第6章 最良の審義
オスカーが酒場の壁に張り紙をしてから三日が経った日の夜、シャンドレーの船着き場ではフランス兵士が見張りをしている陰で、二人の若い男が息を殺して誰かを待っていた。
一人は背が高く、茶色い長めの髪の男で、名をヴィクトルといった。
もう一人はエミールという名で、ヴィクトルと同じく茶色い髪をしていたが、彼と比べると、なでてもたってしまうほど髪は短かく、背もほんの少し低い男だった。
二人とも市民の服を着ていたが、その目つきには、音を立てずに獲物を狩る、野生の猛獣に似た荒々しさがあった。
無理もない。
彼らは相当な腕を持った強盗で、いつも二人でつるんでいた。
二人はふと、正面からやって来る人影に気づいて、手を振り合図した。
人影はあたりを警戒しながら二人に近づいていく。
「遅いぞ 。何をやってた?」
ヴィクトルが人影に小声で言った。
「すまないな。 人を看病していたんだ。」
「まあいいじゃないか。 誰かが損をしたわけでもない。」
エミールは眠そうにあくびをこらえながら、早く帰りたいとばかりに退屈そうな態度を示した。
「いいや、損した。 俺たちの生きている時間が、何もしないうちに短くなったじゃないか。」
「俺たちの時間か? どうせいつも酒におぼれているだけなんだから、少しぐらいはなくても変わらない。 だいだい、兄貴が張り紙を見て、俺に行こうって言い出したんだろう?」
どういう経過があったかは分からないが、エミールはヴィクトルのことを兄貴と呼んで慕っていた。
強盗を兄貴と慕うとは、よほどのことがあったのだろうと人影は思ってヴィクトルを見ていたが、エミールに言い負かされた決まりの悪さを彼に悟られて、何事もなかったかのように話題をそらされた。
「で? あんたが犯罪をやりましょうって、ふざけたことを言ってる野郎なんだな?」
ヴィクトルは冷静になったとたん、いかにもチンピラなまりの酒に酔ったような声でしゃべってきた。
「ああ、そうだ。」
人影はオスカーだった。
「俺たちは何をすればいいんだ?」
「金をやるから、人殺しを頼む。」
エミールはオスカーのまじめな顔つきを見て噴き出すのを必死にこらえていた。
「何がおかしい?」
「ああ、悪かった。」
彼は意外と素直に謝ったが、オスカーが話を続けようとすると、再びほほを膨らませて両手で口を押さえていた。
「よく分かった。 じゃあ俺たちはその病人が治るのを待ってから、フィリップっていう豚の屋敷に忍びこむってわけだな?」
「そういうことになる。 ところで、お前たちは殺しをやれるか?」
重要なのは彼らの正体や威圧感ではなく、人を殺すほどの精神を持ち合わせているかどうかなのだ。
こんなことは皮肉以外の何物でもないと彼は思った。
負傷兵を助けてきた自分が、今は人の命を奪う仲間づくりを進めているなんて考えたくもなかった。
全てはアンドリューが心変わりしたせいだと、彼を非難し、怒りの矛先を向けたくなったことは、この数日間のうちに数え切れないほどだった。
縁を切ったほうが良かったのか?
