⑰灯火の行方
翌日マリラは何事もなく出勤し、お祭りが終わってどこかほっとしたような空気の中、商会の仕事に打ち込んだ。
これから隣国が寒くなって来るまでの期間は、少しばかり仕事が落ち着いて来るはずだ。交代で数日の休暇を取得していく予定が上役からもたらされ、マリラ達も同僚と今後の予定を話しながら、お昼休憩の時間を迎えていた。
「それにしても昨日の舞台はすごかったね。皆はどこにいたの?」
そんな話題から始まり、昨夜の広場の舞台で繰り広げられた歌劇ので持ち切りである。素晴らしい歌唱力を披露した二人の大ファンだとカトレアが熱弁を振るった。
ひとしきり盛り上がり、午後の業務が始まった直後に観光客らしき風貌の男女がやって来るのが見えた。どうやら年配の夫婦らしき二人連れで、男性の方は長椅子に女性を座らせてから、上の案内板の文字を読んでいるようだ。書類の発行手続きや小切手の換金、そんな文字の並びと、自身の用件を検討つつ、ちょうどマリラと目が合った。
こちらへどうぞ、と意味が伝わるようににこやかに笑みを浮かべると、理解してくれたようで近付いて来た。身のこなしは年齢の割に軽くて、何となく大きな猫を思わせるような人相をしている。
「……すみません、こちらに住んでいる親しい知り合いを探しているんですが、話を聞いて頂く事はできますかね? 住所の番地がわかってはいるんですが、初めて来た街で右も左もわからない」
「ええ、所在がわかっているのでしたら、ご案内できると思いますよ」
マリラは机にしまってある街の地図の、一番大まかな一枚を取り出して広げた。彼の話を聞いた後で、もう少し詳細でわかりやすい物に切り替えるつもりである。この街は海も素敵だが街路樹はもっと素晴らしい、と男性はにこやかに喋った。
「お嬢さんは私達の国の言葉もお上手。さぞかし、たくさんお勉強したんでしょうねえ」
「……隣国の方にそう言っていただけると、光栄です」
いつ向こうへ渡っても困らないようにレイを相手取って、頑張って勉強を続けている甲斐があるものだ。マリラは男性が少々たどたどしい口調で読み上げた所在を聞いて、思わず相手の顔を見つめてしまう。
「もしかして、レ……グレイセルさんのお知り合いですか?」
「そう、お坊ちゃんの!」
男性は大層嬉しそうな声を上げたので、マリラの同僚達や他の利用客から何事かと視線を向けられた。彼はしばらくぺこぺこと頭を下げる羽目になって、注目が散った後、後ろで待たせていた女性を手招きした。
「……あなた、余所の国へ来た時くらい、静かにしないと」
「だって、エリン。まだ一人目の聞き込みなのに、こんなにすぐ見つかるなんて。やっぱお坊ちゃんはすごいんだなあ」
報告を聞いた女性もまあ、と嬉しそうにマリラに向かって会釈をしてくれる。自分に両親というものがいたらこのくらいの年齢だろう。確かにレイであれば、どんな年齢や職業の人間と親しくしても不思議ではない。
しかし坊ちゃん、と呼ぶのはどんな関係の人なのだろうか。それもわざわざ、隣国から海を渡って来てくれたのだから。
そう思って訊ねると、彼はどこか得意気に名乗ってくれた。
「庭師のアスティンでね、すぐわかってくれるはず。お坊ちゃんがまだ子供の頃に、随分仲良くして頂いたのですよ」
レイに思わぬ訪問客が来ている事もあり、マリラは仕事が終わると急いで彼の元へと向かった。しかしいつもは道の途中で待っていてくれるのだが、今日に限っては合流できないまま、海の近くまで来てしまった。
鋳鉄の門を押し開けて、敷地内に足を踏み入れる。結局、帰路のどこにも待機していなかった。人の気配がなく窓も全て閉じられていて、むっとした空気がマリラを出迎えた。
「もしかして、家に帰ってない?」
そんな馬鹿な、とマリラも流石に顔色を青くした。昨日の夜に寮まで送ってくれた後、気が変わってお酒を飲みに、あの劇団の方々と合流したのだろうか。しかし一晩経って既に夕方で、帰宅していないのは流石におかしい。
家の中は観劇前まで二人でお茶を淹れて喋っていたそのまま、時間が押していたので後で片づける、なんて二人で急いで飛び出した時のままになっている。
「ケ、ケルちゃんおいで」
マリラは腕輪から番犬を呼び出して、とりあえず毛並みをよしよしと撫でた。垂れた耳と愛嬌のある顔立ちから、少し落ち着きをもらった。何か犯罪に巻き込まれたのではないかと焦燥に駆られながら、レイの家を飛び出した。
