⑮『番犬』
相談したい事と、聞きたい事がある。マリラが深刻そうな顔でグレイセルに打ち明けてきたのは、ちょうど彼女が教会から引き受けた代筆の仕事で使いたい、と頼んで来た封蝋の道具一式を渡した時だった。
彼女が少し前から元気がなかったのは確かである。こちらから話をしてみるべきかと、ちょうど思案していたので、比較的冷静に話の先を促す事ができた。
妙にしつこく声を掛けて来る、グレイセルと同郷の若い男が数人いる。今まで酒場で働いている頃からも、異性から外で会わないかと誘われる事は何度かあったけれど、ちゃんと断るようにしてきたつもりである。マリラはこちらの顔色を気にしながら、重い口を開いた。
そのうちの一人が、グレイセルの事を知っていると言い出した。海の向こうの国で何をしたのか彼は隠しているが、自分は知っている。それはもしこちらで公になれば大いに仕事に支障の出る話だと言った。
「二人きりで会うならもっと詳しく教えるって言われて。もし私が行かなかったら、……今、レイは段々仕事の依頼が増えてきていて、それを面白く思っていない人に話すかもしれないって」
マリラが挙げた名前のうち、家名は少なくとも隣国で耳にした事はあったが、グレイセルは本人の顔と名前を知らない。何かの理由で敵対するような立場でもなく、マリラを脅迫する理由は思い当たらなかった。
「私の話、信じてくれる?」
「もちろん信じるよ。僕も何も気が付かなくって、本当にごめん。すごく怖かったよね」
グレイセルはすぐに返事をして、それから一人で悩ませてしまった事を謝罪した。マリラはそれを聞いて、どこか安堵したように長く息を吐く。慌ててお茶を淹れて、お菓子を食べさせて落ち着かせた。
「勉強を教えて欲しいってお願いしたのも。恋人にして欲しいって先にお願いしたのも私だったから。そんなつもりで対応したわけじゃないって、レイさんから見たら信じてもらえないかもしれないって」
「……なるほどね」
グレイセルは試しにおいで、と彼女を呼んでみた。マリラは数秒躊躇った後で、座ったまま身体をこちらに寄せた。そっと抱き締めながら、自分も彼女に訊ねた。
「僕の方も、子供の頃は本当に病気だったんだけど、今は特に生活に支障がなくて。それを証明できる物は今、この場には何もないけど」
グレイセルが長男でありながら家を継がなかった理由は幼少期の病状だったが、理由を挙げても信じてくれない人がたくさんいた。当時を知っている人に会ったとしても、事前に打ち合わせしたのだろう、と難癖はいくらでもつけられる。
「それでも、マリラさんは僕の事を信じてくれる?」
マリラは小さく、けれど何度も頷いてくれた。グレイセルにはそれで十分過ぎる程だった。
こちらへ渡って来ている同郷の人間は、真面目に見聞を広めるために来ている層が大半である。しかし中には、本国で揉め事を起こしてほとぼりが冷めるまで滞在したり、家の監視の目を逃れて好き勝手に振る舞う、迷惑な連中がいる事を知っていた。
「これが僕の、こちらでの身分証明書。保証人として名前を書いてくれたのが、友達の父親に当たる人で、子供の頃にお世話になった先代の子爵なんだ」
グレイセルはマリラに、管理局で発行している正式な手帳を開いて見せた。
「この人から名前を借りた以上、恥をかかせるような真似だけはできない。だから僕が自分で調べる必要がある」
クロードの父が療養している保養地では、海の向こうでの旅行を終えて王都に戻る前に立ち寄る人も多くいる。噂話が耳に入る可能性がないとは言い切れない。
愛称がジリーで、苗字はハーディ。マリラの勤めている商会にたまに顔を出すという相手の事を、早急に知る必要があった。
「あれ、先生。今日は来るのが早すぎませんか」
グレイセルはマリラの仕事を休ませて、朝一番に隣国語の家庭教師を務めている子供のお屋敷を尋ねた。ちょうど今年で十六歳の生徒、ザックス少年が庭に出て来て、可愛がっているオウムと飼い犬に日光浴をさせているところに出くわした。
本当に申し訳ないが急用ができたので、今日の授業は延期にして欲しい。その旨を書きつけた手紙を渡して、両親に伝えるようにお願いした。
「ザックス、良い子だから僕のために、とっておきの悪戯をたくさん準備して待っててくれよ」
「……グレイセル先生も人が悪いな、それは子供の頃の話じゃありませんか」
悪戯なんて歳じゃない、と生徒は飼い犬を撫でてやりながら口を尖らせている。ほんの二、三年前の話をまるで幼少期の思い出話として懐かしむのはどうかと思いつつも、急いで別の場所へ向かった。
次に、マリラと一緒に顔を出している施設の責任者である老婦人を訪ね、グレイセルのあらぬ話を広め、その件でマリラに必要以上に接触しようとしている人間がいる事を話した。
