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⑩お茶の時間


朝方、マリラは窓際の割り当てられたベッドで目を擦っていた。そこへ同室の一人が今日の空模様を窺うためだろう、欠伸をしながら近付いて来た。おはようございます、と軽く言葉を交わし合う。


「やだ、今日は雨だね。そっちは休みで羨ましいねえ」

「……はい、ええ、まあ」


 言われて見て見れば、部屋の外はいつもより暗い。試しに窓を開けてみた時に入った来た風からも、雨の気配が感じられた。返事の歯切れが悪いのは、仕事が休みなのは喜ばしいとしても、出かけられないのがとても残念だったせいだ。

 

 マリラは重たい灰色の空を見上げた。そう遠くないうちに雨がやって来るのは間違いない。それは確かだけれど、正確な時間までは掴めなかった。意外と明るいような気もして、午後までは降られずに済むのではないだろうか。しきりに窓の外を確認しながら、いつもならレイの待つ公園のカフェに出かける時間に差し掛かりつつあった。


 服と足元は濡れてしまうだろう。それが原因で体調を崩すかもしれない。空振りに終わって、一人で雨の中を彷徨う事になるかもしれない。



「ちょっと悪いんだけど、代わりに読んでくれる? 故郷から届いたばかりで。急ぎじゃないみたいなんだけど」

「ああ、大丈夫ですよ」


 悩んでいる間に、彼女が差し出した葉書も、どうやら誰かが代筆したらしい。知らない単語は出身地の村の名前だそうだ。途中で出て来た名前は姪で、どうやらその子が結婚をするらしい。


 ありがとう、ありがとうと何度もお礼を言われて、マリラは自分が読み書きができる人間の数に入ったのだとわかった。

 思えば、自分でも驚く程根気よく、マリラはレイのところに通ったのである。これまで雨の日はレイとの勉強会を中止にしていた。濡れながら街の中を歩くのは大変だろうから、とそれは一番最初に取り決めた事であった。


 けれど、もしかしたら。レイは今頃もう公園に向かっているのかもしれない。先ほどからこの思い付きが、頭から少しも離れなかった。

 マリラはついに、手持ちの古い傘を掴んで外へ出た。いつもより少し足早に、石畳の道を進んで行く。空模様のせいか、辿り着いた公園内も人影はまばらだ。

 

「マリラさん? 大丈夫?」

「どうも、ごきげんよう。……なんてね」


 マリラは息を切らしながら顔を上げると、ちょうどレイの見慣れた姿がやって来るところだった。白々しく、上品な淑女がやりそうな挨拶をした。そうやって感情を抑えないと、やっぱり来てくれた、と叫んでいたに違いない。

 彼はいつもの、感情をわかりにくくするあの眼鏡である。レイの手には黒い大きな傘が、持ち手の少し下部分を握って、公園の散歩道の向こうから歩いて来たようだ。


「……せっかく集まっておいてなんだけど、今日は雨が」


 降るかもしれないよ、とどちらともなく言い終える間もなく、まぶたのあたりに雨粒が一つ当たって、地面にも点々と落ちて広がるのが見えた。  


「やっぱり天気は駄目みたいだ。途中も少しぱらぱらっと来たんだけどね。でも、会えてよかった」


 彼は空を見上げて、まるで雨は友人の訪問みたいな言い方をして、彼は傘の留め具を外して、空に向けて広げた。マリラは自分の傘を広げるのではなく、彼の傘の下にさりげなく、上手に潜り込んだ。彼は不思議そうな顔をしたが、自分のを使いなさいとは言わなかった。


「さっき一応広げて見たら、私のは穴が空いていて」

「ああ、よくあるよ。いざという時に限って」


 歩こうか、と彼は気ままな雨の散策に乗り出した。随分大きな傘のようで、二人並んでも窮屈ではない。相手の方がはみ出して濡れているわけでもなさそうなので、マリラはそのまま入っている事にした。

 この生憎な天気のせいで、周囲に人の姿はなかった。せっかくの休日なのに、と人々は屋根の下で嘆いてるに違いない。それとも既に教会の建物に入って、熱心に祈りを捧げている事だろう。


「さっき、同室の人に手紙を読むように頼まれて、ちゃんと最後まで読み解けたの」

「……すごいねえ、素敵だよ。本当に到達するべきはそこなんだ。よく頑張れたね」


 最高の気分だね、と言ってくれたレイの表情はいつもよりどこか子供のように得意げな笑みを浮かべている。

 マリラは称賛の声を聞き、彼が自分の事のように喜んでいるのを見て、それでようやく理解した。心の奥でずっと求めていて、けれどそれが一体何なのか、言葉にするのが難しくて正体が掴めなかったのだ。


「そう、今すごく、最高の気分」


 自分の声も心の中も静かだけれど、喜びに満ちているのがわかる。それでようやく、同じように感じてくれる人がずっと欲しかったのだとわかった。


 こんな時に限って、雨は思ったより強かった。まもなく足元は雨水にひたひたと浸かる。合流できたのと、こうして傘に入っていられるのは幸運だった。公園内を散策している時に見つけた、屋根のある東屋。いつも二人で勉強しているカフェ。雨を凌ぐ場所を次々と思い浮かべようとしたが、頭の中は別の事でいっぱになっている。


