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第9章 我々は悪を根こそぎに抑えつけなくてはならない

 血を吸い上げたカーペットに手を触れてみると、水とは違う、ぬめりのある水気が感じられた。


 何度触ってみても、現実は冷たくなっているのだろうが、同じ液体が自分の全身をめぐっていると思うと、フランソワ警察長官にとってはこの染みには生あたたかさがあるように感じられた。


 「仮面の男か…」


 メイドからはもうこれ以上のことをきいても何も分からないだろう。


 そう思い、部下を連れて外に出た彼は、一市民の少年たちの話を耳にした。


 「あいつらは騎士だ。 でもなぜ仮面なんてつけていたんだろう?」


 「きっと正体を隠さないと、ロマンがないからだろう?」


 「分かってないなあ。 お前は。 騎士は堂々としていなくちゃならないって父さんが言ってた。 顔を隠すのは悪者のすることだって。」


 彼は少年たちの話をそばで聞いていて、何か手掛かりがあるのではと直感した。


 「おい、お前たち。 その騎士たちについて、分かることを教えてくれないか?」


 「おじさん誰? 警察? それとも軍人?」


 「話したら何かくれるの?」


 少年のうちの一人がそう言った。


 「ああ、もちろん。 お金をやろう。」


 もう一人の少年が、調子のいいことを言うその少年をたたいて自粛させたが、フランソワは笑顔でポケットから二枚の四十フラン銀貨をだして少年たちの前で見せびらかした。


 「すげえ、僕こんなお金見たことないや。 本当にくれるの?」


 その白銀の輝きを前に、少年たちはすっかり興奮している。


 「君たちが話してくれたらね。」


 「なんでも話すよ!」


 少年たちはフランソワの質問にはなんでも答えた。


 アンドリューたちが馬小屋から馬を持ち出したこと、馬のうちの一頭には幼い少女が乗っていたこと、それらを詳しく話した。


 「ありがとう。 君たちのおかげで知りたいことがたくさん分かったよ。」


 そう言ってフランソワは部下たちのほうへ視線を向けて首で合図すると、その場を立ち去ろうとする。


 このとき少年たちは、彼が話してくれたお礼を忘れてしまったのだろうと思っていたから、二人そろって彼に金を要求した。


 「待っておじさん! お金は?」


 少年の一人がフランソワを追いかけるが、そのことに気づいた部下に腕をつかまれ、彼は突き飛ばされた。


 「待ってよおじさん! 約束が違うじゃないか!」


 もう一人はなんとかフランソワに追いついて彼のズボンのすそをひっぱったが、彼の冷ややかな顔を見たとき、少年は動けなくなってしまった。


 フランソワはゆっくりと、つかんでいた少年の手をそっとズボンからはなすと、その部分をもう一方の手で払って言った。


 「私は慈善家じゃない。 物乞いなら教父にしろ。 それに私は国王陛下のために動いているだけだ。 私の邪魔をすることは国家への反逆を意味する。 分かったらさっさと立ち去れ。 薄汚いガキどもが。」


 フランソワは再び歩き出したが、すぐに止まって少年たちに付け加えた。


 「ああ。 それから、今度から物乞いをするときはちゃんと金をもらってから話をするといい。」


 それから三たび歩き出したとき、フランソワの後ろのほうで、少年たちがワンワンと号泣している声がしたが、彼は振り向くどころか表情一つ変えずに淡々と歩いていった。






 フランソワは悪に対しては容赦のない男であった。


 悪人をもはや動物同然と見ていて、彼らの不幸をここぞとばかりに楽しむ男だった。


 こういう類の人間はたいてい人情に欠けていて、人なつこい子供にはひどい仕打ちをしたりするもので、彼も例外ではなかった。


 「仮面の男め。 見つけしだい即法廷にひきずりだしてやる。 お前たちも仕事はぬかりなくやれよ。 そうすれば薄汚い獣どもの神にすがる儀式が見られるぞ。」


 「はい、長官。」


 肩を軽く叩かれた部下の一人が、緊張した口調で言った。


 「いいか、お前たち。 必ずやつをさらし者にしろ。 我々は栄えある陛下のしもべだ。 悪を倒せ。 彼らは、いや奴らは、しらみつぶしに探して抑えつけなくては害となる。 決して慈悲を求められても応じるな。 何を考えているのか分からない連中だ。 そんな者どもの言うことなど聞くにもあたいしないということを、よく覚えておけ!」