「私は存じ上げませんけれど、……先生も名前が売れ始めたって事じゃありませんか? 未婚の娘さんに、恋人でもないのに馴れ馴れしくするのは感心しませんけど」
それを今から調べますので、とグレイセルは頭を下げた。もしもの場合はこの街で根強い影響力のある、貴女の名前を出して話をする許可を求めた。
構いませんよ、と彼女は愛想の良い声で返事をした。ただし自らの名前や懐が何らかの形で潤うならば、といつもと同じ返事だった。要するに何の成果も得られなくても、グレイセルが自腹で施設に寄進して下さいね、という話である。
やれやれ、と次に向かったのはマリラの働いている商会である。本人の体調が優れなくて、今日は仕事を休ませたい、それから妙な事を触れ回っている人間がここに出入りしている事を伝えた。
対応してくれたのは、跡継ぎ娘でマリラの友人でもあるカトレアだった。彼女はマリラが脅迫まがいの目に遭った事にショックを受けつつも、商会に顔を出す隣国人の情報を快く提供してくれた。何かわかったらまた来ます、とグレイセルは商会を足早に後にした。
そこからが大変で、カトレアの教えてくれた人間を、この街では影響力のある老婦人の名前をちらつかせながら聞き回った。マリラの名前は出さず、あくまでグレイセルの不名誉な情報を触れ回っている件の方だ。
最初の何人かは怪訝な表情だったが、ようやく明らかに視線を泳がせる人物に行き当たった。カトレアの教えてくれた名前と照らし合わせながら詰問してようやく、口を割らせる事に成功したのである。
「……その真相がまさか、仲間内で『商会の可愛い女の子を誰が落とせるか』の賭けに熱くなった結果の話だとしたら、到底許せるものではないが」
裏付けが取れたところで、グレイセルはハーディというマリラを脅迫した男を呼び出した。つまりマリラがなかなか応じないところに、グレイセルの話を持ち出して揺さぶりを掛けたつもりだったらしい。
最初は知らないと言い張ったので、さっきの友人を呼び出して証言させる事を提案した。すると彼女に両親つまり保護者がいない事、容姿が良い事、この街の貧しい区域出身を理由に目をつけた、と馬鹿正直に吐いた。
仮にどこかに被害を訴えたとしても女性側の過剰反応で押し通し、更に海の向こうで貴族階級にある事を強調すれば、有耶無耶に誤魔化してしまうのは難しくない。
「……それで、他に言う事は?」
本当に申し訳ありませんでした、という謝罪を受けて、グレイセルは彼がしでかした事の詳細と、マリラと顔を出している商会に二度と近づかないという念書に名前を書かせた。今は判を持っていないと言うので、仕方なく店主によく切れる小刀を借りて押させた。
「君のご両親と、婚約者の家の連絡は押さえているから」
こんな奴が身内にいる事に対して大いに同情しながら、グレイセルは更に言葉を続けた。
「それでこちらに対しての迷惑料として、……お金はいくらある?」
今すぐ管理局から下ろせる分を含めて、と聞くと顔を引き攣らせながらそこそこの金額を返答した。故郷の両親から定期的に送金されている、半年分まとめての生活費だと声を震わせているが、こちらの知った事ではなかった。
グレイセルは言葉通り、彼を管理局に連れて行って、自己申告よりずっと多い金額を引き出させた。これで実家からの、金の使い道の調査は免れない。理由を正直に話しても誤魔化しても、そのまま国へ半ば強制的に帰還させるかもしれない、と他人事のように思った。
「教会への、恵まれない人々への寄付をお願いしています!」
お疲れ様です、と街角で寄付を呼び掛けている教会の職員は、雑踏の中に見知った顔であるグレイセルを見つけて顔を輝かせる。今日は少なくて、と困っている様子なので、財布から紙幣を出して寄進した。
「さあどうぞ、世の中のために遠慮なく」
憔悴しきった様子のハーディに、ぱんぱんに詰まった財布の中身を全て募金箱に入れさせた。もうこれ以上は、と懇願するのを軽く流して、グレイセルは彼に尋ねた。
「君にマリラの余計な情報を漏らしたのが一体誰なのか、はっきり教えてもらわないと」
ハーディは解放して、グレイセルは商会に戻ってカトレアに全ての経緯を説明した。マリラの身の上の事情を漏らしたのは、同じ職場で働いている女性の一人だと判明した事を伝えると、流石に顔を青くしている。
「その人を雇ったのは叔母で」
そうでしたか、とグレイセルは淡々と返事をした。カトレアはしばらく押し黙っていたが、やがて毅然とした表情で顔を上げた。
「相応の、グレイセル先生とマリラさんが納得してもらえる対処は約束します。だから今回の件は、私に任せては頂けませんか」
