第2章 刻まれたリディルの存在
「よろしく、アンドリューおじさん!」
ふと、過去の出来事が頭をよぎる。
それはつい先日に起こった、彼にとって喜ぶべきなのか、よく分からない出来事だった。
少女の無邪気な笑い声が深い眠りの中で響き渡る。
「よろしくね!」
そう言って彼女はアンドリューの手に自分の手を重ねて目を閉じる。
「よろしく、私の新しいおじさん。 よろしく、私の、私のお父さま…」
「えっ? なんだって?」
彼は耳を疑った。
今確かに自分のことをこの少女は父だと呼んだのだ。
「もう一度言ってくれないか?」
こんな夢のようなことは断じて起きないと思っていた。
自分が父だと呼ばれる日など、来ないと考えていた。
「もう一度?」
「そうだリディル。 もう一度だけでいいから言ってくれ。」
こうなったら直接聞いたほうが早い。
リディルは少し頬を赤く染めて、今度は彼の耳元で小さくささやいた。
「よろしく、アンドリューお父さま。 私を違う男の人のところへ売ってしまうの?」
「うわあ!」
ものすごい勢いで、彼はベッドから跳ねるようにして体を起こした。
全身はいつのまにか大量の汗で濡れていた。
季節は秋とはいえ、まだ残暑日が続いている。
そのせいで汗をかいたのかもしれないが、彼の心臓は激しく脈打ち、それが耳の血管にまで勢いを失うことなく、ドクドクと活発な音を立てていた。
「リディル!」
そうだ。
彼女は彼の思惑を知ってしまったのだ。
今すぐにでも、どういうことなのか説明して弁明しなくては。
しかし彼は、ベッドで静かに横になっているリディルを見たとき、自分は夢という錯覚にとらわれていたのだと確信した。
彼は急に少女の顔をのぞいてみたくなった。
どうしてだろうか?
彼には子供がいなかった。
だからとは言えないが、彼にとって夢のような出来事が起こったことで、リディルが本当にそこにいるのか確かめたいという気持ちになった事は明らかだった。
アンドリューは幻を見ているのかもしれないという不安に駆られていた。
彼自身はそのことに気づいていたが、嬉しさのあまり、今度は不安ではなく自分が今までずっと待ちわびていた状況を、心ゆくまでかみしめたくなった。
「リディル。 俺のリディル…」
いつのまにか彼女の寝顔を見る彼の表情はゆるんでいて、口からはとんでもない言葉が出てきた。
すでに彼の心にはリディルが刻まれ始めていた。
「ちくしょう!」
彼はこの子を手放さなくてはならない。
そんなことはとっくの昔に分かっていたはずなのに、目覚めたときに襲ってくる睡魔より強力な誘惑が胸のあたりを痛ませ、しつこくつきまとう。
アンドリューはリディルのほうを見ないようにして、頭から布団をかぶり、眠ろうとした。
「だめだ。 忘れろ、忘れるんだ。 早く眠って忘れろ。 くそ、この悪魔め! あっちへいけ!」
彼は必死で誘惑を遠ざけようと、呪文のように何度も同じ言葉を唱えた。
「くそ! 俺はリディルになんてことを言っているんだ!」
誘惑をはねつけるあまり、彼はリディルに罵声を浴びせていることに気がついた。
しかしこれでは誘惑にとりつかれてしまう。
彼はこの後、あっちへ行ってくださいとか、無理に敬語を使ったリして半泣きになりながら眠りにおちていった。
「おじさん、起きて、朝よ!」
元気いっぱいの少女の声が聞こえる。
目を開くと、すでに明るい日差しが差し込む部屋の中で、リディルがアンドリューの肩をゆすっていた。
「どうした、リディル? 早起きだな。」
彼はそれだけ言うと、布団にもう一度もぐろうと、起こした体を横にしようとした。
「ダメ。 もうお昼よ。」
「何?」
彼はあわてて窓の外を見た。
周りの店はもうとっくに開いていて、大勢の買い物客でごったがえしていた。
「おじさんのお仕事は?」
「仕事だって?」
今日彼は幸いにも休業日だったから、ゆっくり眠っていたのだが、目の前のリディルを見て重大なことを思い出した。
この子を預ける貴族を探さなくては。
昨日のような夢は一度でたくさんだ。
「ああ、おじさん今日はある人と出会ってお話をしにいくんだ。 怖い人のところだ。 だから、君はついてきちゃだめだ。」
「私、怖くないわ。 あと、リディルって呼んで。」
彼女は物怖じせずに言った。
親に捨てられた後だというのに、少しも悲しいところを感じさせない。
そんな彼女の姿に、彼はなんという気丈な子なのだろうと驚かされた。
それに、彼が愛着がわいてしまわないように、君と呼んだことに対して彼女は反応した。
リディルは本当はさみしいのではないのか?
あるいは、彼の考えに気づいたのだろうか?
いや、そんなはずはない。
突き放されると分かっていて、冷静でいられる子などいるはずがない。
「危ないからリディルはここでお留守番だ。 いいかい?」
彼は試しに彼女の名を呼んでみた。
「うん! 分かった!」
えへへ、と彼女は笑ってみせる。
さらには彼の体に抱きついて顔を服にうずめてきた。
「お…」
彼は言葉を失った。
「おじさんのにおいがする。」
それはまさに贓物をえぐられる感覚だった。
リディルは彼を行かせないように、わざとこんなことをしているのではないか?
そんな妄想に駆られ、息苦しさで体中の血液が逆流していくようだった。
「リディルはさみしがり屋さんだな。 でも待っていなさい。」
彼は彼女の髪に手を置いて出て行った。
しかし外へ出た後も、リディルの髪を触った手が妙に気になった。
あのつやのあるブロンドの髪を、もう一度だけ触ってみたい。
口に出すことはなかったが、彼はリディルを感じずにはいられなくなっていた。