第22章 誰もこんなこと聞いちゃくれないんだ。けどね…
シャルロットはある夜、夢を見た。
とても恐ろしくて、つらく悲しい夢だ。
自分という存在はそこにはなく、いるのは若い女性と男性。
「あははっ。 ちょっとやめてオーギュスト。」
オーギュストという若い男性に走りながら手を引っ張られて笑う女性はすらっとして、どこか気品があって金持ちの格好をしている。
「走ると危ないわ。 またお父様に叱られてしまう。 それに今度見つかったら、結婚する前におしまいよ?」
男は和やかににやついて言う。
「おしまい? 君の子供時代が? よかった! これで僕らは大人になれる。 聞いてくれ! 大人になれるぞ!」
実に軽薄な笑い声をたて、彼は小さな噴水の水に、靴のまま入りバシャバシャと裾を持ちながら足音を立てて叫ぶ。
「私も入っていい?」
しかしオーギュストは彼女の許可を得る前に、その腕を引き寄せた。
そのせいで足場のぐらついた彼女はバランスを保てずに、浅い水たまりに尻もちをついてしまった。
「あっははは! あーあ。 びしょぬれ? びしょぬれよ? あなたのせい。」
そう言いながらも口もとを緩ませて笑顔でいる彼女は、彼の返事を待った。
「僕のせい。 そうさ! 俺様は君をくらう悪魔だ! 食べてやるぞ!」
しかし食べてやる、の意味を勘違いしたのか、彼女は頬を赤くする。
「どうしたのかな? 黙っていると食べてしまうぞ? ん?」
「食べる? どうぞご自由に! 私はあなたのものよ! オーギュスト!」
彼が彼女の考えていることに気づくと、女性は冗談まじりに腰をくねらせて色気をアピールする。
「ナタリー!」
突然、男性の体が彼女の後ろから折り重なる。
「な、なあに?」
先ほどの態度と打って変わって、彼女は半分怯える声で答える。
「僕は君といられて幸せだ。 ずっとこうしていたい。」
「あなたといると、退屈しないわ。 毎日が楽しい。 オーギュスト…」
「オーギュスト! いやあああっ!」
目の前にはパリの宮殿の前で湧き上がる人々の、いや庶民たちの叫び。
「貴族をぶっ殺せ! やるんだ!」
彼女の瞳には、庶民に衣服をはぎ取られ、倒され、体のあちこちを蹴られるオーギュストの姿がうつる。
「やめてっ! 殺さないで!」
しかし庶民の中で、人一倍大きな男がやってきて、持っていたレンガで彼の頭を何度も殴る。
「この野郎ふざけやがって! 死ね! 死んじまえ金持ち野郎!」
男の大声につられて、市民たちはワーワーと半ば笑いにも似た歓声をあげる。
「いや。 いやよオーギュスト! 私たち、結婚するのよ。 結婚するはずだったのにっ!」
悔しさで歯ぎしりしながら、彼女は地べたに座り込む。
すぐそばには彼のはぎ取られて汚れた衣服。
「ああ…」
彼女は嗚咽して片手で震える唇を押さえながら、彼の服を手に取る。
そしてしっかりと両手で擦り切れかかった布地を抱いた。
彼のほうは頭から血を流し、すっかり動かなくなっている。
「おい見ろ! 金持ち野郎の女だ。 捕まえろ!」
人々が突然、オーギュストのそばにいた彼女に気がついて追いかけてくる。
逃げなくては。
その時彼女は服の中で何か固い物に触れる感触に気付いた。
中には金の懐中時計。
「私たちの思い出…」
そう言って彼女は急いでポケットにそれをしまうと、走って物影に隠れた。
「ちくしょう女! どこ行きやがった!」
「あんなババアほっときなよ。 それより、あいつも金持ちじゃないのかい?」
市民たちはどうやら別のターゲットを発見したようで、その場から立ち去った。
よかった、助かった。
安心した彼女に湧き上がってきたのは、怒り、深い恨みや復讐心。
「庶民なんて、庶民なんて!」
「いやあああっ! 痛い! 髪が抜けちゃうよ!」
貴族も嫌いだ。
このシャルロットって子は、私よりもずっと若くて、痛風のせいで太ったあたしよりもずっとスマートで、おまけに…
「おまけにそのつやのある金髪。 私の若いころにそっくりだ! 私の幸せをみんなみんな奪ってった! シャルロット。 あんたを見てるとね…」
昔を思い出すんだよ。
それは良い意味でも悪い意味でもある昔のこと。
二度とあんな思いなんてしたくないとナタリーは思っていた。
彼と出会ったばっかりに。
「聞いておくれよ! この重苦しく野太い声を! このずんぐりした豚みたいな、肩と首がつながった肉を! そしてこの性格! 全部変わってしまった! 何もかも。」
そして時計も壊れていく。
たとえ壊さなくとも、いつかは動かなくなる。
昔に戻りたいがそれもできない。
できると言われたらどんなことでもやるが、そんなチャンスは一回もない。
全部変わってしまった。
あの事件があった日から。
あれから三十年あまりの時が経ち、彼女の心はすさみにすさんでいた。
「あのころはよかった。」
彼女はふとそんなことをつぶやく。
「あたしはね、あんたみたいな子は大嫌いなんだよ! でもね…」
突如として彼女は穏やかな口調になる。
「あんなことがなけりゃ、あんな時代に生まれてこなけりゃ、あんたをずっと愛していたかったんじゃないかって、そう考えてたような気がするんだよ。」
シャルロットは夫人に夢の中で抱きしめられた。
「私の生まれ変わりとはいかないかい?」
「ええ、でも。 でも私たちってなんだか似てる。 似たもの同士ね。」
眠っていたシャルロットの頬に一粒の涙が流れた。
「うえっ!」
ナタリーがそう言って彼女を抱いたまま頭をもたげる。
「彼女の本当の名は、アントワーヌ・ド・ブロワージュ・シャロレ。 ナタリーは僕の呼んでいた愛称さ。 幼いころから彼女とは一緒だった。 昔は君みたいにかわいい笑顔ではしゃいでいたのをよく覚えている。 君のお父さんは、一体どんな名前だったの?」
「だんな様! だんな様!」
子の寝顔をそっと見守るアンドリューのところに、ヴィクトルがあわただしく近づいてきた。
「静かに。 二人が起きてしまう。 で、どこだか分かったか?」
「はい。 奴は社交界によく現れるそうです。」
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