海が一番近い場所に差し掛かった時に、まだ辺りが明るい時間帯だったのもあって、何かが落ちている事に気が付いた。しゃがんで手を伸ばしてみると、すごく見慣れた道具が落ちている。ちゃんとつるは畳まれていた。
「……これはレイの眼鏡に間違いない、よね」
分厚いレンズの眼鏡である。レイはこれがないとほとんど何も見えないらしい。マリラの手元にあるなら今、彼はどんな状態にいるのだろう。しかし辺りを見回しても近くに姿は見えなくて、マリラはしばらくの間、おろおろするしかなかった。
「えっと、レイの眼鏡さん、いつもお仕事お疲れ様です」
他に方法が思いつかなかったマリラは、何も知らない人が見たら奇行とした思えない行動に出た。この眼鏡に視界の補助以外に効果があると聞いた事はない。しかしあのレイが、マリラに渡した腕輪にすら仕掛けがあったのだから、この最も身近な道具に何の細工もしていないのは不自然な事に思えた。
落ち着いて、肺の中の空気を全て外に出すように深呼吸してから、えい、と思い切って眼鏡を掛けてみた。以前は強力な矯正に耐えられずに呻くしかなかったが、おそるおそる目を開けてみると不思議な事に、目の前に広がる海ではない場所がレンズ越しに見えた。
「……入り江?」
見覚えのある岩場は、近くにある入り江の風景によく似ている。他に手がかりもないので、眼鏡を折り畳んで持ったまま走ると、入り江の静かな海に人影がいるのが見えた。
「……レイさん?」
「もしかして、マリラさん?」
悪いけど助けて、とレイにしては珍しく救助要請である。海の中に突っ立ったまま、微妙に見当違いの方に顔を向けている。どうにか前を見ようとしているのか、眉間にしわを寄せて顔を顰めていた。眼鏡を掛けていないレイの顔は新鮮だ、と思っている場合ではない。
そんなやり取りをしているうちに、相手は体勢を崩して転んだ。派手に水しぶきが上がって、やっぱり危ないから来ないで、と制止された。それなら一体どうすればと思っていると、マリラの腰の辺りにごん、とぶつかって来たのは番犬のケルちゃんである。
マリラが掴んでいるレイの眼鏡にすり寄るようにして、じっとこちらを見上げた。
「レイさん、ケルちゃんが行ってくれるって。上手く受け取れそう?」
眼鏡を顔に乗せて預かった犬は上手にバランスを取りながら岩場から海の中へ入って行き、よろよろと立ち上がったご主人様に落とし物を届けてくれた。
助かった、と心底ほっとしたような声で、必須道具を取り戻したレイは岩場を這うようにして上陸した。気を付けて、とマリラも滑って転ばないように気を付けながら、腕を伸ばして陸の上に引っ張り上げた。
「でも一体、何をどうして? 急に泳ぐ気分になったの?」
「……なかなか酷い目にあった。こんな仕打ちを受けた人間は僕以外にいないよ、全く」
そんな事を言うのでマリラもショックを受けて、レイの身体のあちこちを見たが、一応怪我はしていないようで、それだけは幸いだ。彼にしては珍しく、座り込んで半ば放心状態らしい。よしよし、とすっかり冷えてしまった身体を抱きしめた。
マリラはレイを気遣いながら来た道を戻り、家の中へ誘導した。自分も多少は濡れたが、そのうちに乾いてしまうだろうと判断して、まずはお湯を沸かした。暑い国だというのに、レイの身体は尋常ではないほどに冷え切っていた。
段々と正気に戻って来たようで、しきりにすみませんありがとうございます、ともう背中に十回ほど聞いた。
彼が浴槽に身を沈めたのを薄目で確認してから、中からも温めようと、マリラは淹れて直して冷ましたお茶を運んで飲ませた。それから残っていた焼き菓子を手ずから口に入れる。
何度もマリラと犬にお礼を言いながら、身体が暖かくなって来たらしいレイは、何だか奇妙な話を始めた。
「……海の底?」
「自称、古い時代の本物の魔術師だそうだよ。海の本当の一番奥底にいるのは、彼とその仲間達」
海の底には人がいて暮らしがある、まるで絵本みたいに現実味のない話だ。レイが冗談を言う時には、話の途中でそうだとわかる口調と表情である。しかし今は深刻かつ、どこか投げやりにも聞こえる。自称、ともう一度彼は口にした。
「前にさ、ステラって名前の子にあげたのを覚えている? 火のついたランタン」