 フランソワが部下たちに喝をいれ、叫ぶ。


 彼は思った。


 いつものように、世に正義をもたらすため、悪を根絶やしにするのだ。


 奴らは劣った価値観で歩き回り、極めて野蛮であるから、我々が上から抑えつけなくてはならないと。


 自分たち以上の優れた考えは存在しないと思っていた。


 だが、こういった慢心した考えを持つ者の部下の中には、疑問の声をあげる者もいた。


 「本当にそうでしょうか?」


 クロードという、まだ入隊してから半月の新米警官だった。


 「何がだ?」


 「彼らは弱いだけではないのですか?」


 「どういう意味だ?」


 「人は誰でも感情を持っています。 ただ、その感情を抑えることが苦手な集団なのではないでしょうか?」


 「そのくらいにしておけ。 奴らは人ではない。 理性を持たない存在だ。 違うか?」


 「あなたもそうですよ。」


 クロードはフランソワの言葉を無視して言った。


 「あなたは正義は悪を抑えつけて、初めて成立するものだと言いました。 しかしあなたを見ていると、悪におびえるあまり、悪人を戒める域を超えてしまっているのではという気にさせられる。 それは長官、あなたにも弱さがあるので…」


 「黙れ!」


 フランソワの怒号があたりに響いて、まるで乾いた拳銃の音のように近くの石壁に跳ね返った。


 「おっと、すまなかった。 だが一つ言っておく。 悪人を陥れて何が悪い? そんなに人の目は甘くないぞ。 それに弱さだと? 悪人に対する私の態度は正義感の強さだ! 悪人の反乱が怖くて警察長官が務まるのか? このふぬけめが!」


 明らかに自分の本心ではない。クロードにはフランソワがそう見えた。


 そして彼らが遠ざかった後、一人でこうつぶやいた。


 「それでも、我々は悪を、根こそぎに悪を抑えつけなくてはならないんだ…」


 なんと都合の悪い立場に自分は立たされているのだろう。


 この居心地の悪い空間から一刻も早く逃げ出してしまいたい。


 しかし、やっと見つけた仕事なのに、ほかに自分を受け入れてくれる場所はあるのだろうか?


 「なんだか、分からないな…」


 彼はとっさにこうつぶやいた。


 自分はどうしてここにいるのか分からない。


 自分はどうして警官になったのか、警察の何に魅力を感じたのか分からない。


 ただの店員の仕事なら、何も考えずに働いて金をもらっていればいい。


 しかし自分は人の人生を狂わせたりする仕事をしているのだ。


 犯人が悪いのだとしても、何も考えずにはいられない。


 街の人を守ったりする正義のヒーロー。


 そんな姿にあこがれていたのに、あの長官のせいで全てがわからなくなった。


 彼は打ちのめされた気分になった。


 「人の目はそんなに甘くないぞ。」


 先ほどのフランソワの一言が、やたらと重く感じられる。


 ひとの目ではなく、彼は本当は人の世は、と言いたかったのではないのだろうか?


 「ならなぜ、あなたはそんなやり方を変えようとしないのですか? 悪人を牢屋に入れて悪さをしないようにするならともかく、なぜ必要以上に悪を嫌うのですか? 正義感ですか? あなたの正義感は、私にとって呪いをかける行為にしか見えない!」


 追い求めていた理想は崩れてゆく。


 神よ、教えてください。


 あなたならどうするのですか…






 彼は数日してから仕事に来なくなった。


 仕事に行かず、神の意志を聞くという行為に、一日のほとんどを費やしていった。


 いつしか教会の神父に顔を覚えられ、よい話し相手となっていったが、彼の理想が崩れたショックは消えなかった。


 彼はついに教会にある空き部屋に住むようになった。


 神父も彼を気の毒に思い、神の意志を聞けるまでの間なら教会にいさせてくれると言ってくれた。



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