落花と双葉(Ⅳ) 〜鍛え治す〜
薄い雲の向こうから差し込む柔らかな朝日が、カミタテイトの里の屋根を白く照らしていた。
ジンセンフは、左肩を軽く回した。
「……いてっ。」
怪我はしていない。傷もない。
なのに、肩から脇腹にかけて、筋が張ったような鈍い痛みが残っている。
深く息を吸うたびに、胸の奥にも重たいものが沈んでいた。
「まだ痛むの?」
隣を歩くリフレーンが、心配そうに顔を覗き込む。
「まあ、ちょっとな。」
「無理しないでね。私はもう元気なんだから。」
そう言って、彼女はいつものように笑う。
その笑顔を見るたびに、ジンセンフの胸は少しだけ苦しくなる。
――オレが守れなかったのに。
そんな考えが、まだ完全には消えていなかった。
先を歩いていたイチスが振り返る。
「ほらほら、もうすぐ着くわよ。」
「で、結局どこに行くんですか?」
「着いてからのお楽しみ。」
「昨日からずっとそれじゃないですか……。」
「いいからいいから。」
イチスはいたずらっぽく笑いながら、さらに細い路地へと入っていく。
すると、次第に空気が変わった。
乾いた鉄の匂い。
炭の焦げる匂い。
やがて三人の前に、一軒の古びた店が現れた。煤けた木の看板には、長年の風雨に削られた文字で『刀屋』とだけ刻まれている。
軒先には、大小さまざまな刀が飾られている。
「……刀屋?」
ジンセンフが目を丸くする。
中へ入ると、壁一面に刀が並んでいた。
長いもの、反りの深いもの、黒く鈍い輝きを放つもの。どれもただの道具には見えない。まるで、それぞれが別の人生を歩んできたような存在感を放っていた。
店の奥では、一人の老人が刀を研いでいる。白髪を後ろで束ね、深い皺の刻まれた顔は岩のように厳つい。
砥石を滑る音だけが、静かな店内に響いていた。
「おはよう、テイカンさん。お客さん連れてきたよー。」
老人の手が止まる。
ゆっくりと立ち上がり、三人の方へ歩いてきた。
「……いらっしゃい。」
低く、よく通る声だった。
「こちらはテイカンさん。鍛冶職人さんで、ここで自分の作った刀を売ってるわ。」
「もしかして……この刀、全部一人で?」
「そうよ。どれも一級品。里の外からも、冒険者や兵士が買いに来るんだから。」
「へぇ……すごい。」
「ふん。」
老人は鼻を鳴らしただけだった。
するとリフレーンが、店内を見回しながら言う。
「ねえジンセンフ。気分転換に新しい刀買ったら? 今のやつ売っちゃってさ。」
「バカモン!!」
突然の怒声に、リフレーンがぴたりと固まった。
「ひゃっ……。」
「これがどれだけすごい刀か分からんのか!」
「ちょっとテイカンさん! お客さんに怒鳴らないでよ!」
「ふん。ワシの店で刀を舐めた口で語るのは許さん。」
老人は腕を組み、仏頂面に戻る。
だが、その目だけは真っ直ぐにジンセンフの腰に差した刀を見つめていた。
その視線に気づき、ジンセンフは思わず尋ねる。
「あの……オレの刀って、そんなにすごいんですか?」
「……ああ。」
老人の目が細くなる。
「貰い物だから、正直よく分からなくて。刀のこと、教えてもらえませんか?」
すると、さっきまで不機嫌だった顔が少しだけ変わった。
「芯がいい。」
「え?」
「元になった鋼がしっかりしとる。さらに長い年月、お前さんの《スピリット》を吸って鍛えられておる。」
老人は刀を見つめながら続ける。
「この刀を作った者も、持たせた者も、かなりの手練じゃ。」
ジンセンフは目を瞬かせた。
師匠の顔が脳裏に浮かぶ。
何も言わず、自分にこの刀を託してくれた背中。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
「……そうなんだ。」
老人は今度は、じっとジンセンフの顔を見た。
「お前さん、気流士じゃろ。」
「はい。」
「なのに、《スピリット》が乱れとるな。」
胸が、どきりと鳴る。
「……やっぱり、分かりますか。」
「ああ。」
老人は即答した。
「刀が泣いとる。」
「……すいません。」
自然と顔が俯いた。
「ちょっとテイカンさん!」
イチスが割って入る。
「事情も知らないのに失礼すぎるでしょ!」
そして彼女は、雀蜂の襲撃から今までの出来事を静かに語り始めた。
老人は一言も口を挟まない。
最後まで聞き終えると、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で尋ねる。
「自分の《スピリット》の乱れは、何が原因だと思う?」
「……後悔、だと思います。」
「ほう。」
「オレが弱かったから、リフレーンを大怪我させてしまった。」
言葉にすると、また胸が痛んだ。
左の脇腹が、じくりと疼く。
老人は小さく目を見開く。
「……珍しいやつじゃ。」
「気流士なのに、乱れてるからですか?」
「いや。」
老人は首を振った。
「修行の足らん軟弱な気流士なんぞ、腐るほどおる。」
「……。」
「珍しいのは、お前さんの資質じゃよ。」
「資質……?」
「気流士ってのはな、大概、自分のことにしか興味を示さんもんじゃ。」
老人は、ジンセンフの目を見る。
「じゃが、お前さんは違う。」
その眼差しは、さっきまでよりも強かった。
「自分が弱かったことだけじゃなく、人を守れなかったことを悔やんでおる。」
ジンセンフの目が、少し見開かれる。
「人のために、そこまで悩める気流士は少ない。そんな顔をする気流士なんぞ、久しぶりに見た。」
老人は小さく笑った。
「希少じゃよ。」
思わぬ言葉だった。
今まで、自分の弱さばかり見ていた。
そんな自分を、褒められたことなどなかった。
「……ありがとうございます。」
気の抜けた返事しか出てこない。
老人は腕を組んだ。
「気に入った。」
「え?」
「ワシが修行をつけてやろう。」
「……へ?」
「明日の朝4時、ウチの道場へ来い。」
そう言って、一枚の地図を差し出す。
「修行って……オレがですか?」
「他に誰がおる。」
「いや、でも……」
「自分で立ち上がれん小僧を放っとくほど、ワシも薄情ではない。」
そして、少しだけ口元を緩めた。
「それに、お前さんの刀もまだ働きたがっとる。」
ジンセンフは思わず腰に差したの刀に触れる。
ひんやりとした鞘の感触。
師匠から受け取った、大切な刀。
「……。」
胸の奥の重たい泥の中で、何かが小さく光った気がした。
ジンセンフは、自分でも知らないうちに拳を握っていた。
もう一度だけ。
もう一度だけ、自分を信じてみたい。
「……お願いします。」
思わず声が出る。
テイカンは満足そうに鼻を鳴らした。
「うむ。」
そして踵を返す。
「遅刻するなよ。」
そのまま奥へ消え、再び砥石の音が響き始めた。
店の中に、静かな余韻だけが残る。
リフレーンが、にこっと笑った。
「よかったじゃん。」
「……うん。」
ジンセンフは、渡された地図を見つめる。
まだ胸の痛みは消えていない。
怖さもある。
自信なんて、全然戻っていない。
それでも――。
地図を握る手に、ほんの少しだけ力が入った。




