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第7章 私の父、私の娘

 

 屋敷の近くに馬小屋が見えた。


 かなり大きな馬小屋で、十頭は余裕で馬が入りそうな大きさだった。


 「帰りはあの馬で逃げるぞ。」


 アンドリューの声に皆うなずき、屋敷の裏口へと入ってゆく。


 アンドリューの胸は高鳴っていた。


 しかしそれは人の道から外れてしまう時にあらわれるどうしようもない不安というより、早くリディルを助け出したい焦りからの高鳴りであり、同時にフィリップへの怒りの響きであった。


 中は広く、廊下には白いろうそくが掛けてあり、近づくとほのかな温かさが頬をなでた。


 そこから足音がこちらに近づいてくるのが分かる。


 フィリップだった。


 アンドリューの目が彼を見た瞬間にひきつった。


 オスカーはそのせいで荒くなりかけている彼の息を必死に抑えようとした。


 「早く隠れろ。」


 四人はそれぞれ近くにあった死角や、部屋に入ってドアで聞き耳をたてた。


 だがフィリップには何かの拍子に彼らが隠れる姿が見えたに違いない。


 彼は驚いた顔になって走って、もと来た道を引き返してゆく。


 「おい、奴が逃げた。 人を呼ぶつもりなんだ! 行くぞ!」


 四人は階段を猛スピードで駆け上がっていく貴族の後を追う。


 「きゃあ!」


 先頭を走っていたアンドリューがメイドと鉢合わせしてしまった。


 三人は戸惑ったが、彼はそんなことは気にも止めずに走り続ける。


 やがてメイドが気絶すると、残りの三人も後に続く。


 「待て!」


 フィリップが白いドアのある部屋に入り、内側からカギをかける音がした。


 「そこか、逃がさんぞ!」


 三人はドンドンと強く扉をたたいたが、開く気配は当然ない。


 「どけ!」


 アンドリューは三人をどかせると、先ほど兵士から奪ったサーベルを抜いて、ドアに突き刺し始めた。


 それも、ものすごい勢いで、刺して刺して刺しまくり、円形状に穴をあけ、弱くなった中心部分を蹴り飛ばしてはずしてしまった。


 穴がぽっかりと開いたところから、彼は腕を伸ばし、カギをはずす。


 「や、やめろ。 来るな!」


 フィリップは青ざめた顔で言う。


 この偽善者めが!


 アンドリューの脳裏に醜い言葉が浮かんでくる。


 止めようのない滝から流れる大量の水のように、フィリップを容赦なく責める。






 「私の顔がぁ!」


 「リディルはどこだ? 言え!」


 フィリップは痛みに悶え、顔を火であぶられたときのように左右に激しく動かしていたが、彼のリディルという言葉を聞いて、突然動きを止めた。


 「お前は誰だ? まさか、いや、そんな。 そんなはずはない。 あの娘のことをどこで聞いた?」


 どうやらフィリップは、あくまでアンドリューが死んだものと思っているらしい。


 彼は腹がたった。


 なぜ自分を認めようとしないのか?


 殺してしまえ、殺してしまえば顔を見られようが、正体を明かそうが、彼がこの屋敷に忍び込んだ証拠を根こそぎ消し去ることができるのだ。


 「もう一度言う。 あの子はどこだ?」


 その時アンドリューの仮面に向かって、フィリップの泡の混じった気味の悪い粘液が飛びついてきた。


 べっとりとした液体は名誉や名声、評判の崩落の象徴。


 一市民でしかない彼にとって、それは尊厳の欠落を意味し、彼の奥底にある普段は悟られることのない心の弱さにまで響き、精神をねじ伏せようとした。


 「殺してやる!」


 仮面を外し、彼は理性なき頭で剣を抜き、フィリップの胸に飛び込んだ。


 俺じゃない!


 お前が俺に殺しを実行させたんだ!


 あおられさえしなければ、殺しなんてできなかったんだ!