しかしオスカーにとって、それはあまりにもひどいと思える選択肢だった。
人はたいてい、付き合っている人間の性格が分かったとたん、手のひらを返すように縁を切るものだ。
自分は彼の友人なのに、友人とは、縁を切ってでも相手に間違いを正させる、といった決まり文句のような考えで行動したくなかった。
それはそういうものだという、子供でも騙されないような理由で、長年培ってきた縁を切りたくなかった。
自分は彼の友人なのに、いや自分は…
自分は彼の悪友なんだ。
人間の道から、やぶの中へそれていってしまった彼を後押ししている限り、たとえ自分がいくら善人ぶっても彼を糾弾し、非難し、拒まない限り、悪友という輪廻からは抜け出せない。
世間が抜け出したとは認めない。
断固として。
「俺は悪なんかじゃない。 人を殺したくない。 人を愛する心はちゃんと持っている。 彼にだって忠告したじゃないか。 なのにどうして悪者扱いなんだ?」
オスカーの頭の中で、さまざまな疑問が浮かんでくる。
彼は自分が悪だといういことを認めようとはしていなかった。
「そうかい? 一度でも悪に染まったら信用ならないのかい? だから悪なのか? 信用ならないから、自分たちが安心できないから悪なのか! なんて傲慢なんだ!」
自分はアンドリューの後に続いて罪の手助けをしているのに、今さら善良な民だと言い張っている。
なんて傲慢なんだろう。
世間の人間は、少しでも悪に染まった人間には、いや、染まっていなくても素振りさえ見せればところかまわずその者を攻撃し、決まりの悪い表情を笑い話の種にして、祭りのように喜び騒ぐのだ。
なんて傲慢で、醜い心を持っているんだろう。
「なんだ貴様ら。 どこから入ってきた?」
オスカーはその声で妄想から抜け出たが、その時彼の口はヴィクトルの手によってふさがれていた。
向かい側には銃を構え、サーベルを腰に下げた一人のフランス兵士が三人をにらみつけている。
「ここにいるということは、密航か? それともスパイか? 正直に言え。 どこから来た?」
いまさらただの市民だと言えるような状況ではない。
オスカーを除いて、二人は顔を見合わせると全速力で逃げ出した。
「待て!」
いつの間にか反対方向からも兵士が二人駆け付けた。
大変なことになってしまった。
三人のいる道は細長く幅の狭い石の路地で、側面を海に囲まれていたため、彼らは兵士に挟み撃ちにされてしまった。
「うおおおっ!」
突然、最初に現れた兵士がオスカーめがけて突っ込んできた。
手にはサーベル。
「ふん!」
しかし彼は巨体を生かし兵士のサーベルを握っている手をつかむと、足で突き飛ばし、海に落とした。
「やあああっ!」
海に落とされた兵士を見た残りの二人も突撃してくる。
「そいつらも海に落とすんだ!」
だがオスカーの指示に反して、ヴィクトルは持っていた短剣で兵士の腹部を突き刺した。
「ぐっ…」
兵士は痛みに顔をゆがめる。
腹を押さえながら、何とかヴィクトルを突き放そうとするが、血は次々とあふれ出てきて、視界はぼんやりとしてくる。
彼は弱っている兵士にこれでもかというくらい全身の体重をかけ、敵の懐にもぐりこみ、刃を奥深くめりこませる。
その時のヴィクトルの目は赤く燃えさかる炎のように血走っていた。
一方でエミールも兵士に突っ込んでいく。
「おい! よすんだ!」
彼の叫びもむなしく、エミールはヴィクトルと同じように返り血を浴びてひるんだ残りの兵士のすきをつき、乱闘の末、彼の頭を肩に寄せ、手で押さえつけると首を横一直線に刺し貫いた。
そうだ、忘れていた。
この二人は強盗だが、殺しができる者たちなのだ。
一般人と同様に話しかけ、会話もはずんでいたから、うっかり油断するところだった。
「なあ、あんた大丈夫か?」
「あ、ああ…」
ヴィクトルは血がついた顔を手で擦りながら、生々しい殺しあいの場を見て、うわの空の返事をするオスカーを疑わしげに見た。
「こんなの初めてだ。 殺しのために仲間を集めてるって? ふざけるんじゃねえよ。」
エミールはあきれた声で言う。
人を殺せないなら、彼らはオスカーに興味を示さなくなり、帰るだろう。
なんとか証明しなくては。
このままでは、せっかく集まりかけた仲間がいなくなってしまう。
だが、自分は殺しをしないと誓ったのだ。
だがら軍から離れてここにいるはずなのだ。
そのときだった。
「危ない! 後ろだ!」
だが遅かった。
先ほど海に投げ出された兵士が海藻まみれになった軍服を手で払いながら、二人の服をつかむと彼らを投げ倒したのだ。
「うあっ!」
エミールは着地に失敗し、頭を強く打ち気絶した。
「エミール、助けてくれ!」
ヴィクトルのほうは頭はぶつけなかったが、突き飛ばされたとき足を滑らせ、なんとか道の端に手をかけてぶら下がりエミールに助けを求めていた。
「このチンピラめ! 殺してやる!」
兵士は怒ってサーベルを抜くとヴィクトルめがけて斬りかかろうとする。
よせ、やめろ。
行くな!
