第11章 迷走する意志
ミサが終わってあたりに人の気配がなくなると、決まってクロードはいつもどおりに神の意志を聞くために一人で祈り始めるのだが、今日という日にある二人の客人と出会った。
「ミサはもう終わりましたか?」
念のためクロードは二人を見ながら神父にたずねた。
「ええ、もちろん終わりましたが、人がいてはやりづらいのですか?」
神父もアンドリューとリディルのほうへ視線を向けながら言った。
「いいえ。」
しかし彼は二人の姿から目をそらし、教会の十字架に描かれた主の前に向き直ったとき、何かを思い出したようにもう一度、今度は気づかれないようにそっと二人を見た。
「馬に乗ってたんだ。 かっこよかったよ。 でも一頭の馬には女の子が乗ってた。 僕たちと同じくらいの年の女の子でね、髪の毛はさらさらしたようなブロンドの色をしてた。 こうやって、両腕を前に回して仮面をかぶった怪人にしがみついていたんだ。」
情報収集したとき、確かに少年たちはそう言った。
その瞬間、クロードは確信した。
間違いないと。
目の前にいるのは明らかに自分とフランソワが追っている男とその子供だった。
いや、だめだ!
彼はフランソワにこの事実を知らせようとしたが、とっさに踏みとどまった。
「確かに私の仕事は犯人を捕まえることです長官。 しかしあなたは犯人を捕まえたとき、どうなさるか、私には分かっています。 きっと…」
きっと長官に知らせてしまったら最後、この男はともかく、女の子の運命はかつてないほどに不幸になるだろう。
「人の目はそんなに甘くないぞ。」
「分かっています。 しかし、人の目を気にしてでもこれだけは譲れません。 譲ってしまったら、自分が壊れてしまいそうで…」
彼とフランソワの妄想の中での会話は続いていく。
「逃げてしまいたいのだろう?」
彼はフランソワの言葉に、自分の想像した言葉ながら殺気を感じた。
自分が恐ろしい。
この立場から逃げてしまいたい。
しかし逃げてしまったら、悪をかくまった罪悪感が自分に襲ってくることだろう。
すなわち逃げることは、クロード自身が悪になることを意味していた。
「嫌です! 悪にはなりたくない!」
「なら私のもとに来い。 そして私に仮面どもの居場所を教えるんだ。 そうすればお前は正義のヒーローだ。 なりたいんじゃなかったか? 正義の味方に? 英雄に!」
「それも、嫌です…」
「なぜだ? お前は手を直接下さず、私に報告するだけでいい。 口を数分動かしているだけで、お前は今まで通り市民と同様に大手を振って街を歩けるんだ。」
「でも…」
「何が不満なんだ?」
不満じゃない。
どうしたらいいか分からない。
「分からないんだ。 神様。 いつまで待てばいいのですか? このままでは私は。 私は…」
「よく考えろ。」
心の中のフランソワは言った。
「お前がもし悪に手を貸してしまったら、私はお前と戦わなくてはならない。 つらいものだ。 部下を手にかけなければならないとは。 私の残忍さはお前が一番よく分かっていると思うが? それでも悪の味方をするというならしかたない。 私自ら貴様に引導を渡してくれよう。」
言いようのない、表現することのできない恐怖が彼を襲う。
「い、いや、いやだあああああーっ!」
人間は追い詰められたとき、本能をむき出しにする。
ここでもそういった事が起きてしまった。
急いでフランソワのもとへ行かなくては。
彼は大声をあげて走りだした。
渇いた叫びは教会のロマネスク様式のアーチ型の天井まで行くと、ステンドグラスに跳ね返り、より高い悲鳴のような声になってクロードの耳もとへと戻ってきた。
本当に自分が出した声なのか?
しかし彼にはそんなことを考えている暇はなかった。
顔を赤くさせ、泣きながら乱れた息づかいで、街中を走りまわっていく。
自分の身を守らなくては!
この際、悪や正義などという言葉すら、彼にとってどうでもよくなっていた。
フランソワは一人で自分の執務室にこもって、物思いにふけっていた。
今度会った犯人にはどんな仕打ちを与えてみようかと、笑いもせずに真顔で指を噛みながら、机に足を行儀悪くのせて考えていた。
「長官!」
あわただしく部屋に入ってきたのは、取り乱したクロードだった。
警察の服も着ずに、私服で現れたのだ。
「誰かと思えばクロードじゃないか。 ここのところ姿を見せなかったが、一体何をやってたんだ? 女でもできたか? それとも私の考えに不満で仕方がなくなってやめにきたのか?」
フランソワは顔を正面に向けたまま彼を見ずに言う。
まるで考え事をしているところを妨げられたような言い草だっただけに、クロードがおどおどするかと予想していたのだが、彼はというと微動だにせずフランソワを見つめていたから、彼は冗談を言う気が失せてしまった。
「どちらでもありません。」
「そうか。 残念だよ。 それで、何の用で来た? 言っておくがお前は仕事を休んだ。 本来ならクビにするところだ。 しかしお前の性格に私はしばしばそそられる時がある。 返事によってはもう一度職を戻してやってもいい。 何を言うべきか、そこで良く考えろ。」
心臓の血はたぎり、バクバクと音を立てて活性化する。
だめだ、言うな!
ダメだ、ダメだダメだダメだ、悪にはなりたくない!