 自分は強くなったふりをしていただけだった。


 弱さがまだ残っていた。


 弱いがゆえに殺しをためらい、弱いがゆえに違う生き方を恐れていたんだ。


 彼の記憶はその後しばらくはどういうわけか消えてしまった。






 「アンドリュー! 見ろ、鍵がある。 これでどこかの扉を開けられるかもしれない。 子供はきっとそこだ。 良かったな。 まだ売られていなかったみたいだ。」


 彼の仲間たちが口ぐちに言う。


 目が覚めたとき、彼は片手を血に染めて横たわり、動かなくなったフィリップのそばに立っていた。


 貴族は死んでいた。


 ピアノの方向に指をさし、うつろな力の抜けた目をして倒れていた。


 アンドリューはそこから目をそらさなかった。


 「アンドリュー? どうした?」


 オスカーが声をかけてきた。


 「いや、なんでもない。」


 目をそらすな。


 殺した相手に向かって、いくら憎くても、どんな理由でも、敬意を払う。


 目をそらさないのは、さらし者になった死者の不幸を楽しみ、あざ笑うためではない。


 死後も相手の存在を記憶に残し、自分の行いとして留めておくためである。


 彼は決して笑わなかった。


 瞳も動かさず、不動の姿勢で立っていた。


 心の中でも笑わなかった。


 「死を喜ぶなんて、俺はそんな生き方はしない。 不幸を笑うなんて、そんな生き方はゆるさない。


 フィリップの死体に一言だけ言葉を投げかけると、彼は三人とともに部屋から出て行った。






 「どこなんだ、リディル! どこにいるんだ!」


 これまで胸に経験したことのないほどの息苦しさと動悸が走る。


 走っては鍵を扉に差し込んでいく。


 「ここもだめか。 後は地下倉庫しか残っていないぞ。 本当にここに娘がいるのか?」


 「黙ってろ!」


 すごい剣幕で叫び散らすアンドリューに、場は一瞬だけ静寂に包まれた。


 早く見つけなくてはならない。


 見つけられない、見つからないなどという選択肢は彼の中にはなかった。


 どんなに時間がかかっても必ず見つける。


 いや、見つけなくては…


 リディルのもとへ行かなくてはならない。


 あきらめたら、アンドリューがリディルへの愛を閉ざしてしまうことになる。


 あきらめられるわけがない。


 彼は自らの本心で走っているのだから。


 「あれじゃないか?」


 ヴィクトルがらせん状の階段を降りたところに重々しい鉄枠がはめられた牢獄のような扉を発見した。


 「リディル!」


 アンドリューは誰よりも早く階段を降り、一人で扉の前に立つ。


 鍵がかかっている。


 きっとこの奥にリディルがいるに違いない。


 どうか無事でいてくれと、彼は精一杯願った。


 鍵を差し込み、扉を開けた。


 ギシギシと鉄のきしむ音とともに、扉は開き、中からひんやりとした外気にも似た風が彼らの髪を揺らす。


 「真っ暗だ。 これじゃ何も見えない。 エミール、たいまつをかしてくれ。」


 アンドリューは灯り一つない闇の先を赤き炎で照らした。


 中は明るくなり、壁が石造りであること、そして山のように積み上げられた金銀、装飾品の横にベッドがあること、そのベッドに静かに小さく丸くなっている姿勢で寝ているリディルがいることが分かった。


 「リディル!」


 アンドリューはベッドに近づいていく。


 だが、彼女の頬に手を触れようとしたとき、誰かの声が聞こえた。


 「その子に触るな! 人殺し! けがらわしい怪物め!」


 ふとあたりを見回すが、オスカーも、財宝を見て夢中になっているヴィクトルとエミールも声を発している様子はなかった。


 彼の心の声が、生き残っていた昔の良心が反発を始めていたのだった。


 「アンドリュー? どうかしたのか?」


 「いや、別に。」


 彼はオスカーにそう言うと、再びミレットのほうへ顔を向けた。


 とても苦しそうだ。


 眠っていて、無意識のはずの彼女は、身を守るように小さな体を丸めている。


 「俺は確かに人を殺した。 世間で言う、悪になったんだ。 だが軍人はどうだ? 人を殺すためにいるようなものだ。 国を守るために戦う。 それが大義となり正義となるなら、俺だって正義だ。 この子を守るために戦ったんだ! どうしてそれが罪なんだ? どうしてこうも世間の目は傲慢なんだ!」


 「お前は人を殺したんだぞ? 人の可能性を奪ったんだ。 死んでいい人間なんているはずがない 。それにあの子はもともとお前の子じゃない。 それに命令された軍人と違って、お前は自らの意志で人を殺したんだ。 お前は本当の悪魔なんだ。」


 「ああ、なんて傲慢な言葉を投げつけるんだ。 良心のある人間が、こんなにも果てしない糾弾と文句を永遠に俺に浴びせるなんて、まったく予想もしなかった。 善の奥にいる黒い心を俺は知っているぞ!知っているとも! 不幸を笑っているんだ! 世を正す仮面をかぶって、他人の不幸を笑っているんだ!お前たちなんかに更生とか正義なんて言葉は似合わない!」


