①旅立ち
拝啓 クロード様
君が家を継ぐ事になったのだと、風の噂で耳にしました。これからは今までのように、気安く遊びに行くのも憚られるやもしれません。今後は夜会等で顔を合わせた時、ちゃんと貴殿が声を掛けてくれた後に子爵殿、と礼儀正しく返事をしようと思います。嫌がる顔が目に浮かぶようですね。
顔を出してのお祝いはできませんでしたが、君のお父上殿への見舞いはできました。しばらく温泉に浸かって、治療に専念するとおっしゃっていました。早く良くなる事を願いつつ、長く領地を支えて来たでしょうから、この機会にできるだけゆっくりして欲しいところです。
それから庭師のアスティンさんに、娘さんのご結婚おめでとうございます、と伝言をお願いします。あの人がいつも自慢話をしていた可愛い一人娘の晴れ姿で、アスティンさんもさぞかし幸せな事でしょう。
僕の方は体調も、問題なく過ごせています。子供の頃の僕に、大人になったら病は緩解するんだと教えたらきっと信じないでしょうね。
これからしばらく、一人で隣国へ向かう事にしました。予定していたような単なる旅行ではなく、あちらでしばらく生活する予定です。どれくらいの期間になるのかはわかりませんが、なるべく向こうで一旗揚げた、と言えるような成果を得るまでという事にしておきます。
僕は君と子供の頃、隣国で美しい風景、優れた芸術文化や音楽を見て回る約束をした事を、とても楽しみにしていました。喘息が一番ひどかった時の、心の支えでもありました。
だから今回、一緒に行きそびれた事は非常に残念でなりません。けれどこれは今はその時ではない、と神様からの遠回しな忠告という事にして、今はお互い、目の前の事に専念するべき時なのでしょう。
しかし何だか、急な予定の変更ばかりがあれこれと続いてしまいましたね。こんなはずじゃなかったのに、と終わらせるのもなんだか癪だとは思いませんか。
というわけで、新しい約束をするべきでしょう。お互い身辺が落ち着いて、君が少しの期間でも領地を留守にする事ができるようになった頃、もし家族が増えていればその人達も一緒に、隣国へ芸術鑑賞のための旅行しようではありませんか。
その頃までには君をあちこち案内できるように、こちらの事を勉強しておくつもりです。
グレイセルより
敬具
拝啓
手紙を受け取りました。子供の頃の約束が果たせなかった事が、本当に残念です。けれど君が新しい約束を提示してくれたので、それを糧に日々、精進したいと思います。
庭師のアスティンにも、君が会いたがっていた事を必ず伝えておきます。口ではさっさと嫁いで欲しいなあ、と笑っていますが、きっと内心は落ち着かないのでしょうね。けれど流石と言うべきか、仕事はきっちりやってくれています。
子爵邸の庭は季節の樹木に花々の香り、そしていつも称賛の言葉に満ちています。
そして父も、君が顔を見せてくれた事を心から喜んでいました。最近は痛みも落ち着いて来て、温泉にゆっくり浸かって、療養仲間ができたのだと嬉しそうに教えてくれました。
田舎の小さな子爵領ですが、やるべき事はたくさんあります。祖父、父と受け継いできたものを次代に渡すだけ、と子供の頃は侮っていました。それがどれだけ大変で、責任を伴う事なのか、今になって重く受け止めているところです。
隣国は活気溢れる華やかな場所ですが、場所によっては治安が相当悪いところもあるようです。決して油断はしないように。財布はいつも肌身離さず、それから大使館の位置を把握して、万が一の場合は駆け込めるようにしておくのが賢明でしょう。
また、君が帰って来てくれる日を、そして旅行に共に行けるいつかの日を、とても楽しみにしています。
人を幸せにする魔法使い殿
敬具
「……魔法使い、だってさ」
グレイセルは汽船の甲板の隅で、友人からの手紙に目を通しながら、独り言を呟いた。ちょうど船の一番大きなマストが影を作って、綴られた几帳面な文字を読む手助けをしてくれている。にも拘らず、潮風は絶え間なく便箋をはためかせて、目を通す邪魔を止める気配はなさそうだった。