「奴を、見つけました…」
「嘘をつくな。」
「嘘ではありません。 こんな状況で嘘なんて…」
「こんな状況とは?」
フランソワは顔をしかめた。
「あなたには、あなただけには言うことができません。」
「言え! でないと私は信じないぞ。」
その言葉を聞いた瞬間、クロードの口の隙間からもれる歯ぎしりの音を彼は聞いたような気がした。
「嫌な人だ…」
フランソワの口がみるみる緩んで、白い歯が姿を見せる。
「あなたは私の知る中で、もっとも嫌な人だ!」
「なるほど。 これは良い話だ。」
クロードからの話を聞いたフランソワは満足気に言った。
「ついに見つけたのだな。 よし、約束だ。 お前は今まで通りに仕事しろ。 しかし傑作だ。 本当に神がお前に人間へと戻るチャンスを授けてくれたのかもしれないな。 授けてくださった、と言ったほうが良かったか?」
「失礼します!」
クロードは苦しかった。
よりによって一番嫌いな人間に、自分の取り乱した行為を告げ、何よりもあの男と少女の運命をねじ曲げる火ぶたを切ってしまったことに、自責の念を感じてもがいていた。
そして一刻も早くこの場を立ち去り、一人になりたかった。
「待て!」
部屋のドアノブに手をかけたところで彼に止められた。
「そうか。 そんなに後悔しているのか。 だったらクロード、貴様は今夜あの仮面の男が捕まり、少女と引き離され、叫ぶ様を見ているがいい。 けじめはしっかりつけたほうがいい。 私はお前に残忍なことを要求したか?」
明らかに彼は、はっきりとクロードの不幸を楽しんでいる。
「いいえ…」
確かに自らの苦悩と向き合うことは大切だ。
しかし彼は密告した自分が嫌だった。
進んで選んだ決断なのに、彼の本心は常にそれとは別方向に立っているのだ。
どうすればいい?
自分は自分が楽になりたいばかりに、その時の気分で人を不幸にしてしまった。
彼は今度は上官に失礼の一言もなしに部屋を出て行った。
その夜のことだった。
アンドリューはリディルと騎士の仮面をつけて遊んでいた。
「やだ、お父さんったら、変な顔。」
その時だった。
「よし、武器を捨てて手をあげろ! そのまま床に腰をおろせ!」
銃が鳴り、家庭の温かい雰囲気が一瞬にして壊れ、直後にドカドカと足音を立て、警官たちが次々にアンドリューの家の中に押し寄せてくる。
「動くな! そこの娘! 座ってろ!」
リディルは突然の出来事に驚きアンドリューにしがみつこうとしたが、警官の一人が怒鳴り散らしたために、恐怖で動けなくなってしまった。
「お父さん、この人たち誰?私たち殺されちゃうの?」
「大丈夫だよリディル。 この人たちはリディルを殺したりしないよ。 お父さんに用があるんだ。」
アンドリューは予想外の出来事に一瞬たじろいだが、覚悟を決めるとリディルに優しく言った。
「立て。」
ひげの生えた、警察長官らしき男が彼に命令した。
「お父さん、いや!」
彼女が叫ぶのを見て、長官は再度アンドリューに言う。
「早く立てと言っているんだ! このクズめが!」
間違いない。
この長官は家族愛のような二人のやり取りに吐き気がして、彼を呪っている。
ここ周辺では名の知れた警官、フランソワだ。
アンドリューは強引に立たされると外へと連れていかれる。
「やめて! お父さんを連れていかないで! 誰か助けて!」
「来るんだ!」
「いやだ、はなして!」
そばにいた警官にかつがれるリディルは足をバタバタとさせ、必死に抵抗するが、まったく無駄であった。
「ダメなの! 助けて! お父さん助けて!」
「リディル!」
「おい! 誰がしゃべっていいと言った! 前を向いてろ!」
腹いせだろうか、フランソワがアンドリューのすねのあたりを思い切り蹴飛ばして、痛さのせいでしゃがみこんだ彼のみぞおちに何度も蹴りを入れて追いうちをかける。
「早くしろと言っているのが聞こえんのか!」
だがそれだけでは終わらなかった。
「なんだその目は?」
アンドリューがあまりにも強烈な仕打ちに腹を立て、フランソワをにらんだのだ。
「貴様…」
彼は部下に合図を送るとアンドリューに聞こえるように、わざと大きな声で叫んだ。
「よし、全て燃やせ! こいつの魂ごと火刑に処すつもりでやれ!」
周囲で燃やせ燃やせと部下の怒号が飛び交う。
ああ、俺の家が!
「やめて! 嫌よ! お願いやめて! やめて! やめてっ! やめてえぇぇぇぇぇーっ!」
少女のか細い悲鳴が響き、その頬からそばでパチパチと飛ぶ火の粉や炎よりも熱い涙が流れ出る。
「仮面をしているな。 本当ならこれをとってやりたいところだが、私の友人に申し訳ない。 後日ゆっくりと拝ませてもらうぞ。」
フランソワは民家の壁に隠れて様子を見ていた人影にでも話しかけているようだった。
「リディルーっ!」
アンドリューを乗せた檻のついた馬車は牢獄のほうへと走っていった。
彼が最後に泣きそうな顔の彼女を見たのはその夜だった。
その後少女がどこへ連れていかれたのかは誰にも分からない。
ただはっきりとしているのは、家が燃やされるのをこっそり見ていた警官がいたということである。