マリラは頷いた。ある夜に突然訪ねて来た不思議な女の子と、夜と明かりのついたランタンの事を、今もよく覚えていた。彼女にもらった貝殻から作った耳飾りを毎日身につけているのである。
あの夜にレイは、人間は火の扱いを覚えたおかげで進化できたのだ、と小さなステラに教えた。彼女はランタンを受け取って、桟橋の先から夜の海に消えて行った。
「ちょっと目を閉じて、想像してみて。……真っ暗で冷たい海の底に連れて行かれると、やがて幾つもの赤い明かりが見えて」
マリラは言われるがままに目を閉じた。彼が浴槽の中で身動きすると聞こえる水の音が、思いを巡らせる助けになった。
古い時代に異端として追い回され、迫害された彼らはついに、人魚姫に導かれて海の底へ逃げ込んだ。追手からは逃れられた代わりに、人間の一番大切な道具がまるで命と引きかえのように失われた。
たき火を囲んで、年長者の話に耳を傾けた夜。小さな火種を強い風から守るために覆った手の内側に感じる暖かな煌めき。囲んで踊った夜の歌と笑い声。
「ステラが、僕が渡した火を海の底に持って帰って来て、ようやくそれを思い出せたんだって。今はそのランタンから火を取りだして、一人ずつ持って暮らしているらしい」
「……それで一冊、物語が書けそうね」
マリラもレイの不思議な体験談のお返しに、施設で子供にせがまれる読み聞かせの本の話をした。ちゃんと子供の注目を集めるような工夫がそこかしこに隠されている。それまで暗い色調のページを捲っていた先の見開きに、赤い炎が幾つもゆらめている絵を想像した。
その炎を与えたのは他でもない、目の前のレイだという事実は、何とも言えない不思議な気持ちにさせる。
「……マリラさんも一緒に入らない?」
話している間に落ち着いたらしく、普段は絶対言わないような冗句を、今度は冗談だとはっきりわかるような口調で飛ばして来た。しっかり温まって今日は早めに休めばとりあえずは大丈夫だろう。マリラも浴槽の近くに持って来た椅子に座ったまま、自分のカップに口をつけた。
「いけませんよ、お坊ちゃん。そういう事はきちんと結婚してからになさいませ」
「……わかったごめん、今度もっと雰囲気が盛り上がっている時に仕切り直すから」
マリラはお菓子を齧るのを思わず止めて、レイの様子を窺った。至近距離で濡れた髪をしている、まだ少しぼんやりしている相手をまじまじと見つめてしまう。
そんなやり取りを経てマリラはようやく、彼にお客が来ている事を思い出した。
「そう言えばお坊ちゃんにお客様がいらっしゃっているんだった。街の宿にいるから連絡が欲しいんだって。庭師のアスティンさん」
「……アスティンさんが? そんな事ある?」
マリラは観光案内所にやって来た、アスティンと名乗る人物の事をレイに説明した。
「仕事を引退した今だから、思い切ってこっちに夫婦で旅行の計画を立てたんですって。庭師のアスティンさんと奥さんのエリンさんが、本当は娘さんとその旦那さんも来たがっていたけど、諸事情で今回はお二人」
諸事情というのはアスティンの娘さんが二人目の子供を身籠っているとか、そんな感じの経緯である。マリラが観光案内所で聞き出した話に、レイはしばらく無言のままでいた。
「私があなたと知り合いだって知ってすごく喜んでいたから、会いに来たかったんでしょう」
どんな関係かを尋ねると、子供の頃に向こうもレイの事を気に入ってなのか、よく話をしたらしい。レイは肺の病気、アスティンも奥方が療養のために移って来た余所者で、意気投合して構ってもらったらしい。
マリラには使用人と主人の間の距離については詳しくない。けれどレイの口ぶりや観光案内所での事を思い出すと、齢の離れた友達みたいなものだったのかもしれない。
「海を渡るとそこそこ費用もばかにならないし、……庭師の組合の補助とかあるのかな」
「じゃあ、余計に会うのが楽しみになったでしょう?」
わざわざ来てくれたのだから、話したい事がたくさんあるのだろう。アスティンから教えてもらった宿泊先を教えた。これで話は終わり、かと思いきやレイはマリラを改めて、向こうに紹介したいと言い出した。
「一緒に来て欲しいんだ、いいかな? アスティンにはちゃんと会わせておきたい。これから長い時間を一緒に生きていく、つまり要するに、結婚する相手として」
マリラは無言で頷くのが精一杯だった。緊張している、なんて笑うので、当たり前だと平静を装った返事をしておいた。




