第3章 慈愛の代役
アンドリューは茶の間へと案内された。
貴族という貴族を訪ねた結果、やっとのことで子を引き取ってくれる者を見つけることができた。
見つけたとは言っても、実際は彼が子の引き取り手を探していると聞いた貴族が逆に彼に会いに来たということであった。
おそらく、彼が訪ねた貴族に知り合いでもいたのだろう。
それにしても、どこの子か分からない少女を、血にうるさい貴族が、こうも簡単にリディルを引き取る相談に取り合ってくれるとは思っていなかった。
それだけに彼は、この貴族は庶民からの成り上がりか、信心深い貴族かもしれない。
あるいはアンドリューと同じく、ただ子供が好きなのかもしれないと、なるべく良い方向に期待を膨らませた。
「お持たせしてすみません。 さあ、おかけになってください。」
少し太り気味の白いかつらをかぶった、フィリップという名の中年貴族が現れてアンドリューに言った。
丁寧な言葉遣いと、ゆっくりとした穏やかな口調。
第一印象は、彼の求めていた理想にきわめて近かった。
「それで、この子はどこから来たのですか?」
「分かりません。」
アンドリューは正直に答えた。
たとえ嘘をついたところで、リディルがうっかり喋ってしまうだろうし、そこで文句を言う人なら、アンドリューが彼に少女を預けるのは危険と判断しただろう。
「まあ、いいでしょう。 ここのところ、ようやく戦争も終わりましたし、孤児の一人や二人、いてもおかしくありません。」
「よかった。」
フィリップの言葉を聞いて、アンドリューは胸をなでおろして一息つくために、メイドが出してきた紅茶を口に入れた。
「ところで、その子は今何歳ですかな?」
フィリップが彼に言った。
「年はまだ聞いていませんが六、七歳くらいのかわいい女の子ですよ。 女の子ではご不満ですか?」
「とんでもない。 女の子だろうと男の子だろうと、子供には変わりありません。 引き受けましょう。」
「本当ですか? ありがとうございます。 ありがとうございます…」
彼はフィリップに何度も力強い握手をして、リディルがこれから幸せになれると喜びをあらわにした。
「ではさっそく明日の朝、その子を引き取りに来るということでよろしいですか?」
「ええ、お願いします。」
満足感で満たされた帰り道のことだった。
アンドリューは確かに満足している。
良い貴族を見つけた。
これであの少女も幸せにしてやれるし、仕事をして今までどおりに生きていられる。
悪いことなど何もないはずだった。
「いや、まさか、そんな…」
しかし彼は思い出してしまった。
フィリップの屋敷へと行く途中で、リディルの髪に触れた手が、何かを求めるように落ち着かなかった事を。
「いや、だめだ。 今だけだ。 我慢するんだ。」
思えばよく考えもせずに明日の朝という約束をしてしまった。
言葉ではこれでよかったのだと言いつつ、彼は頭の中でリディルを手放したくないと悶えていた。
「明日の朝なんて、早すぎる。」
リディルを愛することに関しては誰にも負けない。
俺のリディルだ。
俺のリディルなんだ。
彼は自分に言い聞かせた。
思いつめるあまりに、自分の今までの行動とは逆の考えが頭の中に蔓延した。
慈愛の代役はフリップに移ろうとしている。
今度はあの小太りな貴族が彼女をリディルと呼び、リディルは彼をおじさんと呼ぶ。
貴族だから、おじさまといったほうが適当だろうか?
もしくは夢に出てきたときのように、フィリップをお父さんと、フィリップお父さまと呼ぶ時がくるのだろうか?
「嫌だ!」
彼はいつの間にか自分の家を通り過ぎて、近くの噴水のある広場で叫んでいることに気がついた。
アンドリューの様子を見た子供が、母親と思われる女性に話しかけて彼のほうを指さす。
女性は危ない人でも見るような目で彼をにらみ、子供を連れて早々にその場を立ち去った。
知らないほうが、少女を知らないほうが良かったとでもいうのか?
話してしまおう。
これまで彼が考えてきたこと、やってきたことを、何もかもすべて。
彼は彼女を失う悲しみから、どうしようもなく逃げ出したくなったのだ。
アンドリューは急いで自宅へと帰った。
「リディルは、リディルはいるか?」
彼は家に入るなり、彼女の名を呼ぶ。
「おじさん、おかえりなさい。 どうしたの?」
「い、いや、なんでもない。 ただ一人にしてきたから心配でね…」
彼は真実を言えなかった。
自分の生活を失うことへの恐れ。
一方で少女を失うことへの後悔。
人間は追い詰められたとき、無意識に自分を守るようにできている。
アンドリューはこの時そう思った。
悲しかった。
自分の本能は、彼女なしでも何も困ることはなく、生きていける。
そう言ってリディルを冷酷に切り捨てることをよしとする。
そんなこと認めたくない。
絶対に認めるものか。
きっとこの子に対する愛が足りないからだと、彼は前向きに考えることにした。
「愛だって…」
はっとして思わず口から言葉がでた。
彼にとって少女を愛することはタブーだったはずだ。
それなのに、あれほど気をつけていたのに、いつのまに自分は彼女のそばにいて、彼女を見、彼女にふれ、近づいていったのか?
そしてついには愛を意識するまでになったのか?
「おじさん、私を愛してくれるの?」
「今日はもう疲れた。 少し休ませてくれるかい?」
彼はリディルの問いかけには返事をせずに、部屋の隅にあるベッドへともぐりこんだ。
できるだけ眠って気を楽にしたかった。
明日になればすべてが終わるのだ。
「リディル。 明日の朝、おじさんの友達が君に会いに来るそうだ。 会ったらその人の家まで遊びに来てほしいそうなんだ。 だから、早く起きてほしい。 いいね? 大丈夫。 とても優しい人だから。」
彼女が笑顔で返事をした事を確認すると、彼はそれ以上彼女を見ないようにして、頭から布団をかけた。
明日になれば、眠ってしまえば勝手に時間が進んで明日になっているのだ。
彼はこの時、彼女の額に、うっすらと赤みを帯びたほほに接吻したい気持ちでいっぱいだった。