落花と双葉(Ⅱ) 〜カミタテイトの里〜
ジンセンフは、木製の引き戸を勢いよく開けた。
ひんやりとした薬草の香りが鼻に触れ、静まり返った部屋の奥で、淡い光に照らされたリフレーンが眠っていた。
「リフレーン!」
その声は少し上ずり、震えていた。駆け寄りながら、胸の奥で何度も何度も同じ言葉が反響する――“守れなかった”。
返事のない青白い頬を見ると、喉がひきつれて呼吸もうまくできない。
隣で控えていた白装束の女性が、優しく声をかけてきた。
「大丈夫よ。命に別条はないわ。」
その声で少し落ち着いたジンセンフは、眠ったままのリフレーンの様子を伺う。彼女のかすかに上下する胸と小さな寝息を自分の目で確かめると、ようやく安堵できて自分も大きなため息をつく。
そこで初めて、先ほど声をかけてきた女性の存在を認識する。しわひとつない白装束を着た彼女は、黒髪をまとめていて、意志の強そうな目線はリフレーンに向けられている。ジンセンフからの視線に気づくと、にっこりと微笑んだ。
そこで、ジンセンフは自分の失態に気づく。彼女に礼を言っていない。取り戻すように、深く頭を下げた。
「あの、リフレーンを治していただいて……本当にありがとうございました。」
焦りすぎて礼を言うことすら忘れていた自分が情けなくなり、ジンセンフは胸の奥をきゅっと縮めた。
そんな彼の心の揺れを見透かしたように、イチスはやわらかく微笑む。
「いいのよ。治療は私たちの仕事だから。」
「あの、助けてくれた男の人は?あの人にも、お礼を言わないと……」
女性は一瞬だけ呆れたように眉を上げ、肩をすくめた。
「レイエイのこと? アイツなら、もうこの里にはいないわ。」
「えっ……」
「世界を飛び回ってるからね。今回はたまたま通りかかっただけ。それに、謝礼はもう彼からもらってあるから気にしなくていいの。」
「じゃあ……その、お金を返しに――」
「いいの。彼、金なんて腐るほど稼いでるんだから。」
ジンセンフはなおも食い下がろうとしたが、女性は苦笑まじりに言い切った。
「本当にいいのよ。彼、人助けが趣味みたいなもんだから。」
「……そうなんですね。あの人のこと、よく知ってるんですか?」
「まぁ、彼もこの里の出身だからそれなりにね。物心ついた時から、野菜炒めで嫌いな豆だけキレイによけるとかね。」
「へー、そんな小さい時から。」
「あと、人の仕事にも口出すのよ。包帯の巻き方が昨日と違うとかね。」
「なんか、繊細な人なんですね。」
「『繊細?』」
さっきまで穏やかだった社交的な声色が消えた、彼女のトゲのある聞き返しに、ジンセンフは違和感を覚える。
「あの男が繊細!? 何それ冗談?!」
ジンセンフがぽつりと言った『繊細な人なんですね』という一言が、彼女の琴線を盛大にかき鳴らしたようだ。
急にヒートアップした女性は捲し立てるように、その場にいない男への溜め込んでいた感情を一気に放出するように語りだす。
「あんなのタダの無神経よ!数年ぶりに会った幼馴染に『よう!』だけよ!?
