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第1章 1820年のフランスのとある小路にて

 一八十五年、ナポレオンが英領セントヘレナ島に流され、崩御。


 フランスはこの頃、ルイ十八世の復古王政によって統治されていた。


 それから六年後の一八二〇年の秋、シャンドレーは表面上では平和だったが、フランス革命時に亡命した貴族たちは庶民に復讐の炎を燃やし、町は焦げてしまいそうになっていた。


 そしてこの町では、ある男が、のちにシャンドレーの騎士団の長として権勢をふるうことになる。






 ある庶民の男が、夜のさみしいシャンドレーの小道を歩いていた。


 片手に安い酒瓶を手にとってぶらぶらとさせては、時折立ち止まって、その場でビンを傾けて自分のひげの生えた口にあてると、いかにもうまそうにのどを潤した。


 男は中年だった。


 中年で無精ひげの男だ。


 服は薄汚い汚れがたまっていたせいで、黒ずみって変色していた。


 髪は短くて黒く、鼻ばかりがわずかに高かった。


 「おっと、だいぶ遅くなったな。 早く戻らないと。」


 彼は空を見上げたとき、急用を思い出したのだろうか、突然そんなことをつぶやいて、早足で歩きだした。


 しかし、歩みの振動で水音を立て始めたワインをみて、どうしても飲みたくなった。


 まるで血のにおいをかぎつけたサメのようだった。


 「近道で行くか。」


 なるほど、それなら飲みながら帰っても遅くならずにすむ。


 我ながら名案だと男はせせら笑って、満足げに細い路地へと入っていった。





 

 男が入った路地は闇に満ちていた。


 街灯などはなく道幅が狭いため、せりたった石の壁が影になっていて、わずかに差し込む月の青白い光が唯一の灯りだった。


 夜にこんな道を通るのは気が引けるだろうが、貧しい自分を襲いに来る者などいるはずがない。


 それ以前に、酔っ払いに近づく者などいないと彼は勝手に考えていたから、恐怖などは心にひとかけらも存在していなかった。


 道は進むにつれて湿ってくる。


 石の地面の間からはコケが生えていて、不気味な雰囲気を醸し出していたが、そのコケも栄養不足で茶色く変色して、一層不気味さを増していた。


 「まいったな。 もうなくなったのか。」


 男は空になったビンを大げさに振ると、逆さにして舌をだし、最後の一滴を味わおうとした。


 だが、水滴はなかなか出てこない。


 こんなことなら近道をすべきではなかったと男は後悔し、舌打ちするとビンを石の壁に沿って置いた。


 「助けて。」


 ふと近くで声がした。


 それも少女の声だ。


 最初、彼は酔っていたからきっと空耳だと思ったが、耳よりも自分の目でその人物を確認したことで、これは現実で、自分は酔ってなどいないと信じた。


 「助けて。」


 声の主は壁に寄りかかり地べたに膝を曲げて座っていた。


 道の隅は壁の影で暗くなっていたから、人の存在に気づくのは難しい。


 助けてという声さえ聞こえなかったら、彼はその場を通り越していただろう。


 彼は声のするほうへ歩いていった。


 そこには小さな少女が、ボロボロになって破けた服を着て座っていた。


 肩まであるブロンドの乱れた髪に、丸い顎の輪郭、細い手足。


 見た目は六、七歳ぐらいだろうと思われた。


 どうして子供がこんな場所で座っているのか?


 話しかけたらどうせ厄介事になるに決まっている。


 彼は厄介事には今まで手を出さずに生きてきた。


 そうしなくては生きることができない世の中だと思っていたからだ。


 だが、彼にも危険を冒してまで手にいれたくなるものが一つだけあった。


 それが、今目の前にいるのである。


 「今まで生きてきた中で、こりゃ最大の難所だな。」


 彼はこれまで金具職人として独り身で生きてきて、職に生涯をささげてきた。


 しかし一人でいると、どうしても他人の子供の幸せそうな顔が焼き付いて離れない。


 そのたびに彼は求婚しようと思うのだが、いったい誰が貧乏で強面の汚い男についてくるだろうか?


 そのため彼はあと一歩が踏み出せずに、結局はずるずると年を重ねていくことになった。


 「君はどこの子だい? こんな時間に一人でいると危ない。 おじさんが親のところまで連れて行ってあげよう。」


 自然とそんな言葉が口から出てきた。


 子を持ちたいと思うあまり、頭が勝手に口を開かせたようだ。


 どのみち、誰も歩いていないような夜道に子供が一人ぽつんと座っていれば、誰でも家へ、安全な場所へとかくまってやりたくなるものだ。


 「もういないわ。 私を置いてどこかへ行ってしまったのよ。」


 「いないって、もしかして…」


 「違うわ。 天国じゃなくて、どこかへ行ったのよ。」


 男は内心ほっとした。


 もしこの子の両親が亡くなっていたら、彼は子の面倒を見なくてはならない。


 彼の仕事は自給自足となんら変わりないものであったため、子供まで面倒をみる余裕はなかった。


 「なんだ。 君は迷子か。 おじさんと一緒に親のところまで行こう。 さあ、早く。 ここにいちゃいけない。」


 しかし、彼は彼女に手を差し伸べたとき、ふと思った。


 親がどこにいるかわからないのに、どうやって探せばいいのか?


