第25章 知と血によって安らぎを得た
私の心は今無に帰そうとしている。
これまでに多くの血が流れ、それでも私が事無きを得たのは偶然にすぎない。
だがフランソワを殺してしまったということは偶然だという言葉では、黒い部分を覆いつくせるほどのものではない。
シャルロットは本当の父親が亡くなった事で、しばらく口をきいてはくれなかった。
しかしながら、子供心というものは移りやすいこともあり、すでに彼女はアンドリューと普通に、また以前と同じように会話を弾ませていた。
しかし表面的にはそうでも、人の心というものは分からない。
憎んでいたり、あるいは想いをよせていたりするが、ほとんどの場合はそういうことは伝わりにくくなっている。
そう、彼女もある想いをを抱えていた。
それをアンドリューに思い知らせてやろうと、そっけない反応をしたり、離れてみたりはしなかった。
彼に自分の気持ちを分かってほしくなかった。
これはよくありがちな、あなたに私の気持ちの何が分かるのか、というものでもなかった。
彼に分かってもらうことで、自分だけの父親像の横に別の存在が入り込むのを恐れた。
すなわち、分かる分からないは抜きにして、私とフランソワの空間に入ってくるなということである。
これもまた表面的ではない。
何も言わないから、これ以上はもう実の親子の関係についてかかわるな。
あなたに私とフランソワお父様の居場所を壊されたくない。
心の中にそっとしまっておいた居場所を。
でて行こうかとも考えた。
だがそれはやめた。
金の問題ではない。
憎しみの対象がそばにいれば、心が当然乱れるが、同時に亡き父の想いに熱い情熱を注いでいられるからだ。
それだけでフランソワがすぐそばにいたような気になるから…
ゆえに彼女はとどまる方を選んだ。
しかし、それも長くは続かなかった。
「触らないで!」
それは突然に起こった。
父と昔歩いたシャンドレーの並木道の風景を思い浮かべ、じっと窓の外を眺めていた時、アンドリューに手を握られた。
入ってこないでよ、この人殺し!
私のお父様を殺したくせに!
心の窓を開けていたスキをつかれたような気分になったシャルロットは、手を握らされたことを、恥とも罪とも思って激怒し、彼の手を払いのけた。
「シャルロット?」
「…」
ふいに彼女は押し黙る。
唐突にこんな行動をとってしまうなんてと、意志の弱さを感じたのだ。
父から受け継いだ精神を、誇り高い人格をこんな男にぐしゃぐしゃにされてしまったと…
「ごめんなさい、忘れて…」
アンドリューを残して、シャルロットは頬を涙で濡らしながらその部屋を出て行った。
口をきかなくなった彼女は、彼にとって苦痛そのものだった。
だが今は前よりましになってきたと思い込んでいた自分が苦痛で仕方がない。
「俺は、間違っていたのか? なぜあんな男に! なんでフランソワのような恐ろしい男にあの子は! あの子はなぜ尊さを覚えているんだ!」
「やめてっ! 言わないで! 入ってこないで!」
シャルロットの声がする。
ドアに隠れてアンドリューの様子を探っていたのだ。
「私の、私とお父様の世界を邪魔しないでよ人殺し!」
人殺し…
彼は全身の力が抜けていくような気がした。
そうして窓際の壁に寄り掛かろうとしたが、窓は開いていた。
「あっ!」
シャルロットが叫ぶがすでに遅く、彼はバランスを崩して頭から逆さまになって空中に投げ出された。
つい感情的になってしまった私のせいだ。
「ああ…」
アンドリューが落ちていく。
あわてて彼に手を差し伸べるシャルロット。
間に合わない!
風を切る音が耳に入ってきて、しばらくしても途切れることはない。
彼の眼は穏やかだった。
穏やかな心で彼女を温かく包みこむような、いつもと同じ目をしていた。
彼女に後悔しろという想いは込められていない。
しかし瞳の色は、励ましの言葉や優しさを訴えかけてくることはない無色。
彼にはもはや何も残されていなかった。
たった一つの生き方を否定された彼の命に、色はなくなった。
彼が転落した事は偶然ではなく、必然かもしれない。
単なる事故と言えば偶然、しかし、彼の意志や精神について語った時、それは覆る。
アンドリューは民衆の持っている精神の奴隷にはならなかった。
ああ、と瞳を大きく開いた彼女の目の淵からは、見えないののしり声。
自分とは別のもう一人が、言ってしまったんだと追い詰めていく。
叫び声が封殺されるほどのショックと自己嫌悪。
力が入らず、そのままへたり込んで床にひざをついた。
「ああああああーっ! お父様! お父様っ!」
下からリディルの声が聞こえる。
きっと彼に気付いたのだろう。
この人殺し!
