⑭『シーリング・スタンプ』
「さあ、今日は頑張らなきゃ!」
「そうそう!」
何といっても今日は、初めて代筆の仕事という重要な役目を引き受けたのである。集合場所で顔を合わせたマリラとカトレアはお互いを励まし合い、後から来たセシルは目を丸くしている。
「二人共、何かあったの? 妙に気合入っているけど」
「……今日からの私は今までとは違うの。だからしっかり見ててね」
カトレアは拳を握り締めて朝から気合を入れている。セシルは何か言いたそうな視線をマリラに寄越した。
「私もついに、レイさんに今まで教えてもらった事を世の中のために使う日が来たってわけ。ぜひ応援してね」
よくわからないけど、と相変わらず怪訝そうなセシルである。けれど三人の中でのまとめ役として頑張ろう、と空に向かって一緒に声を張り上げた。
「……ええと、それではよろしくお願いしますね」
依頼された代筆の仕事を正式に引き受けたマリラ、セシル、カトレアの三人は、施設内の一室を借りて椅子と机を準備した。三人の顔を見て、何か楽しい事が始まるに違いないと思い込んで集まって来た施設の子供の他、代筆を依頼したいと希望した、同じ年頃の女の子が二人来てくれた。
「はい、じゃあみんな、これが手紙の文面。真似して、書きたい言葉があったらお手本書いてあげるから、何でもどうぞ。ゆっくりでいいからね」
先にセシルが依頼主の女の子達に手紙の内容について聞き取りをしている間に、マリラとカトレアは小さな子達のお手本を用意した。できるだけ大きな文字でいつもお世話になっています、いつまでも身体を大切にして下さい、などと書いた紙を、次々と壁に張り付けた。
集まったアビゲイル達、子供が書く手紙の宛先は、もらってくれる相手がいる子ばかりではなかったため、一律に孤児院の責任者に設定しておいた。
小さな子供達は壁の文字と手元に配ったハガキの大きさと同じ紙を交互に眺めながら文字を書き写した。余白があってはいけないとばかりに張り切って、用意した色んな色のペンを使って絵や模様で埋めている。
「今日はレイ先生が、みんなに特別な道具を用意してくれました。だから顔を見たら、お礼を言っておいてね」
それが一段落したのを見計らって、マリラはレイに作ってもらった封蝋を取りだして、子供達の注目を集めた。よくある臙脂色の他、お花のように可愛らしい赤や水色、ピンクが揃い、それから金粉や銀粉に似たきらきらが混ぜられている物もあった。子供に受けそうな種類を増やしてくれたようで、ありがたい。
「これは封蝋という道具で、お姫様や王子様がお手紙を書く時に必ず使います」
好きな色をどうぞ、とマリラはお手本代わりに、ハガキの右上に一度押して見せた。マリラが睨んだ通りに好評で、カトレアが家から持ち出して来たアルファベットのスタンプから、好きな物を選んでペタペタ押している。
確かにレイが指摘していた通り、一つずつ蝋を溶かしてやっている時間はなかっただろう。器用な子はリボンの切れ端や押し花を持って来て、紙にレイが作った封蝋で張り付けたりしている。一人が創意工夫を見せつけると、競うように私も私も、と次々と力作が完成していった。
「もう一枚書いてもいい?」
どうぞどうぞ、とマリラは喜んで紙を配った。封蝋も当初の使用目的からは離れかけているが彼女達が楽しそうなので、無粋な指摘は控える事にした。他にも楽しそうな声に釣られて途中参加してきた子供達で、部屋は大変賑やかになって来ていた。
「……嫁いだ姉さんなんですけど、私の親代わりみたいなもので、ずっとわたしに良くしてくれたんです」
マリラとカトレアはセシルと役割を交代し、手紙の代筆を一人ずつ担当する事にした。姉への手紙を希望した彼女の話を聞きながら、下書きに取り掛かった。とにかく伝えたい言葉がたくさんあるらしい。相手の頻繁に横道に逸れる話から、内容の選択をするのはなかなか至難の業だった。
