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第4章 美しき復讐の萌芽

 「私を愛してくれるの? ねえ、おじさん。 私を愛して。 私を、お父さまが愛して。」


 リディルが一面、白い花畑に立っている。


 嬉しそうに笑みを浮かべ、そばになぜか一つだけ咲いていたアイリスの花を摘み取って、彼に手渡す。


 そして彼のほほにキスをする。


 そよ風が吹いて、ときおり彼女の髪を揺らす。


 彼女を初めて目にした時、その髪はひどく乱れていた。


 それが今では、昨日手に触れた時よりもきれいに整っている。


 「リディルは良い子だな。」


 アンドリューは花をくれたお礼にと、彼女の髪を触ろうとする。


 だが、彼女は突然、彼の手を避けるように後ずさりした。


 「リディル? いったいどうした?」


 「ダメなの…」


 「ダメって、何が?」


 アンドリューにはまったく理解できなかったが、すぐにその意味が分かった。


 「私の髪はね、フィリップお父さましか触っちゃいけないのよ。」


 「ああ。 そうとも。」


 いつの間にかアンドリューの横にいたフィリップが言った。


 「君は私にこの子を譲った。 だから君は今日から、リディルのおじさんでしかない。 君に父親の資格はない。 もちろん、彼女を抱くことも、彼女のほほにキスをすることもできない。 彼女の髪をなでつけることもね。 分かったかね?」


 「そんな…」


 先ほどからフィリップの態度が妙に陰険だ。


 彼は少し頭にきて、目の前の貴族に言い放った。


 「それくらいはいいだろう? 他人の子の髪を触っちゃいけない法律がどこにあるって言うんだ?」


 「いい加減にしたらどうなんだ?」


 フィリップの性格からは思いもよらない反論がきた。


 「君が私に押しつけたんだ。 リディルがいなくて気が楽になっただろうに。 今さら何が不満だと言うんだね? 薄汚いネズミ君。」


 「なんだと…」


 「おっと。 もうこんな時間だ。 リディル、早くしないと学校に遅れるよ? 私が馬車で送らせよう。」


 彼はリディルの手を引いて消えてゆく。


 「リディル! 待ってくれ。 リディル!」


 「さようなら、私のおじさん。」


 彼女は彼に一言告げて、カモミールの白い花畑とともに遠ざかっていく。






 耳元で鳥のさえずりが聞こえる。


 窓が開いているためか、朝のひんやりとした、しかし悪寒を感じさせないさわやかな風が、寝ているアンドリューの頬を滑るように通り過ぎてゆく。


 「今日もいいお天気ね。 小鳥さんたちも晴れるって言っているみたい。 でも、お昼ごろから曇り空だってお日様は言っているわ。 おじさんはどうなの? 晴れると思う?」


 リディルが悪夢から目覚めたばかりの彼に問いかけた。


 「大丈夫。 きっと晴れるさ。」


 彼はベッドから起き上がると、窓枠に腰掛けているリディルを持ち上げると、そっと木の床の上に立たせた。


 「こんなところに座っていたらあぶないぞ?」


 そう言ってアンドリューは彼女の髪をなでた。


 夢ではない。


 本物だ。


 これがリディルなんだ。


 あんな夢の直後だっただけに、彼は思わずリディルを抱きしめた。


 「リディル。 よく聞いておくれ。」


 言ってはならない。


 彼の言葉とは逆に、本能が、欲望が猛烈な勢いで邪魔をしてくる。


 だが、彼は自分に嘘はつけなかった。


 嘘をついてしまったら、彼は悪者で、少女を売ることに加担したいまわしい獣なのだという焼印を、生涯消えることのない闇を背負い続けなくてはならない。


 どんな理由があっても、少女をあのフィリップに引き渡すのは事実であり、彼の負い目になるだろう。


 だが、どうしても根っからの悪にはなりたくない。


 ここで彼女が本当は売られたのだということを伝えておかなくては、自分にけじめをつけることができずに、一生後悔するだろう。


 「おじさんはリディルのために、リディルの幸せのために、これからいけないことをするんだ。 だから、これから話すことを聞いて、おじさんのことを嫌いになるかもしれない。 それでもよく聞いておくれ。」


 「嫌いになんてならないわ。 おじさんのこと、愛してるわ。 大好きよ。」


 愛するという言葉が彼に容赦なく突き刺さる。


 罪とはこういうことなんだ。


 自分のやろうとしていることは、こうして自らの良心という魂の呼吸を止めていることなんだ。


 彼はそう直感した。


 「おじさん。 昨日言ったこと、覚えてる? 私を愛してくれる?」


 愛というきれいな言葉を、これから罪をやらかそうとしている者が使うことなどできるのだろうか?


