第17章 無意識な心
毎回シャンドレーの騎士団~知と血の断罪~をお読みになっていただいている皆様へ、更新日についてお詫び申し上げます。
基本的に更新日については何の取り決めもございませんが、最低でも一週間に一話の割合で更新させることにしております。早めに申し上げるべき事項だったため、報告が遅延いたしましたことを深くお詫びいたします。
また、本作品はこのたび2000アクセスを突破いたしました。これからも読者の皆様にご支持いただけるよう、全力で執筆に取り組む所存であります。
シャルロットが孤児院に来てからというもの、リディルの地獄のような日々は、わずかながら和らいでいた。
夫人の叱る対象が二人に増えたおかげで、どちらかが怒られることがあれば、もう一方は無事ですむからである。
とはいっても、シャルロットがミスをするのはまれで、ほとんどの場合はリディルが失態をやらかすことが多かった。
さすがは貴族の娘といったところだろうか、おおよそのことはぬかりなくやり遂げるのだ。
「シャルロット! そこのイスはもう使わないからお前たちの寝る部屋に持って行っておくれ。」
「はい。」
シャルロットは決して夫人への接し方に満足したわけではなかった。
はい、と返事をしながらも、心の中ではナタリーを疎んじていた。
「お、重い…」
小さな体では、階段をのぼりながらイスを運ぶことは重労働だったから、彼女は途中で止まっては、またしばらくして上へと登っていくのだった。
リディルが手伝おうとする事もあったが、意地の悪い夫人にいつも止められてしまうのである。
「つ、ついた。」
やっとのことで二階にたどりつくと、今度は床に引きずらないように上体をそらしてイスを運ぶ。
以前、床に引きずっていたところをナタリーに見つかり、叱られたことがあった。
いつまでこんなことが続くのだろう?
八つ当たりでもしてやらなければ気が済まない。
寝室まで来たシャルロットはそう思って、いつものようにいたずらを考えついた。
しかしこのいたずらは、結局は夫人の顔を浮かべているうちに未遂に終わるか、やっても元に戻すかのどちらかだった。
それでも自分は、あの夫人の所有物をいじくり倒してやったんだという気になれるから、いくらか憂鬱さを払いのけることはできた。
彼女は今日は鏡台に指で落書きしてやろうと思い、身を乗り出した。
「あれ?」
ふと鏡台の引き出しがわずかに開いているのがシャルロットの目に入った。
隙間からは、金色の何かが顔をのぞかせている。
「何だろう?」
彼女はそっと引き出しを開けてみる。
「きれい…」
中からでてきたのは、金色の懐中時計だった。
久しぶりに貴族に戻ったような感覚。
彼女は嬉しくなってその時計のふたを開いた。
「え…」
カランという音とともにふたが外れた。
そして中には割れて亀裂の入った時計盤と折れた長針。
「シャルロット! こんなところにいたのかい! イス一つ運ぶのに何分かかっているのさ! 早く下に降りて庭の…」
夫人の目にうつったのは、懐中時計。
それも壊れている。
「何やってんのさ? それは何かと聞いてんだよ! 答えな!」
「違うんです! 私じゃない!」
「とぼけんじゃないよ! リディルはずっとあたしのそばにいたんだ。 あんた以外、ほかに誰がいるってのさ!」
彼女の焦りは頂点に達した。
ちょっとしたいたずらのつもりだったのに…
しかしこれは最初から壊れていたものだ。
正直に話せば軽く済むかもしれない。
「最初から、こ、壊れていました。」
だが夫人の怒りはとどまることを知らない。
「あたしには最後にしっかり動く時計をしまった記憶しかないよ! あんたが持ってるってことは、いたずらでもしてたんだろう? ええ? 夫の形見だったのに…」
いたずらしていたことは事実だったから、シャルロットは何も言えなくなった。
それに夫の形見だったどは、何たる不運だったろう。
シャルロットの目から、じわじわと熱いものがこみあげてくる。
「ご、ごめんなさい…」
