第19章 権利を求める人々
とある夜、とある闇空の下、冷たい空気にさらされて、樹の葉たちは熱が逃げないように密集し、ざわざわと退屈な音色を奏でている。
それでも風によって地に落ち、葉の隙間を埋めることはできずに一つ、また一つと枝から離れていく。
死の順番を暗示しているかのようだ。
「シャル、しっかりして! もうすぐよ。 もうすぐ順番が回ってくるわ!」
アンドリューに抱かれたシャルロットをリディルは精一杯励まし続けていた。
物寂しい夜だというのに、シャンドレーの病院は、どこも患者でいっぱいだった。
医者たちは忙しく駆け回り、ひどい時には軽傷の病人が医者の補助をしていた。
「おい、まだか? もう二時間も待っているんだぞ? 薬はまだか?」
「もう少し待ってください。 お願いします。 もう少しだけ。」
苦情を言う男に、看護婦が謝っている。
「この子、さっきから息をしていないんです! お願いします。 お医者様。 この子を、うちのピエールをどうか助けてください!」
みずぼらしい格好の女性が、一歳にも満たないような赤ん坊を抱えて、たまたま前を通った医者に懇願している姿もある。
「もし? お医者様?」
母親は医者が開いたままの口を動かさずにいることに不安を覚えた。
医者は案の定、一度だけ母親のほうを向くと、真顔になってすぐに向きを変え、足早に立ち去ろうとする。
「お待ちを! お医者様! うちの子は助かるんですよね? 何かおっしゃってくださいな! きゃあ!」
母親は沈黙を続ける医者を追いかけることに夢中になっていたため、近くにいた患者にぶつかり転倒した。
「ギャツ!」
母親が転倒したのと同時に、獣じみた得体のしれない泣き声がした。
その声のした場所だけが、丸い空間となってがらんとしている。
人々の流れを断ち切る何かがあるようだ。
「ピエール!」
腕に抱いた息子がいないことに気づいた母親はまさかと思い、急いでその場に駆け寄った。
赤ん坊は投げ出されて石階段の角に頭をぶつけて死んでいる。
「ああ、あ、あっ、ああああああ! 私のピエール! あんまりよ。 あんまりだわ!」
そんな母親にさえ人々は何食わぬ顔で通り過ぎ、我先にと薬と医者の診察を手を伸ばして追い求める。
「いやあーっ! あああーっ!」
母親はまだ叫んでいる。
近くを通りかかった中年の男が耳をふさいでいるにもかかわらず、ぎゃあぎゃあと声を張り上げている。
「おい、あんた! 静かにしろ! うるさいぞ!」
男はついに母親に文句を垂れるが、隣にいた若い女性に逆に怒られた。
「何よ! 人が死んでいるのよ? それもあんたみたいに飲んだくれているような奴じゃなくて、赤ん坊よ? あんたこそ黙りなさいよ! この人でなし! ろくでなし!」
若い女は親子のそばに寄ってきて、母親の手を取って落ちつかせるが、その手はすぐにはねつけられた。
「触らないで!」
「あんたね、人がせっかく親切にしてやってんのに!」
母親は自分をにらみつける女に向かってさらに激怒する。
「親切がなんですって! そんな押しつけがましいもの、あたしにはいりません! うぬぼれないで! 私にはこの子しかいなのよ。 この子しか…」
「薬をよこせ! この死神め!」
先ほどの医者が戻ってきたことに気づいた男が叫びだしたのを皮切りに、すごい勢いで民衆が押し寄せる。
「薬をよこせバカ野郎! 俺たちを殺す気か!」
大衆の波はとどまることを知らない。
医者は今にも押しつぶされるといった具合に、両手をあげておたおたとしている。
しかし、騒ぎを聞きつけた警官隊がやってきて、空に向けて銃を発砲し、病院の入口に立ちはだかった。
「静まれ! おい、貴様ら、静まらんか!」
フランソワだ。
大声を張り上げ、馬に乗りながら大衆を一喝している。
「まずい。 ここは逃げないとやばいぞアンドリュー。」
「心配ない。 奴には顔を見られていない。 それよりこのままじゃシャルロットは助からない。 オスカー、別の医者を探してくれ。 俺はここでもう少しねばってみる。」
「分かった。 できるだけすぐ戻る。」
オスカーは不安そうな顔をしたリディルの頭に一度手を置いて、全速力で馬を駆っていった。
医者などどこにでもいそうなものだが、シャンドレーは地方の街で、パリにくらべたら、まだまだ未熟な医者たちや薬不足で悩まされ、市民たちはそのせいでこぞって大病院へと押しかけるのだ。
「静かにしろ!」
いつまでたっても騒がしい患者たちに、フランソワはしびれを切らして近くにあった樹に発砲した。
さすがに驚き、押し黙る民衆たち。
「いいか、騒ぐな。 順序を守れ。 撃たれたくなかったらおとなしく待ってろ!」
しかしひとたび押し黙って同じ行動をしようとすると、愚かにも抜けがけをする者がでてくる。
一人の若い男が民衆の海をかき分けて、病院の中へと入っていこうとする。
それに気付いた民衆がドミノ倒しのように次々に、私も俺もとまた騒ぎだした。
「頼む。 入れてくれ! このままじゃわしら死んじまう!」
「黙れ! じっとしてろ! おい、お前、戻れ! 戻らんと撃つぞ!」
フランソワが老人の相手をしているすきに、他の人々がなだれ込む。
「長官! ダメです、抑えきれません!」
それはまるで戦場も同じであった。
「お父さん。 みんなが、みんながおかしくなったわ! 怖い…」
アンドリューにしがみつくリディルは轟音を沸かせ、波のようにうねる市民たちと、鳴りやんでは響く銃の音にびくびくと震えだす。
「仕方ない。 おい撃て! 暴徒を鎮圧しろ! いいか、暴徒を鎮圧しろ!」
「しかし長官…」
「しかし何だ? それが我々の使命だ! やれ! やるんだ!」
「うっ、う…」
「早くしろ! でないと貴様を撃つ!」
それでも部下たちは引き金を引くのをためらっていたが、恐怖に耐えかねていた部下の一人が近くにいた老婆に弾を放った。
「うわあああ!」
ついに目をつぶりながらも彼らは市民に向かって発砲する。
そんな!
彼らは助かりたくてここまで来たんだぞ?
なぜ殺すんだ!
なぜだ!
アンドリューはすさまじい怒りを覚えた。
そしてリディルに目隠しをする。
「よし撃て! 容赦するな!」
フランソワの声が聞こえ、叫び声をあげ、逃げまどい、転び、散っていく人々。
そんな混乱のなか、オスカーが戻ってきた。
「おい、アンドリュー! 見つけた!」
「本当か? 待ってろ。 今助けてやるからな。」
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