 できないだろう。


 「リディルのことは大好きだった。 愛していたよ、リディル。」


 我ながらよく思いついたものだ。


 昔のよしみとしてなら、犯罪人だろうが大目に見てくれるときもある。


 すでに過去の事として彼は答えた。


 「本当? 嬉しい!」


 彼女には彼の本意は伝わっていないようだが、フィリップに売ることだけは伝えなくてはならない。


 「リディル。 おじさんは、俺は、今から君を売らなくちゃならない!」


 笑顔で喜ぶ彼女の顔を見るのは、これ以上は耐えられなかった。


 「え?」


 少女の顔からろうそくの火が消えて、あたりが暗くなるように、笑顔がこわばった表情に変わる。


 その幼い瞳の奥からは、やはりというか、彼の想像の範囲内で事が起こっているように思われた。


 「どうして…」


 信じていたのに、あなたはどうして私を裏切るの?


 私のどこがいけなかったの?


 今からではもう遅いの?


 顔を見ているだけで、リディルの言いたいことが手に取るように分かった。


 「ごめんよ、リディル。 でも君の幸せのためなんだ。 大丈夫。 その人はおじさんよりも優しいから、きっと君を愛してくれる。」


 アンドリューが話をしていると、玄関の戸をノックする音がした。


 きっとフィリップがリディルを引き取りにやってきたに違いない。


 「早いな。 君の新しいおじさんが来たようだ。 さあ、おいで。」


 「やだ。」


 リディルは怒った口調で言った。


 「リディル…」


 「私、おじさんと離れたくない。 今のままがいい。」


 そう言って彼女はそこから動こうとしない。


 彼はますますリディルを引き渡しにくくなってしまった。


 彼の予想とは違って、この子は売りに出されることを知らされながら、知り合ってたった二、三日の男にまだついて行こうとする。


 これではアンドリューが、崖を登る彼女をわざと突き落とすみたいだ。


 ドアが再びノックされる。


 「ちょっと待っていなさい。」


 アンドリューはもうやけくそになって、事を強引に進めてしまおうと、木でできたドアを開けた。


 「すまない、フィリップさん。」


 彼はうなだれて下を向いたまま言った。


 フィリップの子をもらうときの満足気な表情など、見る気も失せていた。






 「子供はどこだ?」


 フィリップの声ではない。


 思わず前を向くと、見知らぬ男が後ろに馬車と三人の召使いを待たせて立っていた。


 「あんた、誰だ?」


 しかし男は彼を鼻で笑って軽くあしらうと、奥に立っているリディルを見て言った。


 「フィリップからの伝言だ。 彼は急死した。 だからフィリップの代理人としてお前をもらいに来た。」


 アンドリューは嫌な予感がした。


 細くつり上がった目に、人を見下すような口調。


 声はつめたく、気軽に話しかけられるようなタイプではなかった。


 「そんなことは聞いてないぞ? フィリップがあんたを代理に選ぶとは思えない。 悪いが帰ってくれ。」


 「おっと。 そうはいかない。 私はお前の弱みを握ってる。 どういうことなのか分かるだろう?」


 なんと男はリディルに見えないように、彼の胸に短剣を突きつけた。


 きっと彼がリディルを手放すほかに道はなく、さもなければ殺すということだろう。


 リディルを引き渡す話はフィリップにしかしていない。


 やはり彼がこの冷酷な男をよこしたのだろうか?


 いや、そんなこと信じたくなかった。


 「誰から聞いたかは知らない。 だが、リディルをお前のようなやつに渡すわけにはいかないんだ!」


 彼は確信した。


 この男を何とかしなくては、必ず彼女は連れていかれてひどい目にあう。


 アンドリューは男の服につかみかかって引き倒そうとするが、彼の後頭部に銃の冷たい鉄の感触が伝わってきた。


 「おじさん!」


 「リディル、来るな!」


 しかし、家の外に出てきて戻ろうとしたリディルを、召使いの一人が捕まえて、馬車のほうへと引きずっていく。


 「リディル!」


 「おじさん助けて!」


 アンドリューは怒りに震えて男に叫んだ。


 「フィリップを殺したのはお前だな?」


 「殺しただって? お前は何も知らないようだな? なぜフィリップがお前に近づいたと思う? 彼が優しく見えるからさ。 子を引き取るついでに、お前がどこに住んでいるのか聞き取るのが本当の目的だ。」


