の命日なんだぁ」と場違いなことを考えていた。
カチコチと煩いほど響く時計の針に頭を殺られながら、アリシアの一挙手一投足を気にしていた。機嫌を損ねた瞬間、地下のサド部屋に連れていかれる。
そこに入れられれば、廃人になることは確定だ。言葉を紡げる程度で開放してくれる訳が無い。
そんな思考を吹き飛ばすように、アリシアはわざと、カチリと音を立ててティーカップを置いた。
いつもより濃い口紅が薄っすら濡れている。
にこやかな笑顔でアリシアは、「貴方は賢いわね」と優しい声色で静かに言った。
そして、サファイアの瞳を真っすぐと向けて、「運が良い」と続けた。
いやに時間が過ぎるのが遅く感じる。
それから一息吐いて、口角がまた上がる。
「ここで弁解しようものなら、迷わず地下に連れて行っていたわ。本当に運が良い。いえ、勘が良いのかしら?」
「…ハッ」
乾いた笑いが響く、彼女は不快そうにするどころか、むしろ楽しそうだった。
胃がキリキリと痛み、口内に胃液の味が広がる。酸っぱいような、苦いような、微妙な味だ。
ズボンをギュッと掴みながら時間が過ぎて行く。いつ死刑宣告されるのかとドキドキとしながら。
…しかし、三時間後には俺は解放されていた。それも無傷で。
それどころか、別の女を抱いてから、明らかにアリシアが家に招いてくれる機会が増えた。可愛くおねだりまでしてくる。
彼女へのアピールは、これが良かったらしい。今までのアピールは間違っていたようだ。
しかし、まぁ…他の女と遊ぶにしても、アリシアより良い女などいないので、選りすぐりのハーレムを作ることには苦労した。
イイ女は金と手間がかかるのだ。
目を付けたイイ女たちを口説き落として、アリシアへのアピールだと説明すれば、やっとハーレムに入ってくれる。いや、入れてくれる。
カルローラはダースで男を揃えているし、アデリカはしつこい。アリシアごと自分のモノにしようと思っている。
まぁ、アデリカごときでは逆に、アリシアに飼われていると思う。喜んで尻尾を振っていそうだ。
そんな女を口説くのだ。
時間はいくらあっても足りない。
そろそろ腰にある手が不快になったのか、ピシャリと叩かれる。
彼女の爪が当たり、皮膚が少し持っていかれる。血が玉になって出でいるが、服につけたりしたら、多分死ぬ。
しかし、離れたくないので細心の注意をしながら、彼女をこちらに寄せる。
彼女が怒らないから、すっかりこの距離が定着してしまったのだ。離れていると落ち着かない。
まぁ…それもこれも嫌だと言ってもハイドがまったく離れないから彼女が折れて、この形になった。ので、時折嫌そうに眉間に皺を寄せて離れようとしてくるが、そんなことを気にする性格ではないので手に力を入れるだけだ。
痛くしないように注意して優しく引き寄せると、風も手伝って、ふわふわとした長い髪が揺れる。
隙間から、余裕そうな彼女の表情とは裏腹にほんのり赤い首筋が見え、背筋がゾクリと震えた。ゴクリと喉がなると、少し赤い顔を逸らされ、ますます気分が上昇していく。
彼女のこう言う所がグッときて、堪らなくなる。これが、ツンデレと言うやつなのだろう。
今まであったことも忘れて、アハッと軽く笑うと上機嫌に歩いて行く。
アリシアのこう言う顔が見たくて、ここに来ているのだ。
今なら、サド部屋に行かなくても、そこら辺の壁の絵にも話しかけられる。
頭のネジなど母親の子宮に置いてきたのだ。怖いものは無い。
ふんふんと上機嫌に歌いながら、彼女を抱えた方とは反対の手…左手で持っていた帽子をクルクルと回す。
少し左に寄った重心も、彼女が歩きやすいようにほんの少しだけ右に傾ける。
チンタラと歩きながらも、彼女に合わせてどんどんとペースを落としていく。
今日はいつもよりヒールが高い。ここで意識するのが男の甲斐性と言うところ。アピールにも繋がる。
必死こいてアピールしようとも、気づかれなければ意味は無いのだ。
まぁ、やらなければ何も進まないので頑張るしかない。
しばらくするとペースがあったのか、安心したような顔をする彼女はあまりにも無防備だ。
普段なら見ることのできない、とても疲れている時限定の行動だ。
安全だと思われてるのは、嬉しくもイラつく。
やっと懐いてきた猫かと思えば、なんとか溜飲が下がる。
しかしまぁ、猫なんかで済めばいいなと考えてしまい、ハッと乾いた笑いがこぼれる。
…やっぱり手強いな。
結局、アリシアに頼られて機嫌の良い男と違い、ヤキモキしている彼女の表情は暗い。
そんな感情を押し殺すように、口角を少しだけ上げる。