リディルが言ったわけでもないのに、シャルロットの耳にそれが聞こえるのだ。
フランソワを彼が殺した時、彼女は憎しみでいっぱいだった。
ののしるのは人の勝手だが、それが自分についてまわるときには、人は卑しいながらも自分を守ろうとする。
「シャル! お父様が、お父様が!」
「知ってる。」
悲報を知らせにきたリディルに向かって、彼女は放心したように前を向いて、ただ淡々と答える。
「どうしてここにいるの?」
「知らない。」
リディルは彼女のいる位置、そして彼女の身辺に最近起こった事を重ねる。
「あなたがやったの? やっぱりお父様を赦してないの?」
「違うわ!」
「うそつかないで! 私、分かってるんだから!」
「事故なの! どうしようもなかったのよ!」
彼女は必死に事情を説明するが、最愛の存在を消されたリディルは一歩も引かなかった。
「大うそつき! お父様をシャルが殺した! どうしてなの? あなたは、シャルはお父様を憎んでたんだわ! 私もシャルが憎い! もう知らないんだから!」
「信じてよ! ねえリディル! 信じてよ…」
「…」
部屋の中でシャルロットはひざを抱えて床に座り泣いていた。
リディルが怒って部屋を出て行ってから何時間も経っていたが、彼女は全くそこから動かなかった。
人に憎まれる気持ちというのは、しかもこれほど黒い部分を傷として負っている者の気持ちは、めったに経験しないだけに、ほとんどの人には何一つ分からない。
ひとたび沼に落ちてしまえば、味方に押し沈められ、敵にはもちろん引きずりこまれ、二度と這い上がる事が出来ず、こうして彼女のなかで闇の心が出来上がっていく。
人を憎む心と、絶対に消えることのない圧倒的な憎悪に体中の血液が支配されていく。
あるいはその対象が穏やかな心を持つ者なら死神に魂を刈られ、何もできないカラの人形となる。
今のシャルロットはまさにそれだった。
「シャル、いるの?」
先ほどとは比べ物にならないほど冷静になったリディルが戻ってきてドアを開ける。
「さっきはごめんね。 言いすぎてしまったみたい。」
「…」
シャルロットからの返事はない。
ただ一点に濃い影ぼうしができるほどに、まばたきもせず視線を集中させている。
「シャル?」
リディルが体をゆするが、何も言わず、彼女の瞳の色はあせたまま生気を取り戻すこともない。
そして…
「もう疲れたわ。 ねてくるね。」
静かにそう言って、まだ昼下がりだというのに、立ち上がり寝室へと向かっていく。
「お父様…」
リディルのほうも、彼女を元気づけようといつものようにふるまっていたが、やがてシャルロットがいなくなると、今までためていた悲しみを一気に噴き出すようにわんわんと号泣した。
「いやだよお父様。 戻ってきてよ。 こんなの嫌よ!」
やがて日が暮れ、オスカーが戻ってくる。
「おい! アンドリューしっかりしろ! いやだああああ!」
「はあ…」
数日たっても、ベッドから彼女が食事の時以外降りてくる事はない。
毎日ため息ばかりついていて、リディルと話もしない。
食事の回数も、ここ最近では三回から二回に減った。
頬はこけ、たとえ笑顔をたまに見せる事はあっても、浮き出てきた眼のふちのつがいや乱れた髪のせいで、果てた兵士のような不気味な顔つきがあるだけで、かえって話し相手が目をそらしたくなるような様である。
食事の量はさらに少なくなって、シャルロットはそのときからよく咳をしたり食事中に吐くことが多くなった。
体の栄養不足による免疫の低下と、極度なストレスのための食欲不振により起こる拒食症状と医者に言われた。
一日中寝ているために筋肉は落ち、手足はおろか、あばらの一本一本にいたる細かい骨の筋までもが鮮明になってゆく。
そして翌日、オスカーは彼女を起こしに来た時、愕然とした。
ベッドに黄色く湿った大きな染みがひろがっている。
ベッドの上に放尿しているという意識さえなく、人に見られても声一つ上げないシャルロット。
こんなことは、この年の子供ならよくある事だが、今は異常の一言につきる。
仕方がないからとオスカーは、彼女のシーツを取り換えようと近寄っていく。
すると彼女はゆっくりとオスカーのほうを向いて、彼の視線の先を見る。
「あ。 あ。 や、やだ。 いや! やだやだやだやだ、やだよ!」
