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第5章 殺しの手助け

 

 熱い。


 心の奥底から、怒りのみを頼りに這いあがった闇が姿を現そうとしている。


 やがてそれは刃の痛みさえも克服していく。


 「痛い。 いや、痛くないぞ。 俺は死ぬのか? もう死んだのか?」


 このまま死ぬなんて、出来っこない。


 俺は必ずやつらに報復してやるんだ。


 今の彼には、生きていたいという願望よりも、貴族を地獄に葬ってやりたい気持ちのほうが強かった。


 「俺が生きて、やつらを倒さなくてはならない。」


 生きる希望や喜びとは違った生存を、彼は望んでいた。


 悪魔が地の底からよみがえる場合とそっくりの生き返りを望んでいた。


 彼自身が、自分を悪魔だと位置付けているのかは分からない。


 だが、アンドリューの心からにじみ出てくる憎しみは、もはや善人の色を失っていた。






 「ここは、どこだ?」


 目が覚めると、彼は見知らぬ家のベッドに寝かされていた。


 自分の体は包帯で巻かれていて、刺された胸のあたりからは血の跡がうっすらと残っており、白い布切れを赤く染め上げていた。


 「気がついたか?」


 声とともにがっちりとした体つきの大男が出てきた。


 男は白衣を着ていたが、その体躯といい、栗色のはげ頭に近い短髪といい、どう見ても医者ではないように思われた。


 「びっくりしたよ。 家の前でお前が倒れているっていう知らせがもう少し遅けりゃ、今頃は命を落として棺桶の中だ。」


 「オスカー。 お前に借りができたな。」


 男はオスカーという名で、アンドリューの古き友人だった。


 少し前まで彼は、シャンドレーの軍医をしていて、辞職してからは船大工という体を生かした仕事で生計を立てていた。


 「一体、何があったんだ?」


 彼はベッドのそばにあったイスに座ってアンドリューにたずねた。


 「実は…」


 彼は事態の一部始終をオスカーに話した。






 「大丈夫。 俺はお前を軽蔑したりなんてしないさ。 ところで、そのリディルって子は今どこにいるんだ? 俺は軍から足を洗った身だから、できれば殺しはしたくないが、お前にとって大事な人間なんだろう? 協力してやってもいいし、お前の復讐したい気は分かるが、どうするんだ? 相手は貴族だぞ? 敵にまわせば厄介だ。」 


 彼はアンドリューの話を聞いたものの、不安気に言った。


 一刻も早く仕返しをしてやりたい。


 しかし、あせってはリディルを救うことすらかなわないだろう。


 「考えろ。 考えるんだ。」


 彼は片手を額の上にあてて、一人で熱病にでも駆られたかのようにつぶやいた。


 「おい、大丈夫か? まだ体が本調子じゃないから無理するな。」


 アンドリューの憎しみに満ちた声に、オスカーは驚きを隠せなかった。


 軍人としてあまたの戦場を経験し、また軍医として自らの手を他人の血でまみれさせた過去を持つ彼さえも、心の動揺を克服するすべを見失いかけていた。


 彼はこんな人間だったのかと疑問に思いつつ、今は友人として励ますほかはなかった。


 「そうだ。 俺はもう死んだことになっていると思わせておけばいい。」


 突然アンドリューが言った。


 「ジェルマンの居場所は分からないが、もう一人に聞けばいい。 フィリップだ。 フィリップの屋敷に忍び込んでリディルの居場所を聞くんだ。」


 「なるほど。 死んだはずの人間が自分の屋敷まで来るなんて、相手は思ってもいないだろう。 のうのうと酒びたりになっているかもな。 だが、聞くって、脅すのか? 仕返しを受けるぞ?」


