②マリラ
マリラは下町に住んでいる、行き場のない子供を集めた孤児院にはもういられなくなってしまった年齢の娘である。酒場での給仕の仕事を終えて、今しがたようやく部屋に帰りついたところだった。けれどそこは自分だけのくつろげる空間ではなく、役所と教会が一緒になって、雨風を凌ぐための部屋を貧しい人々に提供している場所なのだ。女性ばかりが全部で八人、寝起きを共にしていた。
夜の暗さに慣れてしまった目は床の軋む場所を正確に避け、足音をできるだけ殺し、割り当てられた自分の寝台に潜り込んだ。横になると我慢していた疲れが指先からつま先まで、やれやれと身体全体がため息をついているように感じられた。
同室は特に、シーツに潜り込む衣擦れの微かな物音にも敏感だ。明日の朝早くから文句を言われてはたまらないので、マリラは他の人達の寝息に耳を澄ませながら、ベッドの中で慎重に手足を伸ばし、眠るための体勢を整えた。今朝までは背中の後ろまで伸ばしていた髪に触ると、耳の後ろまでの長さで途切れている。
「……そんなに変だったかな」
ばっさりと鋏を入れて売り払い、対価は一週間分の賃金と大体同じ。ここで寝起きする事は決して無料ではないので、思ったよりもお金になったのはありがたい。
酒場で働く同僚には驚かれ呆れられ、客からももったいないと嘆かれたが、背に腹は代えられない。髪を切ったお店の人は随分褒めてくれたのだが、やはりお世辞だったのだろう。
まだ短い髪に慣れていないので、頭が軽くなった感じがまだ続いている。仕事中はいつもより軽快にテーブルを回って注文を取る事ができた。
マリラはベッドの中で目を閉じる前に身体の向きを変えて、窓の向こうの星の瞬きを見つめた。北の部屋なので陽の光はもちろん、月もあまり来てはくれない。
古びたガラスの向こうにあるのは無数の瞬き、星明かりだ。綺麗な光に手を伸ばしても、届く事はない。けれど青いような白いような小さな光は、絶え間なく降り注いでくれている。
美しい輝きはいつも、マリラを慰めていた。切ったばかりの髪が、空地の雑草みたいにぐんぐん伸びますように、とお願い事をしながら眠りについた。
「……あのお客さん、相場を勘違いしているみたいで」
「あんたに気があるんじゃないの? そのうちデートに誘われるよ。お決まりのパターン」
「あの格好で? 今までマリラに袖にされた男共にどつかれるよ」
確かにね、とマリラが相談した二人の同僚は笑いながら、しかしてきぱきと着替えを済ませた。けれど既定の仕事時間までには数分あるので、どうやらまだ立ち話をするつもりらしい。
狭い着替え室には彼女達が愛用している香水が混ざった微かな匂いが漂っている。購入するだけの財力のない、若しくは買ってくれる人がいないマリラはすんすんと嗅いで、羨ましく思った。
マリラが他の二人を置いて先に仕事を開始する頃、例のお客様がやって来た。相場というのは、客から直接もらえる給仕の対価の話である。
相手はこちらが注意深く観察しているのに気が付いた様子もなく、案内した席に座って、メニューが書いてある中から一番安い定食を指差して注文した。
明るい色の髪に少しクセがあるのと、何より分厚いレンズの眼鏡を掛けているのが特徴的だ。肌の色からして、どうやら隣国からやって来ているらしい。それから言葉には、まだ不慣れのようでもある。
ここは広い国土の中、一番北にある大きな港街だ。活気があって仕事もあるので、他所の国から大勢の人々が集まって来ている。その中で隣国、とは北の海峡を挟んだ海の向こうの国を指す。周辺国の中でもかなり裕福な部類である。こちらへ渡って来るのもマリラと同じくらい貧しさの出稼ぎ労働者ではなく、芸術の分野を学びに来る裕福な階級が中心である。
しかし通常、彼らはマリラの働くような酒場にはやって来ない。彼らが集まってできた、まるで隣国そのもののようにあちらの言語が飛び交う、綺麗に整備された区画があるのだ。彼らは大学や美術館、付近のお金持ちの屋敷に集うらしい。
この客はどちらかと言えばそちらにいるはずの人間なのに、なぜかこっちまでわざわざ足を伸ばすのかはよくわからない。
それからあんなに分厚いレンズの眼鏡をしているのなら、相当目が悪いはずだ。スリやかっぱらいに遭遇しないのだろうかと心配になるが、平然とこの付近に通い続けているなら、特に何の問題もないのだろう。
彼は食事をいつものように手短に済ませて、マリラに相場よりかなり多い給仕の対価を、それから食事の代金を払って店を出て行った。言葉は通じないが、物腰は柔らかく、人当たりの良さそうな笑みをいつも浮かべている。他の客とはやはり何かが違うのであった。
マリラも流石に他の客より高額な心付けを毎回もらえば、流石に何か意図なり事情なりがあるだろうと薄々察しがつく。特別に親切な接客でもしない限り、大体の金額は決まっているからだ。同僚が言ったように、店の者に好意があって渡す金額を弾んでくれている、という場合もないわけではないが、それは一番厄介な客に分類される。