 それに、親がどこにいるか分からないということは、この子が捨てられたことを意味するのではないか?


 こんな夜更けに子供が一人で泣いているところを見ると、少女が親を探し、一日中歩きまわったあげく、途方に暮れてここにたどりついたことは十分考えられることだ。


 彼は当惑した。


 一人の人間として、彼女を見捨てるなどということはできはしない。


 だからといって、親が子を探していることすらはっきりしない。


 子を連れていったら最期、貧乏な彼は闇の商売に走るしかない。


 「おじさん、どうしたの?」


 座ったまま彼女は、ため息をついている男のほうを見つめる。


 「いや、なんでもない。 おじさん、今大事な考え事をしているんだ。 だから少し待っててくれないかい?」


 「ええ、いいわ。 そうしたらおじさんの家まで連れていってくれるのね? 私のお父さんとお母さんはもういないもの。」


 彼女の言葉に彼はさらに悩み苦しんだ。


 すでに彼女の心の中には両親の姿が映っていなかったからだ。


 「お父さんとお母さんに会いたくないかい?」


 彼女はすぐに横に首をふる。


 「どうして?」


 「言われたの。 私の面倒なんてみていられなくなったって。 うちにはもうお金がないから、誰かのお家にいれてもらいなさいって。 それでね、お父さんが絶対に探しちゃだめだぞって言ったの。 なのに私が探して言いつけを守らなかったから、もう怒って会いにきてくれなくなっちゃったの。 だがら、お願い…」


 彼女は切ない気持ちを必死にこらえていたが、次第に顔を歪ませた。


 涙は枯れて出てこなかった。


 彼の心は揺さぶられた。


 たとえ彼女のみずぼらしさや、親に捨てられた哀れな部分から目をそらしても、心の揺れは止まらない。


 彼には道が残されていなかった。


 いや、まだ一つあった。


 彼はとっさに、この子の両親がいないなら、どこかの人柄のよい貴族に預けてしまおうと考えた。


 自分の中の子供好きな頭がおかされて、この子を手放せなくなる前に引き取ってもらおう。


 そうだ、そうしよう。


 まるで逃げるように、彼は素早く頭の中で物事を整理した。


 彼女には、貴族に預けるという事実はその時が来たら話そうと思った。


 それなら、たとえ少女が拒んでもいまさら決まったことを変えられはしないのだ。


 大丈夫、優しい男を選べば納得してくれるだろう。


 彼は待ちくたびれて、壊れてつま先が敗れた靴で地面をほじくり返している彼女に言った。


 「ごめんよ。 さあ、こっちにおいで。 今からおじさんの家に行こう。」


 彼は彼女の手を引いた。


 「あっ!」


 少女は突然手を握られて不安の声をもらした。


 「どうした?」


 「ううん。 なんでもない。」


 いったい彼女の頭の中で何が起きたのか?


 ここにいる男が悪者だったら怖いとか、私はこれからどうなってしまうのかといった、先の見えない道に踏み入ることへの恐れなのか?


 彼女はその不安を完全には断つことはなかったが、彼を握りしめる手には何かにすがりつくような、または守ってくれるものを求めるような力強さがあった。


 「あなたのお名前は?」


 彼女が男に訊ねた。


 「俺はアンドリューだ。」


 「そう、私はね、リディルっていうの。」


 彼は耳をふさいでおくべきだったとその時思った。


 たとえ名前でも、知ってしまえば愛着がわいてしまう場合がある。


 子供好きの彼にはなおさらだった。


 しかし、そんなことをすれば彼女をがっかりさせ、子供好きの自分が子供に嫌われるという悪夢にさいなまれることになる。


 それに、耳をふさぐはずの手は、彼女のやわらかくて小さな手にしっかりと握られていたから、彼は、これはもう何かの運命だと思ってあきらめるしかなかったのである。


 「よろしく、リディル。」


 たった数日のことなのだ。


 彼はたった数日で、貴族を探して彼女を手放すのだ。


 それが分かっていただけに、彼女によろしくと言ったのだ。


 彼女を数日だけでも自分の子として面倒をみたいという本能は隠し切れていなかったから、よろしくと言ったのだ。


 少なくともこのときは。


 「よろしく、アンドリューおじさん!」


 彼女は彼のほうを向いて、にっこりとほほ笑んだ。






  


 


 


 


 


 

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