第14章 支配者のルール
この世に息づいている者たちには感情が備わっている。
生物たちは皆、感情で動くものだ。
しかしあるとき、強力な支配者によって感情を抑圧されてしまったら、息苦しいことこのうえない。
もちろん、進んで支配へ下る者もいるだろう。
その逆も…
「お父さん…」
リディルはアンドリューと引き離された日から、孤児院へと連れていかれ、そこで不安な日々をすごしていた。
あの時、あの夜、警官に身よりがいないと思われてしまったようだ。
事実そうなのだが、それでもオスカーにしばらく面倒を見てもらうくらいはできたはずだ。
たとえそうだとしても、あいにくフランソワの部下は子供の言うことなど信じてくれなかった。
「お父さん、どこ?」
彼女はまたひとり言をつぶやいた。
さみしくてたまらないという気分でもあったが、この孤児院が恐ろしいというのが本音だった。
この孤児院には、昔は子供が多くいたようだが、今はリディル一人しかいないのだ。
一体ここのどこが恐ろしいのだろうか?
確かに庭は荒れ放題で、朝方にはしばしば不気味な霧が立ち込めたが、問題は別にあった。
「リディル? リディル?」
「はっ!」
中年の野太い女性の声に、彼女はビクリと両肩をこわばらせた。
女性とは言っても、男勝りの肥えた体つきをした女で、よく我々が想像するような美人ですらっとした女性とは程遠い印象だった。
リディルは女の声がすると同時にすごい速さで、目の前の落ち葉をかき集めて一つにまとめると、女性のほうへと走っていった。
「このバカ娘!」
女性はリディルが来たとたん、ものすごい勢いで彼女の頬を打ち、はり倒した。
「どうして皿を片づけないのさ! いつも朝食の後は紅茶を飲むから早めにカップを洗っておけって言っているだろう! このまぬけ!」
いかにもきつい目つきの女性はナタリーという名だった。
彼女は今怒った出来事の通り傍若無人で人をこき使う、男のような女であった。
孤児院にリディルしか子供がいなかったのはそのためで、不幸なことに、彼女を連れてきた警官はそんなことは一切知らなかったのだ。
おかげで彼女は孤児院に来て早々、ナタリー夫人よる、ナタリー夫人のための規則を激しい苦役とともに体に叩き込まれるはめになった。
「ここでは私が絶対なんだ。 逆らうんじゃないよ?」
初めて言われた言葉がそれだった。
彼女は、彼女一人の力ではたとえ支配に不満があっても、それに立ち向かうことすらできないのだ。
「お父さん助けて。 オスカーさん、助けて…」
「ああ、なんだって? 聞こえないね?」
「助け…」
「うるさいんだよ!」
ナタリーはリディルの服を力強くつかむと、パンパンと何度も右へ左へ彼女の頬を打った。
「何か不満があるのかい? 言ってごらんな! 十回でも百回でも叩いてやる!」
「ごめんなさい! 不満なんてありません! ゆるして…」
リディルは頬をさすりながら、夫人に必死に謝った。
「だから、聞こえないんだよ!」
「ゆるしてください! お願いです! ゆるしてください!」
彼女の泣きじゃくる声が、その後何度も響いたが、あたりには人気のない草原や木々の群れが並んで立っているだけで、むなしい叫びは、いともたやすく黙殺されてしまうのだ。
「分かったらさっさと皿を片づけてきな! 泣いてんじゃないよ! 私が悪いみたいじゃないのさ!」
もうこれ以上はナタリーの暴力につき合う余裕がない。
彼女は涙を袖でぬぐう暇もなく、震える体でぎこちなく走っていった。
もうお分かりの通り、彼女は眠れぬ夜を何日にもわたって過ごしてきた。
初日よりは随分と落ち着いてきたが、ナタリーに明日も会わなくてはならず、こっぴどく叱られるかと思うと、そのたびに彼女はアンドリューの名を呼んで恐怖に耐えねばならなかった。
なぜナタリーは人をこき使うのだろう?
人は誰も見ていないところでは素の自分をさらけ出すものである。
人々の監視の目が理性を与え、野生的な行為を止める役目を果たし、暴虐にはしる者を奈落へと落とすのだ。
しかしここにはそれがなかった。
そうだとすると、これが間違っている、これが正しいといくら言ったところで意味がない。
ただ、弱い者が強い者に従い、搾取される世界があるのみである。
彼女が過去のひがみとして現在のような性格になったのかは分からないが、彼女の心の中には、人のためになどという考えはまったくなかった。
リディルは夜中にふと目が覚めた。
空き部屋はあったが、ナタリーがそれら全てを私用として使っていたために、彼女は夫人が近寄らないような古びたがらくたがほこりをかぶった部屋で寝ていた。
時折、窓の割れ目から入ってくる冷たい風が、リディルの首もとを冷やすせいで、彼女は何度も粗末な毛布を深く頭からかぶらなければならなかった。
その頼みの毛布も長いこと放置してあったためか、汗のにおいや豚の食べる干し草のにおいが混じり、眠りを妨げた。
これでは明日の仕事に支障をきたしてしまう。
彼女はゆっくりと立ち上がって、何か別の毛布はないものかとあたりを探し始めた。
部屋の中は散らかってはいないものの、金銀に光る壺や水差しなどのアンティークが置かれている。
ナタリーの趣味だろうか?
「これじゃよく見えないわ。」
リディルはカーテンを開けた。
月の青白い光が窓枠のシルエットを見事に映し出し、部屋はほんのりと明るくなった。
あるのはやはりがらくただけだった。
彼女は気落ちしたが、ふと小さな鏡台に目が釘づけになった。
女の子ならば興味をひかないことはまずない。
しかし彼女は平民の出だったから、彼女のかつての母の化粧する姿を目にしたことはなかった。
「なんだろう? どうやって使うのかしら?」
恐る恐る鏡台の前に立ったリディルはイスを動かしたり、鏡台の裏をのぞきこんだりした。
そして鏡のすぐ下に取っ手があるのを見つけると、これは何か物を入れるところなのだと納得した。
「何が入っているのかな?」
部屋には誰もいなかったが、それでもやはり興奮する。
見れば夫人に怒られるのだろうが、今ナタリーは寝ているはずだ。
彼女は決心すると、やたらと凝った模様の銀色の取っ手を引っ張った。
「きれい。 でも、これは一体…」
中には大樹のレリーフが施された金の懐中時計がはいっていた。
もちろん彼女は懐中時計など見たことがない。
中でカチカチと何かが動く音に驚き、ゴキブリでもいるのではないかと思い、反射的に懐中時計を放り投げてしまった。
「あっ!」
だが時すでに遅く、時計はグシャリと卵が割れたような音を立て、床に落ち、その衝撃で上ぶたが開き、無残に折れて動かなくなった針が目に入る。
「あ…」
とたんに彼女の顔が涙目になる。
これはこういう物だったのだ。
リディルは取り返しがつかなくなってしまったと思い、グズグズとその場に朝まで泣き崩れていた。
幸い夫人は鏡台の引き出しをあけることはなかったが、リディルにとってはむしろ不幸だったのかもしれない。
いつバレるか分からないという恐怖で、彼女は鏡台の引き出しに隠した懐中時計を見張り、常に緊張していなくてはならなくなったのである。