おすまし顔で、何も知らないかのように。気取られぬように。
男もまた、それを知っていながら何も見てないと言うように話し出した。
「アリシアはぁ、これからどうしたいの?」
「さぁ…?当ててみて」
「んー?国でも乗っ取るつもりぃ?」
「もっと悪い事かも」
「それじゃ、わからねぇよ」
「わからなくていいのよ」
大きな風によって掻き消されたが、「一生ね」と少しだけ悲しげな声が聞こえた気がした。
ハイドは途端に興味を失ったようで、「あっそ」と一言呟いてまた、ふんふんと、さっきよりちょっと低めに歌いだした。
その様子を見て、アリシアは「本当に賢いな」と感心していた。もしも、これ以上聞いていたら確実に地雷を踏みぬいていただろう。そうで無くとも、かすったかもしれない。
そうすれば、彼にとっては二回目の地下室行きが確定していただろう。
アデリカ嬢と一緒に、プルプルと小刻みに震えて意味の無い許しを請うのだ。いつしかのように。
まぁ、それも楽しそうだなとほんの少し思ってしまう。
新しく手に入れた、ファラリスの牡牛を試してみたい気持ちはあるが…あれは火を使うから地下ではできないのだ。しかも、焼かれていく人間の姿は見えない。
それでは詰まらない。苦しむ人を見てこそ、高ぶるのだ。
叔父上も場所を取るだけの面倒な物を押し付けて来たな。ホイホイと貰うものでは無い。少々反省だ。
明日するとしたら、研ぎ終わったばかりの刃物の切れ味を試すことくらいだろうか。
まぁまぁだ。
…でも、やっぱりやってみたかった。
彼女は悲しそうに少し俯くと、長いまつ毛が影を落とす。
本当は、新しい拷問器具を試したかったのになぁと子供のようにいじけている。
ため息は一つ、足音は二つ。
だんだんと落ちて行く機嫌に、ハイドはヒヤヒヤしていた。
もしかしたら、明日は冷たい石の上かもしれないと。
明日には別の生贄が届くので、それは杞憂である。今日大人しくしていれば問題無い。
二人とも別の意味で憂鬱そうにして、トボトボと歩いて行く。
この時、アリシアはハーブティーのことなど忘れていた。もう完全に。
部屋について、さぁお茶を淹れようと言うところで思い出した。
ハイドもいるのでとりあえず淹れようとしたが、匂いでもうダメである。仕方なので、今日はお茶を出すのを諦めた。
その様子を見て、ハイドは「ふ~ん。俺、これから死ぬのかぁ」と思考を何処かへ飛ばしていた。
しかし、ハイドの予想と反して、アリシアの機嫌は良いままだった。逆に怖い。
何故なら、明日には新しい玩具が手に入るからだ。
それはもう、クリスマスにプレゼントを待つ子供のように、楽しみにしていた。楽しみで夜眠れないかもしれない。
だって、久々の玩具なのだ。最近は、自分にちょっかいをかけて来るバカが減った分、遊べなくなっていた。前は、身の程をわきまえないアホが多かったのだが、狩り過ぎたのだろう。今は随分といなくなってしまった。それを、喜ぶべきか悲しむべきか。
まぁ。ストレス発散は大事なので、粗相をした犬共を嬲ることはあった。
でも、飽きて来ていたのだ。趣向を変えて、デスゲームを開こうかと思うほど。
そこに、新しい玩具が来るのだ。先ほどから、どう虐めようか考えていた。若い女…それも、自分の男に手を出して来た奴は久しぶりだ。熱が入る。高ぶり過ぎて、すぐに殺してしまうかもしれないと言う一抹の不安があるが、じわじわと喜びを感じていた。
先ほどまでは怒りを感じていたが、折檻について考えだしてから、嬉しくて嬉しくてクリスマスイブのような気分だった。
今日、アデリカ嬢がハイドに手を出してなければ、侍女は熱湯かけられた上、ファラリスの牡牛に突っ込まれていただろう。
だが、今の彼女はハーブティーごときで機嫌は落ちない。
アリシアはルンルン気分のまま、ハイドの上に座り、シガリロを奪い取って軽く吸った。
見た目に合わず、ライトでかなり苦かった。自分は、スパイシーな物の方が好きだなと思いつつも、ゆるく目を閉じて触れるだけのキスをする。
彼の口は、葉巻と同じように苦かった。
今日はできると思っていなかったのだろう。ポカンとした彼の口からは灰色がかった白い煙が溢れ出ていた。
普段は見せないような無防備な姿。
それがおかしくって、ふふっと笑みをこぼしてしまう。
だから、顔を真っ赤にして慌てふためく可愛い彼の頬を捕まえて、耳元で一言囁く。
「Sweetheart 今夜は抱いてくれないの?」
と。言い終わるころには、イチゴよりも顔を赤くしていた。
苦情なら地下のサド部屋まで。