 確かに昨日、アンドリューは彼に自分の家への道を教えていた。


 「おかしいと思わなかったのか? 貴族なら、お前に来いと言うはずだろう?」


 「そうか、あんたフィリップとグルになっていたのか!」


 男は不気味に笑った。


 「そのとおりさ。 力じゃあいつはお前にかなわない。 だからこうして私がやってきた。 リディルをもらいに。 そしてお前を殺しにな。」


 男は短剣をもちかえ、その手を高く振りかざした。


 「あの子はきっといい値で売れる。 売れなければ使用人として扱うだけだが。 助けを呼びたいなら無駄だぞ。」


 本当にその通りだった。


 今は早朝で、外には一人も歩いている者はいなかった。


 そのうえ、銃ならともかく、短剣で刺された音で、果たして近所の住民の一人でも気づいてくれる者がいるのだろうか?


 「このやろう! こんなことしなくても、俺はリディルを引き渡すつもりだったのに。 どうしてだよ!」


 「言っただろう。 フィリップは死んだ。 となれば、お前が首をたてに振るわけがない。 私が無理にリディルを奪ったら、お前は仕返しに来るかもしれないだろう?」


 彼が死んだということは本当らしいが、それにしてもひどすぎる。


 「さよならだ薄汚いネズミ君。 ああ、あと私の名はジェルマンだ。 ジェルマン・フロンベール。 死ぬ間際の人間に言っても意味はないがね。」


 ジェルマンは笑って彼の胸に勢いよく短剣を突き刺した。


 「うおっ!」


 痛みが貯水池におちた水滴のごとく、胸から全身へと広がってゆく。


 息が苦しくなり、短剣の刃がじわじわとアンドリューを弱らせる。


 「死ぬ前だから教えてやろう。」


 突然ジェルマンが言った。


 「フィリップは死んでいない。」


 「どういう、ことだ?」


 アンドリューは苦し紛れにたずねる。


 「死んだことにしてくれと頼まれてね。 あいつも臆病で心配性だ。 万が一お前を殺せなかった時のためにな。 わかるだろう? あいつは居場所をお前に知られてる。」


 「死んで、ないなら、どうしてこんなことを?」


 「実は彼には莫大な借金があってね。 私の金と、リディルの所有権を交換したんだ。 ああ、君には借金の話はしていなかったようだ。 だから、彼はもう来ないよ。 いくら待ってもね。 リディルは私のものだ。 もちろん彼がくれば穏便に事が運ぶだろうが、私はお前を殺しておかなければ気が済まないんだ。 世の中なにが起こるか分からない。 何かのはずみでお前が真実を知る日が来るかも知れないからな。」


 「何が望みだ? リ、リディルを、売って、金、もうけか?」


 「ああ、そうだ。 それにフィリップは今だけだが、私の駒だ。 殺されてはかなわんのだよ。」


 「だから、お、お前が、先に、俺を?」


 だが、アンドリューにはもう話す力は残っていなかった。


 薄れてゆく彼の意識の中で、最後に記憶にあったのは、すさまじい恨みと、後悔と貴族への復讐の念だった。


 よくも騙したな。


 よくもリディルを連れ去りやがって。


 よくも俺の体を鉄くさい、そこらの短剣で、台無しに、台無しにしやがって!


 もう貴族など信用するものか。


 善良な生き方も信用しない。


 善良に生きてきて、良いことなんて一つもなかった。


 まったく力が及ばなかった。


 善が勝というのが世の理と言うなら、どうして俺はやつのようなクズに、こんなズタズタに引き裂かれて、こうしてみじめな姿になっているんだろう?


 「あ、ああ。 リディル…」


 彼は手を伸ばし、走り去る馬車を見て少女の名を呼んだ後、地面に倒れた。


 アンドリューの心の中に黒い溝ができていた。


 彼女を守るべきであったのに、本当は守ってやリたかったのに、なんて自分は馬鹿なんだ。


 これからはなんでもする。


 彼女のためならなんだってやってやる。


 だから。


 「だからリディル。 もう一度おじさんの前で、笑顔を見せておくれ…」


 その後、彼の目の前が暗くなり、何も見えなくなったが、同時に誰かの声とともに体が引っ張られ、持ち上げられる感覚が頭に残った。



 


 


 


 


 

 


 

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