「あっちの言葉で『金額間違っていますよ』って何て言うかわかります?」
「……くれるって言うんだから、そこはしれっともらっておきなって」
「誰かが先に指摘したら、知っていてだまし取っているみたいじゃありませんか」
「そういうありがたい助言をしてくれるような友達がいるようには見えないけどねえ。いたらあの眼鏡を真っ先に何とかしてるって」
マリラは不慣れな観光客をカモにする、質の悪い水先案内人みたいな真似をしたくはなかった。大笑いしている同僚二人を横目に、マリラは知り合いで言語に明るそうな人達をあたるしかなかった。
その機会は数日後に訪れた。彼はいつもの席に座る。マリラも近所の観光客向け物産展の女将に教えてもらって丸暗記した、あちらの国の言葉で『給仕に支払う金額が間違っていますよ』を心の中で暗唱した。
「すみません、少し助けてはもらえませんか」
さあ今こそ、とマリラが口を開くよりも早く、彼は丁寧な口調でこちらに声を掛けた。いつものように食事の注文の単調なやり取りではない。こちらに見せた紙切れには手紙、送る、店。並んでいる単語のうち、読み取れたのはそれだけだ。残りは知らない文字で埋められている。
「ごめんなさい、読めないんです」
「……ああ、そうでしたか。それは失礼しました」
彼は給仕に読み書きの能力がない事に気を悪くした様子もなく、参ったなと紙に視線を戻している。マリラはちらりと店の奥へと視線を走らせ、主人が鍋に、二人の同僚が別の作業にかかりきりなのを確認した。誰の手もしばらく空く事はない。
マリラは彼の向かい側の椅子を音を立てずに引き、そのまま身体を滑り込ませた。貸して、と彼の手から古ぼけた鉛筆を受け取って、紙に線を走らせて地図を描き始めた。
「手紙を出しに行くんですか? それならこれが街の市場で時計塔がここで……。ああごめんなさい、こっちが北。これが海。お魚の絵でわかってくれるかしら? ここ、街の観光案内所で、手紙や小包の類は受け取ってくれるって聞いた事があります。ちょっと手数料取られるかもしれないけど、確実」
丸の中に十二の数字と短い二本の線を書いて時計塔、海には魚と波の絵を描いて、とマリラは短い時間の中で随分頑張ったと思う。ここ、と多分対応してくれるであろう街の観光案内所には、強調のために大きく星のしるしを書いてやった。どうですか、とばかりにマリラが描いたばかりの地図を差し出すと、彼は何度か瞬きしてから口を開いた。
「……いや失礼、こんなに丁寧に教えてもらえるとは思わなかった。ありがとうございます」
今度はこちらが、相手をまじまじと見つめてしまう番である。流暢に、自然に聞こえるこちらの国の言葉で喋ったのに驚いた。異国人が別の国の言葉を口にすると、発音に何とも形容し難い違和感があるのだが、それを感じなかった。
「……喋れるんじゃありませんか」
「……いやだってこの街、色んな国の人がいるみたいで、なかなか通じないんですよ。どこの出身なのか見た目で判別しにくくて。それから最初にここの言葉を本で勉強したから、あまり発音に自信もないし」
それが何か、と問われて、マリラは少し恨みがましい視線を返さなければならなかった。この人は喋れないと思って頑張って下手くそな絵を、恥を忍んで披露したのである。
マリラのそんな反応に、眼鏡の奥の視線が和らいで、彼は笑みを浮かべたのだとわかった。いつもニコニコしているように見えたのは、単に元の顔立ちからそう感じるだけのようだ。
マリラは拍子抜けしたついでに、彼のために暗唱した内容は忘れた。けれど通じるのだとなれば、不都合はなかった。こちらの言葉でゆっくりと、あなたが私に支払ってくれている給仕への報酬の金額が間違っていますよ、と指摘すると、彼はきょとんとしている。
「あれ、そうでした? ちゃんと人に訊いて金額を参考にしたんですがね。金額を低く見積もると、要らぬ諍いを呼ぶからって」
「多分、もっと高級なお店を基準にしてあると思いますよ」
「……それは親切にどうも、ウェイトレスさん」
マリラが相場を教えると、一つ賢くなった、と彼は頷いた。その後、彼は通常通り食事を摂った。そして食事代の清算と、そして肝心の給仕の対価は、いつもと同じく相場より高い金額を寄越して来た。
「何か言いたそうな顔ですね」
「……だって」
「……さっきは親切に地図をどうもありがとう、ウェイトレスさん。要するに、そういう事です」
思わず客に向けるには不躾な視線を向けてしまったが、彼は気にした様子もなく穏やかな笑みを浮かべた。先ほどまでは優しそうな人として受け取ったのが一転、やはりこんなところまでやって来る隣国人は変わっているんだと半ば呆れてしまう。
「じゃあ、……そこまで言うのなら、遠慮なく」
どうぞどうぞ、と妙な客はいつもより軽い足取りで引き上げた。その姿を見送って、マリラもこの後の長い夜の労働に向けて、気を引き締めなければならなかった。