あとはリフレーンちゃんが刺されたのは雀蜂の魔物って情報だけ伝えてそれで終わり。少しはアタシに興味持ちなさいっての!」
叫び終えたあと、ようやく我に返り、女性は赤面して頭を下げた。
「……ごめんなさい。関係ないあなたに、急に八つ当たりしちゃって。」
「いえ、僕こそ勝手なこと言ってすみません。」
「ふふ、じゃあお互い謝ったことだしチャラね。どこでふらついてるかわからないあの男のことも、もう忘れましょ。あ、そうだ。私はイチス。この里の《ミクログ》。まぁ簡単に言うと医者よ。」
「ジンセンフです。リフレーンと旅をしています。」
「2人とも若いのに旅なんてすごいわね。そういえば、お腹すいてるでしょ?」
図星だった。ジンセンフは正直に言う。
「……めちゃくちゃ、すいてます。」
「素直でよろしい。それじゃ、このカミタテイトの里の名物を紹介するわ。リフレーンちゃんも安静にしていれば大丈夫だし、外に食べに行きましょ。」
イチスは軽やかに白装束を脱ぎ、開いたままだった引き戸から先に出ていく。
ジンセンフもあとを追おうと歩き出す。一度だけリフレーンの寝顔を見てから、静かに引き戸を閉め、少し小走りで彼女の後を追った。
それから数日後ーー
病室の前で、ジンセンフは両手で抱えていた紫色の風呂敷の包みを左手だけに持ち替える。
右手で引き戸を引くと、今日は先にクロハンとクラリファが待っていた。
「おつかれ。どう?」
「今日も起きないわ。」
ジンセンフの期待していた返答ができないため、申し訳なさそうにクラリファが答える。
ジンセンフが到着した翌日に2人も合流し、こうして交互にリフレーンの看病をしていた。といっても、治療自体はイチスがしてくれているので、旅仲間達はそばで見守ることしかできないのだが。
「オレが交代するから、2人は食べに行ってきなよ。」
クロハンが勢いよく手を上げる。「いや、まだオレらも一緒にいるよ!」
ジンセンフが「そう?ありがとう」と返しかけたその時、その声を遮るようにクラリファがそっとクロハンの袖を引いた。
「あら、ありがとう。お言葉に甘えて食堂へ行ってくるわ。」
その瞳は、一瞬だけジンセンフを見つめる。
しばらく1人で見守っていたい――
そんな思いから無意識に出た言葉だと、クラリファだけは気づいていた。
彼女は小さくうなずき、クロハンの袖をそっと引いた。
「なんだよ、みんなでいた方がリフレーンも起きた時に嬉しいじゃん。」
「いえ、私たちはもう行きましょう。」
クロハンはクラリファまだ腑に落ちない顔をしている。だが、いつも穏やかなクラリファの袖を掴む強さには何かを感じて、一緒に部屋を出ていった。
「ありがとう、2人とも。」
持ってきていた紫色の風呂敷だけをほどいて、中身のまだ暖かい弁当を机に置く。代わりに、部屋に置かれたままだった隣の弁当を開いて食事を始めた。
冷えた白米の上には、緑色の小さな粒がたっぷりまぶされている。アオシソノ実の漬物だ。
噛むたびに舌に広がる、塩気と独特の旨みがクセになる。
正直、これさえあればいくらでもご飯が食べられる。だが、『栄養バランス考えて他のもの食べなさい』とイチスに注意されたばかりなので、一緒に入っていた魚もつまむ。
「今日も起きないか……」
目を閉じたままのリフレーンを見つめながら独り言をこぼす。
行く宛のない言葉は、静まり返った部屋に吸い込まれていった。
箸を動かしながら、彼はリフレーンが倒れた時の光景を思い出す。
視界がじわりと揺らぎ、胸の奥で何かが軋む。押し込めていた記憶が、音を立てて浮かび上がってくる。
巨大な雀蜂が群がり、彼女の姿が黒く埋め尽くされる光景。
彼女の短い悲鳴を、無神経に掻き消す羽音。
あの時の無力感が、箸を持つ右手の力を奪っていく。
血の気が引くような胸の痛みが、今も生々しく残っていた。アオシソノ実を戻しそうになった胃を沈めるため、閉まっている引き戸のほうに向き直る。
「結局、守れなかった。」
ご飯を飲み込むと、空になった口からはまた感情が漏れてくる。
リフレーンの寝息のリズムが、わずかに変わったように聞こえた。まつげが、かすかに震えた気がした。
ジンセンフはまた、閉まったままの引き戸に向かって呟く。
「オレなんて……風が吹けば飛ぶ能力だ。」
その言葉は、小さく絞り出したつもりだったのに、部屋の静けさにずっと漂っていた。
「落ち込んでる割に……ウマイこと言う余裕はあるのね。」
細い声。
ジンセンフはハッと振り返る。
ベッドの上で、リフレーンが上体をゆっくり起こしていた。
まだ顔色は悪い。それでも、その瞳は確かに彼を見ていた。
「何よ、怪我人が頑張って声かけてんだから、なんか喋りなさいよ。」
「ごめん。えっと、弁当食べる?」
そう言って、自分がさっき持ってきた、まだ暖かい方を差し出した。




