落花と双葉( Ⅲ ) 〜堕ちる生気、昇る湯気〜
リフレーンの毒は完全に抜けるとともに、徐々に傷口も塞がっていた。
朝の光を浴びるたびに、彼女の頬は健康な色を取り戻していく。
リフレーンの治療の間、仲間の3人はお見舞いに行きつつ、里の中での手伝いや簡単な狩りで生活するようになっていた。
看病していたイチスは彼女の体調を見ながら、里の栄養豊かな名物を少しずつ教えていき、彼女はどんな料理も「おいしい」と笑った。
仲間達が彼女の回復力を褒めるたびに、リフレーンは『旅をするのは、大事な目標があるから。だから負けないよ。』と、嬉しそうに喋る。
だが、同じ時間、ジンセンフはまったく逆の方向へ沈み続けていた。
あの日、自分はリフレーンを守れなかった。
あの瞬間の光景――弾ける羽音、血の色、倒れ込む彼女。
そして、何もできずに膝をついた自分。
その記憶が、刃のように何度も胸を裂いた。
「ジン、また顔色悪いぞ。」
クロハンが声をかけると、ジンセンフは作ったような笑みで返した。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと寝不足なだけ。」
本当はずっと眠れていない。
目を閉じるたび、あの瞬間が脳裏に蘇る。
クラリファも心配して膝をつき、優しく覗き込んでくれた。
「ジンセンフ……無理してない?」
「いや、ほんとに平気。ありがとう。」
嘘だ、と自分でも分かっていた。
声に重たさがにじみ、笑いに温度がない。
二人もそれを悟ったのか、余計な言葉はかけず、その日の会話はそれで終わった。
気づけばジンセンフは、皆の輪から自然に離れていった。
食事もいつの間にか一人で取るようになり、
話しかけられれば微笑むが、心はそこにはいない。
最近、頭の中では同じ言葉ばかりが巡っていた。
ちょっと風を起こせるだけの自分。大した力も才能もない。
力では、クロハンには遠く及ばない。
クラリファみたいに、的確に自分の能力を運用する賢さもない。
リフレーンのように、自分の目標に向かって前向きに生きられない。
そんな思考が静かに心を侵食していく。
部屋に戻るため外階段を登る。その途中、鉄柵の向こうに広がる階下の景色が視界に入り、いつも同じ衝動が湧いてくる。
柵の下に広がる、冷たい土とまばらな雑草。
――ここから落ちたら、どうなるんだろう。
最初は頭痛がひどいだけだった。
昼食の際に仲間にそれだけ告げると、食堂に向かう人々の騒がしい足音とすれ違って階段を登っていった。夕食になっても、降りてこなかった。
数日休んで、なんとか動けるようになった。だが、狩をしようと里の外門をくぐると、手が震えて足取りがふらふらとなった。
その日を境に、ジンセンフは部屋から出られなくなった。
朝起きてもそのままベッドから出てこず、寝れるだけ寝ていた。起きていると、胸が黒い闇で埋め尽くされてつらいから。眠っている間だけが、何も考えずにいられる時間だった。
クラリファやクロハンが食事を置いていく際の物音と声かけだけが、唯一の生活の気配だった。
元々部屋の本棚に置いてあった本を、むさぼるように読み続けた。活字だけが、自分の思考を止めてくれた。
――もう冒険には戻れない。
見知らぬ土地へ踏み出していた足が、鉛のように重く固まって動かない。
旅人なんてならず、里に残って、普通に働いていたら。その道を選んでいれば、こんな苦しみは知らずに済んだのかもしれない、という後悔だけが頭の中を巡回する。
日差しの強さで目が覚める。今日は昼過ぎまで寝ていたようだ。
部屋に差し込む光の揺らぎを見ていると、胸の奥に微かな衝動が灯った。
――少しだけ、外に出てみるか。
重い足を引きずりながら扉を開ける。
久しぶりの外の空気は乾いていて、胸の奥を少しだけ清めてくれるようだった。かぼすの皮をすりおろしたような、鋭く澄んだ香りが風に乗る。
「……ジンセンフ、今日は散歩?」
まるで散歩が、ジンセンフの日課であるような軽い調子で声をかけられた。
声の主は、イチスだった。彼女の頭より高く積んだ治療用の布を両手に抱えたまま、立ち止まって顔をこちらに向けていた。
「まぁ。」
「今日は天気いいからね。午前中でもう乾いちゃったよ。」
その声は、冷えきっていた胸の奥を、少し照らすような温かさがあった。張りつめていた何かが、少しほどけた気がした。
彼女は持っていたカゴを床に置きながら、続けた。
「今日のお昼さ、鶏団子の澄まし汁作ってくれてるんだって。ちょうど休憩だったし、一緒に行こ。」
「あっ、はい。」
イチスに腕を引かれ、ジンセンフは抵抗せずに歩き出した。
食堂に着くと、木の匂いと澄まし汁の湯気が柔らかく頬を温めた。
席に座ると、すぐに澄まし汁が運ばれてきた。
半透明の澄まし汁は、スプーンで掬っても湯気が立っていた。一口すすると、舌に触れた瞬間にじんわりと旨味が広がり、熱がそのまま胃まで温かく染み込んでいく。
体の内側から広がる醤油の香りは、故郷の料理によく似ていた。
気づけばジンセンフは、夢中で肉団子や野菜を頬張っていた。
「おいしい?」
「うん。」
「また、食べに来る?」
「うん。」
「リフレーンや、クロハン、クラリファも呼んでもいい?」
「うん。」
仲間の名前を聞いて、留めていた言葉が溢れてきた。
「……オレ……もう、一人でいたくない……
みんなと……また冒険がしたい……」
イチスは驚いた顔をしたが、すぐに健やかな笑みを浮かべた。
「言えばいいじゃない。仲間は、あなたの帰りを待ってるよ。」
ジンセンフは震える声で続けた。
「正直、今は……魔物と戦いたいなんて思えない。
でも、冒険をやめたいわけじゃないんだ。
見たい景色がある。出会いたい人たちがいる。
……そして、困っている人がいたら……
オレは、その人を助けられる存在でいたい。」
ゆっくりと、胸の奥に灯りが戻っていく。
それはまだ小さな光だが、確かに温かい光だった。
イチスはその光を壊さないように、そっと言った。
「うん。あなたは旅人なんだよ。
怖さを抱えても、それでも進める人。
だから――また一緒に歩けるようになるさ。」
ジンセンフは涙を拭い、深く息を吸った。
「……ありがとう。
もう一度だけ……歩いてみる。」
その言葉は、静かだが、確かな“再出発”だった。