オスカーの心は揺れていた。
今までの自分を否定して、アンドリューのように悪に染まるのか?
考えている時間はない。
それに加え、彼には彼が誤った道を歩んでしまわないように忠告する者がいなかった。
彼自身でしか人の道を保てる存在はいなかった。
ヴィクトルが手をこまねいている自分をにらみつけているのが見える。
「なぜ俺を助けないんだ! ろくでなし! くそったれ! しょせん正義なんてそんなものだろう? 何が善だ! 困っている人を助けるのが正義じゃなかったのか? あんたは、あんたには悪魔が宿っているんだよ。 ただ、今は静かに眠っているだけさ。 その気になりゃいつでも牙は生えてくる。 良い人間の価値観は自分の利益を中心に回っているのか?」
死を前にしたヴィクトルが、そんな言葉を口にした。
良くも悪くもない。
自分はオスカーという一人の人間だ。
善にも悪にも揺さぶられない強固な意志を俺はしっかり持っている。
自分なりの最良の考えで、自分の信じる考えに従って生きるのが俺だ。
オスカーは走っていた。
兵士に横から飛びかかった。
サーベルを奪い、背中を突き刺した。
手に肉を裂く感覚が伝わってくる。
俺がやったんだ。
彼は自分に言い聞かせる。
兵士は血を吐き、赤く染まった歯を食いしばり、オスカーを全人生の恨みをかき集めたような目でにらむ。
恐怖に体が震える。
人を殺した恐怖と、殺した相手に恨まれる恐怖。
「はあ、はあ、はあ…」
オスカーの息遣いのみがあたりに響く。
兵士は痛みにもがくことなく、静かに息を引き取っていた。
なるほど、この兵士は最期まで軍人の名誉を守るために、声一つ上げなかった。
やってしまった。
「俺が、やったのか?」
「ああ、あんただ。 やればできるじゃないか。」
ヴィクトルは自力で道の上へと這い上がると、彼に握手を求めてきた。
「俺はヴィクトル。 そっちがエミールだ。 よろしくな。」
「よろしく。 オスカーだ。」
彼はためらうことなく手を差し伸べた。
もはや彼もアンドリューと同じ立場なのだ。
「用件は分かるな?」
「ああ、フィリップってやつを脅せばいいんだろう?」
オスカーの部屋で寝ているアンドリューに、強盗の二人は言った。
「オスカー、お前は無理するなよ?」
「いや、大丈夫だ。」
彼のあまりにも率直な返事にアンドリューは何かあったのだろうかと顔色をかえた。
横ではエミールとヴィクトルが笑っている。
「殺したのか?」
オスカーは黙ってうなずいた。
「そうか。 なら俺もこうしちゃいられない。」
「おい、もう傷は治ったのか?」
ベッドから這い上がろうとするアンドリューを、オスカーは止めようとした。
「心配するな。 お前のやったことに比べれば、こんなのたいしたことじゃない。」
アンドリューは続いてエミールとヴィクトルに言った。
「顔を見られないようにする方法は? これからやることには危険がついてまわる。 とくに他人に目撃されたらおしまいだ。
「こういうことか?」
二人は荷物の中からヴェネチアの仮面をとりだした。
貴族が身につけるものではなく、木で彫られた安価なものだが、正体を隠すには十分だった。
「それと、こいつはおまけだ。」
エミールは黒いマントをとりだした。
聖職者が身につける丈が足首まであるローブを改造したものだった。
仮面とマントは、二人がいつも使っている犯罪道具だ。
これで罪すらも隠してしまいたい願望を掻き立てられる者は多い。
しかし、アンドリューは違った。
自らに知の断罪を課した限り、隠したいという気など起こしてはならないのだ。
「今からやつの屋敷へ行くぞ。 準備は良いか?」
皆それぞれに、武器を持ち変装した。
この世間でいう狂気に満ちた集団を止められるものはいない。
ところでアンドリューには、リーダーとの区別がつくようにと、ヴィクトルが大切に持っていた金装飾の仮面が与えられた。
彼はリディルを救うため、走っていく。
夜の闇に消えていく。
「リディル、待っていてくれ…」
最後にはっきりと聞こえたのはアンドリューの悲しげな声だった。