「マリラさん?」


 どこへ行こうか、と彼は何気なく提案をした。しかしマリラが返事を一向にしないので、こちらに視線を向けた。どうかしたの、と彼が尋ねた。

 マリラは自分の心臓の音がうるさくて、本当に身体の中でしか鳴っていないのかと心配になるくらいだ。


「私はあなたに会いたくて、外に出たの」


 マリラが口火を切った瞬間、もう雨の音なんて気にならなくなった。大事なのは傘の外には逃がさないという決意である。少なくとも何の成果も得ずに引く気はなかったので、天気はこちらの味方だった。


「あなたの事が好き」

 

 他のどんな秘密を打ち明ける時よりも声はうわずって、ささやくみたいな大きさしかにしかならなかった。もし小さくて聞こえない、なんて言われてもう一度繰り返すだけの余裕はなかったから、マリラは狭い傘の中でもう一歩、彼に詰め寄った。いつも眼鏡の向こうで、彼が不自然に瞬きをしているのが見える。


「ねえもし、海の向こうで、あなたの帰りをずっと待っている人がいるのなら」


そうだとしても、別段不思議だとは思わない。むしろ、海の向こうからやって来る隣国人にはありがちな事情だ。それにレイは優しい人なので尚更である。

 あちらにとっては一時期の滞在で、交際もほんの遊びのつもりだった。そんな男女のもつれた噂話は幾つも知っている。


「……それはないけど」


 彼が努めて平坦な声を出しているらしい、というのはすぐにわかった。裏通りで酔っ払いに絡まれた時は微塵も動揺した様子は見られなかったのに、目は完全に泳いでいる。


「だめなの?」

「だめだよ」

「じゃあ、私に親切にしてくれたのは慈善事業なの?」

「……あのね、教える側が全面的な慈善だと装えないのはだめだよ。どんな形であれ、見返りを要求するのは卑怯だと思わない?」


 言葉を続ける度に、レイの声にはここだけは絶対に曲げないという確固たる決意が増すのが感じられた。マリラはこの方向で攻めるのは旗色が悪いと判断して、それならとまた話題を変えた。自分でも驚くくらいに頭は回転してくれている。


「でもこの間、私達はちょうどこの公園内で特別な事をしたけど、レイさん嫌がってはなかったよね?」


 うぐ、とレイが露骨に顔を引き攣らせた。マリラより年上で、身体だってちゃんと大きいくせに、打ちのめされたように動揺する時がある。その時に自分は、マリラだけは傍にいてあげたいと思ったのだ。 


「今はどんな気持ち?」

「……僕の古臭い眼鏡を顔を見ればわかると思うけどさ、……言い寄られた事が今まであったと思う? 気の利いた返事なんて悪いけど返せないよ」

「でも、私には世界で一番素敵に見える。その魔法を先に掛けたのはレイさん」


 この雨足で、傘を彼が握っていなかったら、彼は数歩後退しただろう。こちらも言い寄った事がないので加減がわからない。おそらく他のどの分野で勝負してもマリラはレイに敵わないが、幸運にも今、こちらが有利である事だけはわかる。


「私を、あなたの恋人にしてくれませんか」

「いやだからね、人生を左右しかねない大切な事はもっと相手の将来性とか、家同士の繋がりとか、一人で決めるのはだめなんだってば。……たとえ好きだとしても、時と場合で伝えられない事はあるんだよ」


 彼はその言葉を、今のマリラには到底理解し難い理屈を至極真面目に説いた。何だそれは、と茶化してしまうには彼の声も表情も切実だった。

 マリラが子供の頃に一人で泣いていたように、この人もまだ癒えていない傷をたくさん抱えて、この異国で暮らしているのだ。


「……気持ちはどうでもいいの?」

「できるだけ排除するべきだね」

「じゃあ、レイさんが私の事をどう思っているか、排除しても良いから聞かせて? 判断に不要などうでもいい要素なら、別に口に出したってかまわないでしょう」


 う、とか何とか呻く相手に優しく詰め寄った。雨の中に逃げるかマリラを追い出すか、どちらかを選ぶためには、彼はマリラと長い時間を過ごしてしまった。そもそもが、相手が濡れ鼠になっていないか心配で出てきてしまうくらいだから、もう勝負は最初からついていたようなものだ。