自分が頼りない事で何が貶められるかようやく悟った、とカトレアは言った。跡継ぎ娘としては大人しい気性だと以前から思っていたが、今は少し印象が変わって見える。
「……わかりました」
追って報告します、という宣言を受けて、ようやくグレイセルの仕事は一段落ついたのだった。
「へええ、じゃあカトレアがマリラと一緒に働いているって事?」
マリラ達は代筆の仕事を終わって、今は施設内で休憩している。商会のお嬢様のカトレアは先日、現場を知る事から始める、と宣言して商会に顔を出し、まずはマリラ達の仕事を手伝う事から始めた。
同僚が一人、仕事が遅い事と職務に関する何らかの規約違反で辞めさせられたので、とても助かっているところだった。何しろ跡継ぎ娘がすぐ横でせっせと書類に追われているので、全体の雰囲気も引き締まってマリラは喜んでいる。
「叔母の相手は妹がしてくれてて。来るたびにくっついて二時間喋り続けていたら、ついに音を上げて逃げて行ったの」
妹のブルーベルの過剰なお喋りが初めて役に立った、とカトレアはどこか晴れ晴れとした表情で、セシルに報告しているのが聞こえた。
「郵便屋さんです」
そこにちょうどアビゲイル達が配達、と称して施設の職員を一人一人訪ね歩いてやって来た。ハガキには彼女達が一生懸命書いた感謝の言葉と絵、それから封蝋のスタンプが押してある。出来栄えを、言葉を尽くして褒め称えると、小さな子供達は照れ笑いで応じてくれた。
「あ、先生。こんにちは」
こんにちは、と門柱の向こうにレイが顔を出した。迎えに来たよ、とマリラに手を挙げた。隣国語をはじめとした勉強を教えてくれる眼鏡の先生の登場に、辺りにいた子供達が群がった。
「今日はグレイセル先生に渡したい物があるんですけど」
「うん?」
「その代わりに、魔法を見せて欲しいです」
敷地内に入ったレイが、彼女達に聞こえないであろう小さな声で、発明品ね、と訂正するのが聞こえた。先生の分はこれ、と薄く伸ばした封蝋の表面に、小さな絵と文字を固まる前に刻み付けた物だ。
「それは僕が作ったやつだ。……色んな人に手紙を書くのは楽しかった?」
うん、とアビゲイルは張り切って答え、それから期待を込めた眼差しでレイを見上げている。
「よし、じゃあ今日は特別。気分が良いからね」
グレイセルは懐に入れっぱなしになっている、子供の前で発明品を披露する時には欠かせない木の棒を取り出した。これは本当に木の棒らしいけれど、磨き上げられた魔法使いの杖のようにも見える。
「マリラさんの右手に注目」
「え、私?」
急に話を振られたマリラは戸惑ったが、レイは右手を前に出すように指示を出した。何だろう、と訝しがりながらも従うと、身につけている以前に彼にもらった革製の腕輪が目についた。
三、二、一。レイの声に呼応するように、発明品が作動し始めた。いつか夜の裏通りでマリラを助けてくれたのと同じ、鮮やかな炎が腕輪から現れた。決して熱くはなかったが、何の心構えもしていなかった子供達は尚更で、大仰な悲鳴が上がった。
更にその場に唐突に、大きな毛足の長い犬が一頭、炎を纏って登場したため周囲は更に唖然とした。偶然居合わせてのんびり見物していた大人も、驚いた表情を隠しきれない。
マリラがレイからもらった腕輪は、そのまま犬の首輪としておさまっている。大きな犬は何食わぬ顔でマリラのスカートの匂いをふんふんと嗅ぎ回り、そのまま足元にお尻をつけて座っている。どこからどう見ても、生きている本物にしか見えなかった。
「レイさん、いつから動物まで出せるようになったの?」
「コツを掴んだのは最近だよ」
何のために作ったのかと聞いてみると、有事の際に代わりに戦ってもらうため、だそうだ。
「もしかして、私が危ない目に遭ったりしないように?」
「もちろんその通り。いつも助けてあげられるとも限らないから」
マリラが感激している横で、居合わせた子供達はしばらくの間、信じられないとばかりに炎の中から登場した犬を観察していた。流石のセシルやカトレアまで、一緒になって目を丸くしている。一人が先生、と声を上げたのを機に、我先にと開発者に殺到した。
「先生! 僕は竜が欲しい!」
「ウサちゃん! 白と黒のウサちゃん出して!」
これは護身のための道具、とグレイセルは説明した。けれど興奮しきった子供はわあわあ騒いで収集がつかなくなった。犬は我関せずとばかりに寝そべって、子供に撫でられるままに大人しくしていた。
「レイ先生、この作品の名前は?」
「……じゃあ有名な門番の犬にあやかって……と思ったけど『ケルベロス』は流石にナシで」
マリラが後から訊ねると、名前を考えるのは苦手なレイは大まじめに首を捻っていた。