 アンドリューは荒い息をして、鋭い目つきをしている。


 オスカーは悟った。


 「まさか、殺すのか? おい、アンドリュー。 なんとか言えって。 俺は殺しなんてしたくない。 最初にそう言っただろう?」


 「俺がやる。」


 「なんだって?」


 「聞こえなかったか? 俺がやつを殺す。 血の海に放り込んでやる! うっ…」


 彼はいきり立ったせいで激しい胸の痛みをおぼえた。


 「その体じゃ無理だ。 それに二人じゃ危険すぎる。」


 しかし彼はオスカーの忠告をさえぎるように言った。


 「いいや。 リディルは、俺が守らなくちゃならないんだ。 俺のせいで、早くしないと売られてしまう。 そうなったらもうあの子を探す手がかりはなくなるんだよ!」


 「なら、良い方法でもあるのか?」


 オスカーは真剣な目で彼を見る。


 「急いでいるのは分かってる。 でもお前がいなくなったら、一体だれがリディルを連れ戻すんだ? あの子を捨てた親か? 今は俺に任せてゆっくり休め。 何か良い方法がないか考えてみる。」


 「すまないな、オスカー。 いつも借りを作ってばかりで…」


 アンドリューの言葉を聞いたあと、オスカーは後ろを向いたまま微笑して部屋から出て行った。






 「殺しか。 アンドリューは殺しなんてするやつじゃない。」


 部屋から出てきた後で、オスカーは船着き場で風に当たっていた。


 恐ろしいものだ。


 憎しみや欲望は、人をこんなにも変えてしまうものなのか?


 自分が長年付き合ってきて、すべてを知った仲だと思っていた友人が、ある日突然心変わりしてしまうのはあまりもショックだった。


 「殺しなんて、罪人ならともかく、普通の人間がすることじゃない。 いや、まてよ…」


 罪人と言って彼は少しの間考えていたが、何かを思いついたのか目を大きく開くと、急いで酒場のほうへと走っていった。






 「本当にそれで人が集まるのか?」


 ベッドに倒れ、疑わしい目を向けるアンドリューに彼は自信たっぷりに言った。


 「ああ、もちろんさ。 あそこは酒場の連中が情報集めによくやってくる。 なかでもガラの悪いやつはああいう陰気な裏路地に集まりやすいからな。 犯罪人の一人くらい、息をひそめていたっておかしくない。 そこに貼っておけば、絶対に人手はそろう。」


 オスカーは持っていた紙を得意げにひらひらと見せる。


 紙にはこう書かれていた。



 金に困り、罪に走ろうとしている者、募集。集合場所、シャンドレーの港。集合時間、三日後の深夜。人員制限、なし。ただし、あまりにも多く集まった場合は、人数を調整することがあるため、事前に了承しておくこと。



 まるで軍の報告書のような言い回しだった。


 「あとはお前の傷が治り次第、俺の家にならず者を集めよう。」


 「ああ。 そうしてくれ。」


 アンドリューが返事をすると、オスカーが急にあらたまって言った。


 「いくつかお前に言っておく。 もし仕返しに困っても、俺を巻き込むなよ? これはお前の問題だ。 それともう一つ。 今なら間違いだと言って、あの紙をはがすこともできるんだぞ?」


 「いいや、必要ない。」


 その冷静な声を聞いてオスカーは、彼のやろうとしている罪に対する覚悟が本物だということを確認した。


 「もう戻れない。 お前は最後まで悪人だ。 いいか、その事実から逃げるなよ? 決して神なんかに助けを求めたりするなよ?」


 「安心しろ。 俺が選んだ道だ。」


 これからアンドリューは、盗みを働きながら生きてゆく。


 一生恥を背負い、罪を自覚した自らに知の断罪という聖なる槍を向け、刺され、悶える。


 たとえ何度刺されても、返り血を浴びる者が増えるばかりで、彼自体は滅びることはない。


 彼の精神のみが腐っていくのだ。


 彼女とともに生活するためとはいえ、彼をゆるしたのはオスカーただ一人。


 そのオスカーも、必死に彼の目を覚ませてやろうと、善人に戻してやろうと呼びかけた。


 だが、彼はそこから動かない。


 オスカーは彼の言葉を聞いて二、三度うなずくと、それ以上は何も言わなかった。


 






 


 


 


 


 


 


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