「他に何も考えなくて良いだなんて、それはちょっと……」


 彼を守る最後の砦はこの眼鏡くらいだが、ここまで接近すれば、思い切り動揺しているのは火を見るよりも明らかだった。


「あなたが好き。レイさんのために何回でも言ってあげるから」

「ああもう、わかった最初から僕の負けだよ。……会えない日は、寂しくてつまらない」

「それはつまり?」

「……マリラさんの事が好きだよ。多分僕の方が好きだと思う」


 そうなの、とマリラは返事に満足したので、そのまま傘の中に留まる事にした。今この瞬間から、それは自分の正統な権利である役割にもなった。


「……誰か一人くらい、『あんな胡散臭い隣国人に近付くのは止しなさい』と忠告してくれる親切な大人はいなかった?」


 レイはぶつくさと雨に向かって文句を言った。いなかったよ、とマリラは鸚鵡返しに返事をした。それから堂々と、彼がエスコートに貸してくれた腕に身を任せた。






「門限とかないの、大丈夫?」

「門限は八時」

「……随分と厳しいね」


 ここから、どちらの居住地が近いだろうかと検討した結果、レイの住処の方だとわかったので、そのまま歩き出した。もうすぐ住む場所も仕事も変わるけれど、その辺りの条件は今までほとんど一緒だ。



「私は星明かりだと思っているのだけど、レイさんが今のところ、一番美しいと思っているものは何?」


 マリラは恋人らしく、他愛のない話をレイにせがんだ。そうだなあ、とレイはくっついてあるくマリラに苦笑しながら、考えを巡らせている。


「待って、当ててみたい。……えっとね、きっと炎でしょう」

「……よくわかったね。ランタンの中とか暖炉とか、赤々と燃えるのを意味もなく見つめている子供だったよ、昔」


 やっぱりね、と二人は公園内の、海を見つめる人魚の像のところに差し掛かった。雨に濡れているのところを見るのは初めてで、マリラの心を映すように嬉しそうにも見えた。






 街の郊外、海沿いに少し歩くと静かな入り江がある。雨は降っても海は静かで、けれど他の何にも代えがたい存在感がある。


「レイさんは毎日、海を見て暮らしているのね」

「そう。一日の始まりに波の音を聞くのは、なかなか素敵な事だ」


 レイは腕を伸ばして、雨に濡れた鋳鉄の門を開いた。周囲を見回した限り、あまり庭に手は入れていないようで、花壇にはむき出しの土があるだけだ。敷地内に放置されている木枠は、薔薇か何かを這わせる用途として設置されているのだろう。しかし今は骨組みだけで放置されてしまっている。


 他人の生活している家、というのを訪れた経験がほとんどなかったので、どうしても緊張してしまう。その相手が彼だとすれば尚更で、ひんやり冷たい空気はしかし、外と違って少し乾いている。


「傘の中にはちゃっかり入って来たのに」

「傘立てがないからどうしようかと思っていただけ」


 マリラはとぼけて、使わないままの雨傘をノブに引っかけた。


「だって魔法使いさんの秘密の研究所みたいな場所でしょう?」

「……その手の物は奥の部屋にまとめてあるから」


 つまり、いくら恋人であろうともそこに無断で立ち入ってはいけないわけだ。マリラがあちこちに視線を走らせても、埃や蜘蛛の巣は見当たらない。掃除がちゃんと行われているらしい。


「一人で暮らしている割にはまあまあ綺麗だと思わない? 煮詰まると、掃除くらいしか気分転換のしようがなくてね」

「お掃除が好きなのね」


 発明家なのか魔法使いなのか、どちらにせよ溢れんばかりの色々な物に囲まれていそうだったけれど、思ったより生活感の薄い空間のように思えた。

 もし、そういう時に居合わせたら一緒に掃除に取り掛かろう、とマリラは楽しい想像をしてみた。


「この家を格安で貸してくれる条件の一つに、あの孤児院でたまに勉強を教える他に、速やかに退去するというのがあってね。あまり物を増やしたくない」


 いつか壊して新しい建物を造る予定があるらしい。通された部屋で、彼はそんな事を言いながらお茶の缶を開けた。お茶の葉がすごくいい匂いがするよ、なんて教えてくれたので、淹れる分とは別に手の平に少しもらって香りを楽しんだ。


「友達がわざわざ送って来てくれた物だから、味は保障するよ。ただし、上手に淹れる事ができたら、だけど」

「貸して。きっと美味しい楽しみ方が書いてあると思う」

 

 今こそ日頃の勉強の成果を見せる時、とマリラは意気込んで隣国語の解読を始めた。ティースプーンで茶葉を二掬い、の文言と沸騰させたお湯で煮出す時間は間違えなかった。


「まあ少しくらい濃くっても、お茶は薄めて調整するものらしいから」


 寒くないのはありがたい、と彼は大きな窓を少し開けた。しとしととまだ雨の音がする。彼はカップとお皿を綺麗に持って呑み始めたので、マリラも横に座って真似をした。


「あの酒場はあとどのくらい通うんだっけ?」

「あと、二週間くらいかな」


 帰りは遅いから迎えに行く、とレイはお茶の合間に言った。一人で先に出歩かないでね、と続ける。マリラはまじまじと相手の顔を見つめてしまった。


「恋人みたい」

「もう恋人なんだよ」


 自分が言い出したのに、とどこか恨めし気な視線を感じる。マリラはすごく嬉しい、と新しい関係の新鮮な気持ちを紅茶と一緒に味わった。 

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