第7話
落ち着かない。
ベッドに仰向けで寝転んだまま、わたしは大きく息を吐いた。ぞわぞわするというか、ありとあらゆる内蔵の収まりが悪いような心地がする。ぐるりと半回転して、顔を枕に押しつける。わたしの情けないうめき声が、白い布に吸い込まれていった。
時刻は八時五十五分。ノア先輩との約束の時間まで、あと五分を切っていた。ノア先輩はいつも時間ぴったりに来る人だから、猶予はもうあまりない。とはいえ、外出の準備は全て終わっている。にもかかわらず、進む時計の針を恨みがましく見つめてしまうのは。
「緊張する……」
昨日の夜から、ずっとこの調子だ。流石に総稽古の最中はきちんと切り替えたけれど(わたしだって歴とした演目者だ)、それ以外の時間はずっと悶々としていた。行き先も目的も内緒の誘い。加えて、ノア先輩の真剣な表情。一体なんのお話だろう。まさか解雇通知だったりして? いや、まさか。解雇されるような問題行動をしたことはないし、今日の歌だって上々の評判だった。
こんこん、と軽いノックの音で、わたしは目を開いた。来た。どんな話をされるのだとしても、どうせもう逃げられないのだ。覚悟を決め、ベッドから勢いよく起き上がる。適当に髪を整え、部屋の扉をそっと開けた。でも誰もいない。
「あれ?」
聞き間違いだろうかと首を傾げたところで、再びノックの音が聞こえた。ただし、背後から。音自体も、木製の扉を叩いたそれとは違う。具体的に言うと、ガラスを叩いた音。まさかね、フルーリアさんじゃあるまいし。恐る恐る振り返ると、華奢な少年の手が窓ガラスを控えめに叩いていた。
「ノア先輩……?」
窓をゆっくり押し開ける。途端に赤い髪がひょこりと現れて、にっこりと私に笑いかけてきた。左手に持ったカンテラが、赤い瞳をひらひらと輝かせている。
「お待たせ、準備できてる?」
「できてます、けど」
「よし、じゃあおいで」
先輩が右手を差し出してくる。窓からやって来た時点で、まさかとは思っていたけれど。
「窓から出るんですか!?」
「うん。正規の出口から出るのは面倒じゃん。こっちの方が早く済むし」
なんてことないようにノア先輩がそう言う。早く済むし、ではない。窓は換気や採光のためのもので、出入りのためのものではないと記憶しているのだけど、もしかして違ったのかしら。脳内でちょっとした現実逃避をしながら、わたしは緩く首を横に振った。
「でも、お行儀が悪いですし……」
「いいじゃん。誰も見てないし、誰のことも困らせないし。ヨルはいつも礼儀正しくて完璧な淑女だから、今夜くらいちょっぴり悪い子になっても大丈夫だよ」
ほら早く、とノア先輩が右手を差し出してくる。普通に扉から出たいけれど、わたし一人じゃ寮の玄関までたどり着けない。まさか今からわたしの部屋まで来いと先輩に言えるはずもない。数秒の逡巡の後、わたしは窓枠に手を掛けた。
「ああ……」
ブーツ越しに、土を踏む感触が伝わってきた。夜風がわたしの頬を撫で、髪を通り抜けていく。やった。やってしまった。窓から飛び出すなんて、十七年生きてきて始めてやった。音楽学校の教師が「はしたない!」と叫んでいる幻聴が聞こえる。学生の頃なら、反省室で半日は正座だ。ごめんなさい先生。主犯はわたしじゃないので慈悲をください。
「夜に窓から抜け出すって、なんだかワクワクしちゃうよね」
「すみません、同意しかねます」
落ち着かないわたしとは対照的に、ノア先輩はとても楽しそうだった。ふんふん鼻歌を歌いながら、先輩がわたしの部屋の窓を閉める。それから彼が窓枠を何回か叩くと、驚くべきことに内鍵が閉まった。どういう技術だ、それ。
「ちょっとしたコツがあるんだ」
「ありがとうございます……うう、誰かに見られてたらどうしよう……」
「誰も見てないから大丈夫だってば。ヨルは心配性だなあ」
俯くわたしの背を叩いて、ノア先輩がきゃらきゃらと無邪気に笑う。今夜の先輩は、いつにもまして陽気だった。よく笑うし、声の調子も跳ねっぱなしだ。お酒でも飲んできたのかしら。でも、呼吸から酒気は感じなかった。顔色を確認しようとノア先輩の方を向くと、なぜか彼はニヤリと口角を上げた。