突然、オスカーに抱きついてくるシャルロットはところかまわず叫び、こぶしを彼の胸にドンドンと当ててくる。
ここにきて急に無意識の恐ろしさを知り、自分の体がもう取り返しのつかないところまできてしまったのだと感じ、痛々しいほど死に敏感になった。
そんな彼女をリディルもひそかに見ていた。
そして自分の罪悪感が膨らみ、今にもはぜそうになったときは、なんとかしてごまかそうと努力した日々が続いたものの、この事件でそれは完全に意味をなさなくなった。
彼女たちに父親はいない。
たったそれだけのことと言うべきではないが、人が一人いなくなってから、全てがかみ合わなくなっていた。
「もう嫌だよオスカーさん! 私、耐えられないよ…」
リディルは彼女の部屋に入ってきて彼に言う。
しばらく二人にしてやったほうがいいだろう。
彼は二人にじっくりと話をする機会を与えれば、何かがかわるのではないかと、そう思い一人で外に出た。
「リディル。 フフ。 太ったのね? あまり食べすぎは良くないわ。」
二人になってから、シャルロットは泣きながらも無理やり笑みをつくってそんなことを言う。
「太ってなんかない。 シャルがやせてるのよ? ねえお願い。 昔のシャルに戻ってよ! 私もうこんなの見ていられないわ! お願いよ…」
尿のにおいのするベッドにもお構いなしに、リディルは彼女の背中に額を当てて、極度に細くなった手首を両手で持った。
「こんなになるまで。 私たちずっとお友達でいたい。 お友達でいたいよシャル。 お父様はもういないのよ?」
心の友はシャルロットであり、シャルロットは心の友である。
全てを失ったリディルにとっては、彼女の存在はそれほどまでに大きくなっていた。
それを最後に、二人は別のベッドに移って、服を全部脱いで裸になり、身を寄せ合うようにして毛布をかぶった。
それからどれくらいの時がたったのか分からない。
目を覚ました時にはシャルロットは起きていて、あたりは真っ暗だった。
彼女は一睡もできていない。
「シャル、寝なくちゃだめよ! 死んじゃうわ!」
彼女はシャルロットが、もう二日間起きていたのを知っていた。
「もう無理なのリディル。 私、神様に地獄に落とされるのよ? おかしいでしょ?」
気が気ではないリディルに、彼女はこの期に及んで笑っている。
そんな彼女をリディルはベッドに押し倒して自分の胸に密着させる。
「ダメ!」
今にも泣き崩れそうな彼女にシャルロットは弱々しく腰に両手を回してくる。
「こういうことしてるのって、私たちだけかも。 こうしていると、二人が一緒になっているみたい。 でも、もうすぐ終わっちゃう。 さっきから胸のあたりがおかしいの。 何かがつっかかって、息ができないっ。」
リディルは彼女の胸に耳を当て、その鼓動を聞く。
「はあ、はあっ。 リ、リディル。 く、苦しいっ!」
「シャル! どうしたの、しっかりして! シャルまで死んじゃうの? そうしたら私はどうしたらいいの? お願い! 一人にしないでよ!」
「一人は、嫌?」
「嫌に決まってるでしょう!」
「はっ、は、はあ、はあっ! な、なら、一緒に来る?」
そのとき彼女はシャルロットは自分を誰よりも愛していたのだと気付いた。
自分はそんな気持ちにも気づいてあげられなかった。
「来る…」
「え? な、なあに?」
「行くわ! 私、シャルロットと一緒に逝きたい!」
彼女は急いで壁にかかっていたレイピアをとってくると、自分の腹にとがった部分を向ける。
「はあっ。 ほっ、本気?」
「ええ。」
迷いはなかった。
もうこれ以上私を苦しめないでほしい。
そして永遠の友達でいてほしい。
「うっ、ぐっ! ううっ、あ! あ、あぐっ! い、いたい! 痛いよシャル!」
涙声になって彼女は体をびくびくとこわばらせて、苦々しい顔をし、激痛のあまり閉じない口を歯茎だけでも合わせて目をつぶり、ぎりぎりと歯肉にめり込むほどに力を入れる。
「リ、ディ、ル。か、かたく、な、りす、ぎよ。 もっと、力、抜いて。 はあ、は。 そうすれば、楽…」
「もう、だめ…」
大量の血の海は二人を包み、彼女たちの魂は神のもとへと召された。
「ずっと昔、もう何年も前のことよ。 まだ優しかったフランソワお父様と私はこの道を歩いていたのよ。 そして私は歌を歌うの。」