後でゆっくり読む事にして、友人からの手紙は綺麗に折り畳んで封筒に戻し、懐にしまった。綺麗に割れた臙脂色の封蝋には、クロードが継いだ子爵家の紋章が、どこか誇らしげに刻まれていた。
今年の社交シーズンも終わり、貴族階級の多くの人々は自分の領地に戻るか、南の暖かい場所で冬の寒さをやり過ごす季節である。一部は更に海を渡り、隣国へ足を伸ばす人もいた。
そこは周辺国の中では観光地であり、豊かに進んだ国の一つだった。裕福な階級の間では、優れた芸術文化を学びに行く場所としても推奨されている。社交界での話題についていくためにも、あちらで過ごして得られる知識や経験は必須とされていた。
グレイセルが船の上から接岸している港へ目を向けると、荷物を手にして旅立つ人と見送る側が入り混じって非常に賑わっていた。旅装姿の親子連れや年配の夫婦、まだ若い青年の一団、と顔ぶれは様々だ。まだ甲板までは誰も上がって来ていないが、それも出港までの時間の問題だろう。しばらくは三等客室に押し込まれて過ごす事がわかりきっている。だから自分が別れを惜しむ相手は、誰にも気兼ねする事のない空間だった。
そこへ、まだ小さな子供が甲板にやって来た。汽船という場所が珍しいのか、あちこちをきょろきょろ見回している。こちらと目が合うと、彼はどんぐりみたいな丸い目をますます大きくして、無邪気な声を上げた。
「変なメガネ!」
「……出港前からもう迷子とは、随分と気が早いね。おそれいったよ」
見たところ、大人の目を離れてあちこち好き勝手できる年齢ではないので、きっと保護者の目を盗んでやって来たのだろう。
グレイセルはもっと良い眼鏡の店を紹介するよ、なんて皮肉は既に百回は聞いているので、今更幼い子供に指摘されたところで何の感情も湧いては来ない。分厚いレンズの時代遅れのデザイン、しかしこれがないと本当にほとんど何も見えないので、必需品になって久しかった。
更に暗くても見えるように、と機能性を求めて自分で色々といじったせいか、他の眼鏡だとどうにも居心地が悪いのである。
「隣国は美しいけど怖いところだからね、君みたいな子供が一人でふらふらしているのは危ないよ。早く、お母さんの所へ帰った方が良いんじゃない?」
お母さん、とわざとらしく強調しながら忠告すると、彼は明らかにむっとした様子で、自分は決して迷子なんかになっていない、と言った。船の中を隈なく見て回る冒険の途中だと反論したが、何となく口調はしどろもどろである。
「そう、それは失礼。では勇気ある者に、こちらも偉大なる魔法の力をお見せするとしようかな」
グレイセルは上着の内ポケットから、優雅な所作で小道具の一つを取りだした。高級家具のような光沢を持つ短い木製の杖を、あたかも使い慣れているかのように引き抜いた。大人から見たら子供の玩具に過ぎないが、夢見る子供には、まるで本物の魔法使いが現れたように見える、かもしれない。意識して声音と振る舞いを切り替えた所作に子供はあっさり乗せられて、吸い寄せられるように目を瞠っている。
「……お坊ちゃん、この悪坊主! 大人しくする約束でしょう!」
しかし驚かす前に、彼の母親にしては少し齢を重ねた女性が、甲板の入り口から子供を呼んだ。きっと、乳母か何かだろう。女性の服装と子供の身なりを比べても、それが妥当な判断に思われた。
子供はびくっと身を震わせて、慌てふためいて女性の元へと駆け出した。すみません、と言いたげな彼女の視線に軽く会釈をして、グレイセルは二人を見送った。
さて、とせっかく出した小道具をすごすごとしまって、再び港や海をぼんやりと眺める作業に戻ると、今度は遠慮がちに背後から声を掛けられた。船員の制服をまだ着慣れていない、初々しさの残る少年である。
「えっと、グレイセルさんでいらっしゃいますかね?」
「はあ、そうですが」
「お知り合いだとおっしゃる、身なりの良いお兄さんが下に来ていますけど。お話をしたいとかで」
きらきらした金髪の、と説明されれば、心当たりは一人しかいない。こんなところまで、グレイセルのために来てくれるとなれば尚更である。まさか、とは思いながらも、他の乗客達が出発のためにと乗り込み始めた流れに逆らった。
