第18章 かすかに幼い息づかいが聞こえる
ドアをノックする音に、ナタリーは下の玄関まで降りていって外に出る。
「なんだいあんたたち。 一体どこのよそ者だい?」
外には四頭の馬に乗った男たち。
子供の姿はない。
ナタリーは何かあるぞと心の中でそう解釈して、彼らを怪訝の表情で見つめる。
「ここにリディルって子は来なかったかい?」
「リディルだって?」
どういうことだろうか。
彼女の両親はもう死んだときかされていた夫人は、見るからに怪しい男たちを盗賊だと思った。
「そんな子知らないね。」
「そうか…」
男の一人の反応に、またも彼女は混乱した。
強盗にしては意外な反応だった。
では一体誰だろう?
「おいおい、確かか? ほかはもうしらみつぶしにして、あとはここだけだ。 お前、本当のことを言ってないな?」
「だから、知らないって言ってるだろう!」
よく分からないが、この者たちはあの子が目当てだということは理解できた。
とにかく、あんなに都合のいい存在を手放すわけにもいかないナタリーは、あくまで強気にでて、髪の長い男に言い放った。
「なあ、本当のことを言ってくれよ。 ここがダメなら俺たちはあの子が売られたと思うしかないんだ。 それも遠くに。 あんただって嫌だろう? 知らない土地に知らない人々。 そんな毎日が続くんだぞ?」
「もうやめるんだ。 もういい。 行こう。」
ひげの生えた中年の男が止めに入って、ひどく落ち込んだ顔でそんなことを言う。
アンドリューはここ数日、寝る間も惜しんで彼女を探してきた。
しかしどこへ行っても人々は、いない、知らないの一点張り。
遠いところへ、パリにでも行ったのか?
いずれにしろ、彼女は人さらいに遭って売られてしまった可能性が高かった。
「俺のリディル…」
彼は名残惜しそうにナタリーの孤児院の窓を見つめる。
中では少女たちが、何やら抱き合って泣いている。
俺の娘は、あんな感じでいつも何かに怯えていた。
あんな感じで、ときには笑っていた。
「リディル?」
あんな感じではなく、まぎれもなく彼女だ。
「リディル! おいリディル聞こえるか?」
彼の叫び声に、仲間たちも振り返り、喜びの声をあげる。
「よかった、やっぱりいたんだ! おーいリディルーっ!」
四人は力一杯手を振った。
「リディル…」
「えっ?」
彼女はその声に驚いた。
窓を見るとアンドリューが手を振って叫んでいる。
「お父さん? お父さん! やっぱり来てくれた! お父さん!」
しかし次の瞬間、ナタリーが手を振るリディルの腕をつかんだ。
はり倒されるリディルに、アンドリューはショックを受けた。
ああ、なんてことを!