シャルロットはそう言って、陽気に歌を口ずさむ。
―小鳥さん、こんにちは。小さな小さな小鳥さん。でもお母さんはどうしたの?大丈夫。これからは私があなたのお母さん。お母様と呼びなさい―
「シャル。 待ってよ。」
後ろからリディルが手を振って追いかけてくる。
一面の白いカモミールの花畑の中を、穏やかな風を切り、走ってくる。
「私もこの道、いいえ、この花畑。 見たことある。 あの人の夢の中で。」
「本当? 私は知らないけれど、今からでもいいよね?」
「ええ。 約束よ?」
リディルは彼女の小指を自分のものと交差させて言う。
「何があっても、私たち一緒よ。」
シャルロットはにっこりと笑ってリディルの訴えに応えた。
「動かないで。 じっとしてるんだよ二人とも。」
突然、後ろから声がした。
それも数人。
振り返ると、アンドリューとフランソワ、その横にはナタリー夫人と若い男の貴族。
フランソワの後ろには新米警官が立っていた。
「いいよ。 そのポーズでいこう。 二人ともかわいいよ。」
彼らの向かいには、スケッチをする老人。
画用紙には描きかけの彼女たち。
筆を動かし、彼女たち二人の瞳を色づけしていく。
「うちの子はかわいいと思うか?」
フランソワはアンドリューに問い、彼は十分愛くるしいと言う。
いつものような陰険さは、そこにはひとかけらも見られない。
なぜだろう?
「それは、ここには善悪なんてないからだと思います。 だから私たちはこうして対立せずにいられるのです。 私たちは、対立するために生まれてきたわけではないのですから…」
クロードがつぶやいた。
「おじさん、描けた?」
シャルロットが無邪気にはしゃごうとした時、ナタリー夫人の大きな手が髪に触れる。
「あんたにあげるよ。 大切に使うんだよ? ほんと、私の若いころにそっくりだ。」
そう言い彼女はシャルロットに時計を持たせた。
懐中時計は見事に直っている。
「ありがとうおば、お姉さん!」
ナタリーの顔は驚くほど若かった。
それでつい彼女の口からはお姉さんという言葉がでた。
「さあ、出来たぞ。」
老人とともに彼らは笑っている。
それはよく晴れ渡った日の、午後の事であった。
「それからオスカーたちはお屋敷を去ったの。 そのあと彼らがどこに行ったかは誰にもわからないわ。 ただね、お屋敷を晴れた午後の日に訪れると、少女たちの笑い声が聞こえるの。 みんながそううわさするのよ?」
一人の少女が眼鏡をかけた老人に、物語の結末を告げた。
「人はね、そうやって大切な存在が永遠に取り戻せなくなったとき、初めて争いのあやまちに気づくの。 どうして死ぬ前に気づかないの? 彼らは夢の中でしか幸せになれないの?」
しかし老人に言いかけた彼女は、はっとして急いで付け加えた。
「いいえ。 確かにそうだと思うけど、私は気づいたわ。 気づいたのよ? そう、死んじゃう前に気づいたの、おじい様っ!」
「そうか。 よしよし。 リディルは偉い子だな。 将来は作家さんになれるさ。」
降りしきる雨が窓ガラスをパラパラとたたく部屋の中で、話し疲れたリディルは彼の腕の中で幸せそうに眠った。
それは一八八〇年のパリの一角でのこと。
共和政という名の人の輪が一つになっていた日のことである。
こんにちは、作者です。本作品はこのたび無事に最終話を迎える事ができました。今までアクセスしてくださった読者の皆様、本当にありがとうございます!
さて、最終話はいかがでしたか?暗い作品であることは十分自覚していたため、最後くらいはある意味明るくし、ハッピーエンドという形に仕上げてみました。これは、人なら誰しもハッピーエンドを望むであろうという私の憶測がら導き出した結論です。もし、バッドエンドを希望されていた方がいらっしゃった場合は、深くお詫びもうしあげます。すみませんでした。
最後に、すでにご存じの方もおられるとは思いますが、ファンタジー小説を、ソリデュスの権章Ⅰ~ゼノンティアヌスの蒼玉~というタイトルで10月31日より掲載させていただきました。しかしながら、前作の中途で次作品が出されると、そちらのほうが気になってしまい、前作の雰囲気をそがれるという方もおられると思います。ゆえに、あえて大々的には次作の存在を告知しませんでした。もし興味をもたれた方はぜひお気軽にどうぞ。