 心の葛藤はアンドリューの肉体のはざまで激しく争っていた。


 他方が言い返せば、もう一方が反論した。


 だが、どんな言葉よりも、結果としては自分の意志にしたがったほうの彼が勝利をおさめた。


 「死んでいい人間なんていないだって? リディルを守るためにはそれしかなかった。 ひどい目にあった人間しか分からないつらさがあることを知っているんだろう? お前が一度体感してみるといい。 そのとき罪は罪だなんて高尚な言葉が聞けるのか? 正義感だか何だか知らないが、人を糾弾する本能を抑えられないような人間に、そんな冷静な判断ができるわけがない! これが俺の意志だ! 後悔はしていない。 来るなら来い! お前たちが黒く強大な牙で俺の心を砕こうとするなら、俺は信念に誇りを持って、より巨大な雷でお前たちを刺し貫いてやる!」






 「おじさん! おじさんっ!」


 ふと気がつくとリディルが彼の胸にすがり、涙を流していた。


 「リディル。 もう心配ない。 おじさんが悪かった。 恨んでいないのかい?」


 「どうして? ずっとおじさんに会いたかった。 怖かったわ。」


 久しぶりに彼女の髪を触った。


 ペットの毛に触っているような気持ちだった。


 彼女の髪の感覚に飢えていた自分はなんと情けないのだろう。


 自分の手汗で髪がべとつかないように、彼は二三度だけ彼女の頭に手を置いておくことにしたのだが、リディルはアンドリューの胸のほうへ首を傾けて、自分の頬をくっつけてきたから、ほどほどにするはずが、結局は長い間彼女の髪を触っていることになってしまった。


 「リディル。 おじさんの髪は汗でいっぱいだ。 大事な髪なんだろう?」


 「後でお手入れするわ。 でもわたし、すごくこわかったのよ。」


 「ああ、分かっているよリディル。 おじさんもすごくさみしかった。 だからいつまでもここにいないで外へ出て帰ろう。」






 月夜に照らされた小道の上を、四頭の馬が走っていた。


 馬は屋敷のそばにある小屋から持ち出されたようだが、盗まれたと騒ぎ立てる者は誰ひとりいなかった。


 四頭のうち、一頭の馬には少女と男が乗っていた。


 男が手綱を持ち、少女のほうは男の体にしがみつき、馬の揺れに耐えていた。


 しかしその表情は苦々しくなく、さわやかな笑みに満ちていた。


 彼女は言った。


 「おじさん。 おじさんのこと、お父さんって呼んでいい?」


 彼も言う。


 「ああ、いいとも。 好きに呼ぶといい。」


 そこには心の灯りがともっていた。


 激しいあまり、暑苦しいほどだったが、不思議と汗をかいてもうっとうしくもなんともないのだ。


 むしろまとわりつくほどに、そばにあってほしいと願えるようなものであった。


 私の娘はここにいた。


 実の娘ではないがここにいた。


 血によってではなく、人間の理性とはほど遠い情という特殊なものによってできた娘がいたのだ。


 父もそこにいた。


 そこには娘を守る父もそこにいた。


 人としてのありかたには個人によって違いが出てくる。


 個人によって考えが違えば、当然どちらが正しいかという闘争が生まれる。


 人はどうして異質な考えを恐れ、つまはじきにするのだろう?


 自分こそは聖なる者という意識があるのではないか?


 きっとそうに違いない。


 そうでなくてはこの世に正義などという都合のよい言葉が存在するはずがない。


 傍目からは歪んで見える愛が、彼にとっては正しさの塊であり、彼とリディルについてごちゃごちゃと文句を垂れるものがいたなら、彼はためらわずにその者を追い詰めるだろう。


 今の二人の関係は、彼の最良の審議によってもたらされた意志であり、その意志を阻むものは傲慢な偽善者でしかなかった。


 「何が正しいかなんて人が決めることだ。 今や俺にとって、悪こそが正しい生き方なんだ。 いや、悪なんて押しつけられたような言葉はやめよう。 これが俺の意志だ。 なあオスカー?」


 「ああ、俺たちは仲間だ。 騎士だ。 自分の考えで行動する騎士なんだ。」


 オスカーは内心驚いていた。


 今まで悪と言われた人ならざる者たちの集まりが、これほど暖かいところだとは思わなかった。


 アンドリューにリディル、エミールに、命を助けたヴィクトルも小さな枠の中にいた。


 互いを認めてくれる場所だった。


 歪んでいるとされる愛さえも…


 






 



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