船と港を繋ぐ舷梯の先で待っていたのはやはり、友人のクロードだった。彼はいかにも上流階級らしい冷ややかな眼差しでこちらを出迎えて、軽く片手を上げる挨拶を交す。
彼は既に子爵の身分を得ていた。一般的な貴族青年が家を継ぐ時期としては、かなり早い部類ではある。あちこちに挨拶回りで忙しくしているという話だったので、この国を発つ前に、顔を見られるとは思っていなかった。
「えっと、久しぶり。……でもてっきり王都にいると思っていたよ、クロード」
「都合がついたから戻った」
「まさか、わざわざ見送りに?」
「そう」
何かのついで、と言ってくれた方が幾分気が楽なのに、実に正直な男である。この港は子爵邸から近いとは言え、往復に半日は消費する。他の予定を消化するのは難しいだろう。
「それで、一人で隣国へ行って、その何だかよくわからない技術だか魔法だかを売り込んで来るわけだ?」
「まあ、それで生活できたら楽だけどね」
海の向こうは、駆け出しの芸術家や音楽家への投資や支援が盛んである。上手くやれば家を継がない貴族の子弟でも、才能を認められ収入を得る算段をつけられる可能性も転がっている。
「そんな思い付きみたいな適当な手段で、向こうで安全な生活が可能なのか?」
「当面の生活費の話? それならまあ、何とかするさ」
こちらの返答を聞いた彼は、まるで胡散臭い儲け話を吹き込まれたかのように眉間にしわを寄せた。建国からずっとある由緒正しき家を順当に継いだ青年には、金銭的に体面的にも、妥当として求める基準は違うのだろう。
「……まあいい。君なら上手く売り込むだろう。私みたいな頭の固い人間と違ってな」
無理して再発させるなよ、と彼は短く言った。グレイセルは子供の頃、子爵邸に肺の病の療養と称して預けられていたので、どうやら心配してくれているらしい。
グレイセルは、クロードがやけにあっさりと引いたので、表情に出さないように気をつけつつも、正直拍子抜けだった。
彼は基本的に頑固なので、自分が正しいと思っている意見を曲げた事は今までない。チェスでこちらにどれだけ負け越そうとも、いつか差を埋めて勝敗を五分に戻せるはずだと純粋に信じている、ちょっと可愛いところもある。
「……否定しろ」
「ああごめん。クロードは僕が知っている中では一番柔軟な考え方ができる人間だよ」
グレイセルの台詞はお気に召さなかったらしい。さっさと行け、とばかりに追い払うような仕草は、もう出港します、と船員達がグレイセルの後ろからやって来たためだろう。
「いつまで向こうで過ごすつもりなのか知らないが、約束を忘れるなよ。今回、私は忙しくて都合がつけられなかっただけだ」
本当は行きたかった、と彼の切実そうな声が、船員達が渡しを外し、作業の間違いがないかを確認する大声にかき消されそうだったけれど、確かに聞こえた。こちらは汽船の中に、彼は港に残った。
「ああ、……ありがとう、わざわざ」
ちょっとした小旅行、というわけではない。どちらかの身に万が一の事態があれば、もう二度と顔を見る事も声を聞く事も叶わないのだ。
それを彼はわかっていたから、いつもの軽い言い争いに発展する流れを嫌がったというわけだ。それがわかってしまうと、クロードは貴族の当主として振る舞う一方、自分は時間の流れに置いて行かれてしまうような居心地の悪さを覚えた。
そう思うとひどく落ち着かない気分になって、汽笛を鳴らしてゆっくりと動き出した船の中、客室へ戻る足は方向を変えて、船内の階段を足早に上がる。
船の甲板へ戻って港を見下ろすと、見送る人々は所定の位置に誘導されているらしく、一塊になってこちらに手を振っていた。自分の友人がどこにいるのか、目を凝らしてもわからなくなってしまっている。
行ってらっしゃい、さようなら、元気でいて。それから絶え間なく呼ばれる誰かの名前は海風に混じり合って、少し寂しい響きの歓声になって船を追いかける。
行ってきます、また会おう、どうか無事で。かき消されるのはわかっていても、声を張り上げた。グレイセルも他の乗客達に混じって港へ、少しずつ離れる陸地へ視線を走らせた。わざわざ見送りに来てくれた友人の姿を探して、届くわけもないのに手を伸ばし続けた。
これがグレイセルの、旅の始まりである。