「嫌だね!」
心からの謝罪をナタリーはたやすく突き放すと、シャルロットの服をつかんで下の階へと引きずっていった。
秋も中期に入り、上に何か着るものがなくては肌寒さを感じるようになってきた。
葉は緑から黄色や赤へと染まり、よく地に落ちて、幹のそばに積もるようになる。
「やだよ!」
「あんたが悪いんだろう!」
午後も四時に入り、あたりの空気が冷え始めるころ、少女の悲鳴が木々にとまるカラスたちの平静をかき乱した。
そして夫人のつんざくような声に恐れをなして、せっかくの木の実を鳥たちはあきらめ、バタバタと飛び立ってゆく。
「これでもくらいな!」
シャルロットを後ろ手に縛り、樽にいっぱいにためた雨水をナタリーが何度も彼女の顔にたたきつける。
「むご…」
息苦しさでシャルロットは大きく体をゆらしてもがくが、夫人はゆるさない。
抵抗が激しくなると、なぜか水から顔を出させて、彼女の息が安定した頃を見計らって、また樽の中へと顔を押し付ける。
リディル、助けて…
しかし彼女の心の叫びはリディルに届くことはない。
なぜなら、夫人は狡猾にも、事前にリディルに庭の手入れをするように命じておいたからである。
「や、やめ…」
シャルロットは水面に浮かんでいた落ち葉を髪にからませながら、夫人に抵抗し続ける。
「うるさい! あんたが悪いんだ!」
ナタリーは怒りの表情で、ついには彼女の服の後ろのすそをつかんで、そこから震える幼い背中に向かって、水を一気に注いでいく。
「ひゃあ!」
彼女はその瞬間、罪人たちがムチで打たれたときのように、びくりと背中をのけぞらせる。
服はそのせいでびしょぬれになってしまったのだが、夫人はあえて服を脱がせなかった。
結局それはリディルが庭の手入れを終えるまで続いた。
「シャル! どうしたの?」
リディルは夫人に手入れが終わったことを報告しに来た際、ずぶぬれになりくたびれ果てたうつろな目のシャルロットが、縛られているせいで起き上がることもできないまま地面に土まみれになって倒れているのを発見した。
「終わったのかい?」
そばにはにやにやと笑顔で満足そうな夫人の姿。
「どうしたんだいリディル? おっかない顔をしてるじゃないか?」
その言葉には、何か言ったらお前も同じ目に遭わせてやるぞという夫人の考えがあり、リディルは何か気配を感じ取ったのか、口を閉じていた。
「早くその倒れている娘を着替えさせな! 汚いったらありゃしない。」
気配を読まれたためだろうか、ナタリーは舌打ちをして、今度はリディルにきつくあたった。
「シャル、しっかりして。 大丈夫?」
彼女は二階の寝室へシャルロットを連れていき、物置にあった、もう使われなくなった子供用の服のほこりを手で払うと、シャルロットに着せた。
シャルロットは服を着せられる時も震えが止まらなかった。
震えというよりは、人間が水銀を誤って飲み込んだときに起こすけいれんといったほうがいいだろう。
悪い病気ではなく、おそらく精神的なものだろうが、シャルロットの意志ではどうすることもできなかった。
「殺される。 私たち殺されちゃうのよ。」
その日の晩の間ずっと、彼女は一人でそんなことをつぶやいていたのだが、朝になるとすやすやと眠っている彼女がリディルの目に入った。
きっと体の具合も良くなっているはずだと、このときばかりは二人ともそう思っていたが、ことは単純ではなかった。
「熱があるわ…」
シャルロットの額に手を当てて、リディルは言った。
きっと昨日の体罰のせいだろう。
「熱があるから休ませたい? バカ言うんじゃないよ! 生意気なあの娘のために、あたしに仕事しろって言うのかい! 冗談じゃないよ! あんたがあいつの分まで頑張ることもなしだよ! あたしはあいつにやらせたいんだ! もともとあの時計を壊したのはあいつなんだ! 手を出したら分かってるね?」
時計と言われてリディルは絶望した。
まさか、まさか、自分のせいであの子はあんな目に遭ってしまったのか?
