第10章 呪われし者の申し子
教会の鐘の音が聞こえ、耳に重くのしかかってくるような響きに驚いた鳥たちが、いっせいに空を舞う。
そんな鐘の音とは反対に、教会の中では荘厳なるミサの合唱がゆっくりとしたリズムで行われていた。
このとき教会の中は中世そのもので、言いかえれば時空によって切り取られた島であった。
宗教に自分の意志をゆだねるやり方はもう古い。
フランス革命の後から、こういった古い伝統を崩す考えが街には生まれつつあったが、それでも人々の中には修道院のシスターほど熱狂的ではないものの、神の意志にすがろうとする者たちが集まってきていた。
アンドリューはこの日、リディルを連れて教会へ来ていた。
何も知らない彼女に、せめて心のよりどころをつくってやりたかった。
「お父さん、ここはどこ?」
彼女は周りで祈り、手を合わせて目を閉じる人々や、その人々が握っている十字架、加えてアンドリューに買ってもらったミサ用の丈の長く暗い色の服を、落ち着かない様子で何度も触ったりつまんだりして当惑していた。
「静かに。 今はミサの最中だから、この人たちの歌が終わるまで目を閉じて手を合わせていないといけないよ。 こんなふうにね 。歌わなくてもいいからやってごらん。 分かったかい?」
彼はリディルの手を取って合掌のポーズをさせる。
「ええ、お父さん。」
「そうそう。 良い子だ、えらいぞ。」
アンドリューもそう言ってミサを歌い、目をつぶる。
しかしながら、彼は先ほどから居心地の悪さを感じていた。
神は、俺の中の精神は、善人と呼ばれる人々が生み出した創造物を歓迎していない。
それどころか蹴散らそうとしている。
彼には全てが分かっていた。
自分は今敵に囲まれているんだ。
俺は悪魔で周りは天使。
少なくとも、この空間では、何が何でも俺は虐げられる存在だ。
だから胸が苦しいのかもしれない。
なにかされるのではないかと、不安だけが勝手に一人歩きしていく。
どうすればいい?
逃げてしまおうか?
いいや、いっそのこと神にこの身をゆだね、罪を告白し、楽になってしまいたい!
ミサを唱えているだけだというのに、彼の額にはいつの間にか汗の粒が浮き出てきていた。
「お父さん? どうしたの? 具合が悪いの?」
リディルが心配そうに見つめる。
「大丈夫だ。 それよりしっかりミサをしなさい。」
結局アンドリューは神に助けを求めるようなことはしなかった。
たとえ自分が告白したとしても、恥を背負ってのけ者にされ、生き続けなくてはならない。
そんな世界が嫌で、彼は自分の意志を通してきたのだ。
彼はこの時偶然に悟った。
俺は神を冒涜しているのか?
神の前で、神に従わない異教徒が信仰するふりをしているのだから、そうに違いない。
しかしリディルはどうなるだろう?
彼は彼女のほうへ視線を投げた。
少女は目を閉じて静かに手を合わせている。
彼女も、いつかはこうして一般人と同じ世界にいる以上は、何かのきっかけで、悪とはどういうものかを知る時がくることだろう。
そうなれば、アンドリューのもとを去ってしまうことになるのだろうか?
早くリディルを連れ戻さなくては!
ここから立ち去ってしまわなくては!
だが、彼は彼女に手を伸ばしかけたとき、はっとして思いとどまった。
なんということだ。
これが親のすることかと、自分を戒めたのである。
自分がリディルと一緒にいたばかりに…
これでは彼女の考えを無視するばかりか、自分だけ助かろうとするとんでもない人間ではないか!
「いいだろう…」
アンドリューは心の中で憎しみをこめてつぶやいた。
「あんたらの神を俺は呪ってやる。 最期までな! リディルを、俺の子を奪おうとするなら戦うまでだ。」
やがてミサが終わると、神父が説教を始めた。
アンドリューにとってそれは呪いの言葉そのもので、神父の口から神は言われたとか、主は、という言葉が出るたびに、彼には心の中の何かがびくびくと震えているように感じられた。
「驚いた。 人の立場によっては、何気ないことが死にたくなるくらいに強烈に伝わってくる。」
「ねえ、お父様? じゃなくて、あ…」
リディルは彼を呼んだが、しだいに頬を赤くしてうつむいてしまう。
どうやらお父様という呼び方が恥ずかしいようだ。
こんなにかわいらしいしぐさも、神の前では、お前はこんなに無垢な子を騙しているんだ、という言葉に変化を遂げる。
俺とリディルは神に呪われたんだ!
彼は叫びたくなって、つい無意識にリディルの手を取った。
「呪われた! 神に呪われた! もうおしまいだ! いや、こうなることは初めから分かってた。 リディルは絶対に渡さないぞ!」
彼はそう言ったつもりで、神のいると思われる天井の壁画をにらみつけた。
「神父さん。 もうミサは終わりましたか?」
教会でもうほかの人間が全て帰ってしまい、アンドリューもこれからリディルと帰ろうとしていたとき、教会の奥から一人の男が出てきて言った。
ひどくやつれた顔をした若い男だった。