「お、上手く書けたんじゃない? 上手、上手」
「えへへ」
「セシルちゃん、紙をもっと下さい!」
マリラが四苦八苦している横で、子供達はパン屋さんにも大工さんにも先生達にも書かなきゃ、と張り切っている。用意した紙はもう使い切ったのだとセシルが説明したが、もっと書きたいやりたいと騒ぎ始めた。
「あ。待って思いついた。この絵の具みたいなのを薄く伸ばしてさ、固まる前にここに短い文章なら、つんつん穴を開けて文字とか絵が書けるでしょ。それを剥がして、これなら手紙の代わりになるって」
ついにレイの作った封蝋のような物を、本来の用途とは全く違った用法で使い始めたが、マリラはそれを笑うどころではなかった。
手紙の冒頭には欠かせない時候の挨拶を持ち込んだ手引書から選んでもらい、やっぱりさっきの言葉が良いと書き直し、この話題は外せないと書き足しているうちに長くて取り留めのない文面ができ上がってしまった。
一応全て確認のために読み上げると、相手は満足してくれたようだ。レイはいつも先生として生徒の面倒を見ているのかと思うと、非常に頭が下がる思いだった。
「じゃあ、最後にスタンプを……」
「ごめん、もうこれしか残ってない」
だめだった? とセシルに尋ねられると、マリラは苦笑する他なかった。机の上には中身を絞り出され、すっかり空になった容器ばかりになっていた。その向こうで額を突き合わせ、これは誰それの分、と子供達が固まって相談しているのを見る限りは、楽しい作業になった事は間違いなかった。
手紙の依頼に訪れた彼女達は、よくある臙脂色の封蝋で十分だと言ってくれた。全員の分に丁寧に封蝋を施した瞬間、カトレアとセシルと顔を見合わせて、マリラは思わずその場で手を取り合って喜んだ。
午後の三時過ぎ、施設でマリラ達の代筆業が一段落した時から、遡ること数日前。グレイセルは昼間から空いている酒場のカウンター席を陣取って、目当ての相手がやって来るのを静かに待っていた。
相手は指定時刻より少し前、そわそわとした、これから楽しい事が待っていると言わんばかりの浮かれた様子で現れた。入口近くの席に腰を下ろし、店内を見渡している。
マリラはまだ来ていないと思ったのか、注文を取りに行った店員に、片言のこちらの言葉で酒を注文しているのが聞こえた。
容貌からして海の向こうから来ている、グレイセルにとっては同郷の人間に間違いはなかった。彼の使っている苗字と同じ名前の貴族も、確かに隣国には存在している。
ただし顔は知らない相手で、こんな奴にある事ない事をばら撒かれてるかと思うと、腹の立つ話である。
マリラの字を参考にして女の子っぽい筆跡で会いたい旨と時間と場所を指定してしたため、届けたのが今朝の話である。どうやら完全に騙されているらしい。グレイセルが新聞をゆっくり折り畳んでから相手の席に向かうまで、こちらに気が付きもしなかった。
「こんにちは、ジリーさんと呼んでも構いませんか。僕はマリラの代理で、グレイセルという者です」
「……あ」
相手はグレイセルが、勝手に向かいの席に座ったのを怪訝そうな顔で眺めた。名前を出してようやく、こちらの用件を察したらしい。咄嗟に逃げようと立ち上がりかけたのを、グレイセルはテーブルの下で相手の足を思い切り蹴飛ばして妨害した。
「まあ座りなよ。……言いたい事はたくさんあるから」
店側には話を通して多めの報酬を先に支払い、彼がもし逃げ出そうとしたら捕まえて別室で話をする手配をお願いしてある。荒事でなければ、と快く引き受けてくれた店主が、こちらを気にしてくれている姿に軽く手を振った。