「あの女、うそだろ…」
そばで見ていたエミールも顔をゆがめる。
「このままでいいのか? アンドリュー。 リディルを取り返すんだ。」
オスカーが言った。
「言われなくたってそうするさ。」
四人は孤児院の前まで来て、ドアを開けようとするがびくともしない。
ナタリーのことだ。
きっと鍵をかけたに違いない。
「あれは誰だい! あんたの手先かい?」
リディルに向かって、夫人は焦った表情でつかみかかった。
「私のお父さんよ。 知らなかったの?」
「あの警察の男! あたしに嘘ついたんだ! ああ、なんてことになっちまったのさ! 親がいたなんて!」
「大丈夫?」
「気安く触るんじゃないよ! 庶民のくせに!」
ナタリーは彼女の手を払いのけると、私の人生は終わったも同然だと泣き叫んだ。
「リディル!」
「お父さん!」
気がつくと、ドアを蹴破って家に上がりこんだアンドリューが立っていた。
「ああ、リディル。 無事でよかった。 また会えるなんて!」
彼はリディルを抱きかかえて、まるで生まれたての赤ん坊のようにあやした。
しかしその直後、ナタリーが泣きながら大声でアンドリューに言った。
「その子は渡さないよ!」
わたすものか。
この子を渡したら、大事なメイドがいなくなってしまう。
この子を渡したら、私が孤児院で虐待していたことが、この親子によって世間の明るみに出てしまう。
「うわああああっ!」
夫人はついには、怒鳴り声と金切り声が混じった鳥のような声を出して二人を押し倒そうとする。
「わたすものかあ!」
「この魔女め!」
間一髪、遅れて現れたオスカーが、ナタリーの力の入った手を止めた。
そしてこぶしで何度も彼女を殴る。
「オスカーさんやめて!」
意外にも声をあげたのはリディルだった。
ナタリーは憎いが、リディルはこれまで多くの暴力を経験してきたから、これ以上は争いたくないという気があったのだろう。
「ああ、やめるとも。 こいつにはお前はもううんざりだろう! こんな魔女には! 見ろ! その証拠にこの子はなんだ! すごく顔色が悪い! 軍医の目はごまかせないぞ? 熱があるみたいじゃないか! ほったらかしにするなんて、やっぱりお前は魔女だ!」
ぐったりしているシャルロットを指さして、オスカーはわめき散らす。
「二人とも渡してもらうぞ?」
アンドリューにためらいはなかった。
昔と違って、今は子を養えるだけの十分すぎる財がある。
「そう、は、させないよ! この、ふたりは、私の、ううっ。 奴隷なんだ。」
殴られながらも、痛みをこらえて夫人が立ち上がろうとする。
しかし、途中で力尽きて気を失ってしまった。
「治せそうか?」
アンドリューはシャルロットを抱くオスカーにたずねたが、彼は首を振った。
「俺は確かにもと軍医だが、できるのは銃創の傷を治すほうだ。 医者を探さないと…」
「急ぐぞ!」
アンドリューたちは馬にのり、街のほうへと大急ぎで向かっていった。
孤児院に残ったのはただ一人、ナタリーだけだ。
「ううっ…」
高いうめき声をあげて、彼女は起き上がる。
「ナタリー。 おいで。」
ふと彼女の耳元で若い男の落ち着きのある声がした。
「誰? まさか、あんた、そこにいるのかい?」
夫人はきょろきょろと周囲を見渡すと、誰もいない窓のほうを見て、今まで見たこともないような笑顔をして、語りかける。
「あんた、探してたんだ。 今までどこに言ってたんだい?」
「君の知らないところさ。 とてもいいところ。 どうだ、一緒に来ないか? 久しぶりに会ったんだ。 君の喜ぶ顔が見たい。」
「ああ、もちろん行くともさ。 ちょっとだけ待っておくれよ。」
彼女はそれから鏡の前に立って、色が抜けかけた髪をくしで整え、再び窓のほうを向いた。
「また前みたいに冒険できるなんて夢みたいだよ。 あんたに会えるなんて…」
彼女の瞳は死んでいた。
体は動いているのに、意識もはっきりとしているのに、おかしなことである。
「ナタリー、おいで…」
声の主は手を差し伸べる。
彼女も手をとり、窓に足をかけ、よじ登る。
「あっははははは! オーギュスト、あははっ!」
それは恐怖ではなく、歓喜の声だった。
その後…
「ウエっ!」
ドサッという物が落ちたにしては鈍い音が混じっており、バキッという何かが折れる音もした。
さらには醜く低い声もした。
「君は苦労しすぎた。 僕も君には苦労をかけすぎた。 ごめんねナタリー。 でも、もう大丈夫だ。 もう大丈夫…」
男が語りかけた時、土にまみれた彼女の頬に、わずかながらえくぼができた。
結局、何日も経ったのち、警官が来て取り調べを行ったが、どう見てもこれは自殺だと判断された彼女は、孤児院の庭に誰にもみとられることなく静かに眠ることになったのだ。
「せめて彼女の髪を、イル・ド・フランスの大地に…」
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