「私のせい…」
「なんだって?」
とたんにナタリーの恐ろしい視線が注がれる。
「いいえ。 なんでもありません…」
なんでもないわけがない。
わかっていたのに、彼女は夫人にそう告げた。
怖い。
怖くて夫人に告げる勇気がない。
「シャルロットを呼んできな! 仕事をさせるんだよ、いつもどおりに! 何してるのさ? 早くしな!」
なんとなさけないのだろう。
生まれて初めて感じる罪悪感にリディルは戸惑って、何もできなかった。
シャルロットは目を覚ます気配がない。
「ねえ、シャル?」
彼女が肩をゆすっても、返事一つしないのだ。
こんな疲れ果てた子に、今から働いてくれと、どこのだれが言えようか?
夫人は言うだろうが、リディルにはまず無理だった。
「だめ。 できないよ。 そんなこと言えっこないわ…」
見れば見るほど哀れな彼女に、リディルは胸が張り裂けるような思いだったが、ナタリーが後ろからやってきて、かすかな平穏さえも奪っていった。
「どきな!」
彼女はリディルを部屋の隅へと追いやると、すごい勢いで寝ている少女の体をゆすった。
「何やってんだいこの子は! 起きるんだよ! 起きて働きな!」
「やめて…」
安眠を邪魔されて、小さな声で彼女は抵抗する。
しかし夫人に手で突き飛ばされて、毛布を取り上げられた。
「起きればいいんだ。 甘ったれるんじゃないよ! 起きろ! 起きろ! 起きろ起きろ起きろ!」
シャルロットは床に倒れ、突き飛ばされたときに打った背中をさすりながら、ナタリーの叫び声に必死になって耳をふさいでいる。
そうかと思えば、夫人は彼女の髪を引っ張って下の階へ連れていこうとする。
「いやあああっ! 痛い! 髪が抜けちゃうよっ!」
激痛に狂ったような声をあげるシャルロットに、夫人はなおも時計を壊された仕返しを続ける。
「痛いだって? なら昨日の続きでもあたしは結構だよ! それとも、水じゃなくて熱湯を注いでやろうか? もしくは痛みを忘れられるように、髪をバサッとやってやろうか! 覚悟しな! 丸坊主にしてやる!」
「ダメ!」
夫人は髪をしっかりと握りしめると、ポケットから小さなかみそりを出して、今にもシャルロットの髪の生え際にあてようとしている。
「それだけはだめ!」
突然のことだったこともあり、夫人はリディルに押し倒された。
「何するのさ? こいつをかばうのかい?」
「違うの…」
「こいつをかばうのかって聞いてんだよ!」
「違う! 私が悪いの! シャルは悪くない! 時計を壊したのは私なの! だから、もうシャルを許してあげて! 私のせいなんだから…」
一体だれが黙って見ていられようか?
こんな状況で、誰が己が虚栄に走れようか!
おそらくだれもが、このようなときは利己の一切を意識することなどできはしないだろう。
「どういうことだい? そうか。 そうか!」
時計を壊したのはシャルロットではなく、リディルであり、夫人があの時見た光景は、すでに壊れていた時計を、シャルロットが発見したということだったのだ。
「…」
ナタリーは無言だった。
無言のままそばにあったイスを持ち上げて、リディルのほうへと大きく振りかざす。
やられる…
そのときだった。
下のほうから、コンコンと玄関の扉をノックする音がする。
客人が来たようだ。
それとも新しい子供だろうか?
「悪運の強い娘だね。」
ナタリーはイスを半ば八つ当たりするように元の位置に戻すと、目をつぶって怯える彼女に吐き捨てて下へと降りていった。
急にあたりは静まり返る。
騒乱の元凶が夫人なのだから当然のことだが、あまりの恐怖に彼女たちにとっては、そこが一層静かな空間になりえた。
「ごめんねシャル。 ねえ、シャル?」
シャルロットはだらしなく唾液を口からたらし、ピクリともしない。
死んでしまったのだろうか?
そんなはずはない。
そんなのは嫌だとリディルは彼女にごめんなさいと言っては体をゆする。
何十回かゆすったのち、彼女は肩に弱々しい、まるで這うともなぞるともいえるような、シャルロットの指使いを感じた。
まだ生きている…
「シャル! 本当に、本当に、ごめんなさい! ううっ、うわあああああああんっ!」