「俺がいないときには窓から出入りしちゃダメだよ。魔法の仕組みがわかってないと、『あるのにない部屋』に入っちゃうからね」
「絶対にしません」
言われなくても、とは口にしなかった。流石に。
彼に連れられてたどり着いたのは、寮の裏手にある庭園だった。たしかにとても綺麗な場所だけれど、わざわざ夜に来る必要はない。不思議に思って尋ねると、ノア先輩は「ここじゃないよ」と首を横に振った。
「準備があるからちょっと待ってね」
そう言って、ノア先輩は庭園の隅にある不思議な機械を弄り始めた。大小様々な歯車がたくさんと、見たことないくらい大きくて丈夫そうなバネが二本。右側からロープが二本出ていて、屋根の上に取り付けられた滑車に掛かっている。どういう仕組みなのか、なんの為の物なのかさっぱりわからない。
「ヨル、ちょっと大人しくしててね」
「はえ?」
ノア先輩はなんだか不穏な言葉を口にすると、どういう訳かわたしのことを肩に担いだ。突然のことに、わたしの口からひどく間抜けな声がこぼれ落ちる。いや、本当にどういうことだ。今日の先輩は、なんだかおかしい。
「え、ちょっと、ノア先輩? どうしたんですか?」
「俺の外套にしっかり捕まっててね。下手に動かなければ大丈夫だから」
「なにが大丈夫なんですか? 動いたらどうなるんですか?」
「安心して、大人しくしててね」
わたしの抗議などお構いなしに、ノア先輩は屋根から下がるロープを引き寄せた。パチン、パチンと金属の留め具を付ける音。無理矢理振り向くと、ロープに付いた金具がノア先輩のベルトに取り付けられている。なんだか嫌な予感がして、わたしは必死に声を上げた。
「何を安心すればいいんですか? なんでわたしは担がれているんですか? あの、先輩?」
「喋ってると舌かんじゃうよ!」
ノア先輩がロープをぎゅっと引くと、歯車が高速で回転し始めた。なんの仕掛けだ。そう思った次の瞬間、ものすごい勢いで地面が遠ざかっていった。耳元でごうごうと風が唸っている。なんだこれ、なに。わたしの頭は大混乱で機能を停止し、喉からは勝手に悲鳴が漏れ出していた。
「ひぃっ!?」
永遠とも思えた飛行の後。一瞬の浮遊感が訪れて、それからわたしの体に重力が戻ってきた。恐る恐る目を開けると、薄墨色の石材が視界に映る。どうやら、ノア先輩は寮の屋根の上に着地したようだ。
「下ろすよ」
「はい……」
担いだときよりいくぶん丁寧な手つきで、ノア先輩がわたしを肩から下ろす。恐怖の余波で思わずたたらを踏んだけれど、なんとか転ばずに踏みとどまった。心臓がものすごい勢いで暴れている。
「ノア先輩」
「なに?」
「なんですか、これ」
屋根に上るための装置だよ、とノア先輩は事も無げに言った。建物の修理や掃除の時に使うのだという。普通に梯子を取り付けるんじゃ駄目だったのか。いや、そういうことが聞きたいんじゃない。
「こういうことを、するなら、先に、言ってください。いきなりやられると、心臓に悪いです」
「そうだっけ」
ぱちぱちと赤い目が瞬く。不思議そうに小首を傾げて、彼は眉を下げた。
「前に『知らないことは、口で説明されるより実際にやった方がいい』って言ってなかったっけ?」
「そのようなことを申し上げた記憶はございません」
「そうだっけ。でも、そうか。俺の記憶違いかな。八百七十年も生きてると、いろいろごちゃごちゃになっちゃって」
「そうですか……」
「うん。ごめんね、怖かった? もう帰りたい?」
ノア先輩の背中が丸まって、しおしおと萎れていく。ついさっきまでの陽気さが嘘のような落ち込み方に、わたしは狼狽してしまう。この人の方が何百歳も年上のはずなのに、まるで子どもを泣かせてしまったときのような罪悪感がこみ上げてきた。説明もなしに突然十メートル近く打ち上げられたのはわたしの方なんだけどな。少々釈然としない気持ちを抱えつつ、わたしはノア先輩の背に手を当てた。
「次から気をつけてくだされば大丈夫ですから。そんなに落ち込まないでください」
「ごめん。……あのね」
「なんでしょうか」
うん、とノア先輩が歯切れ悪く答える。続きを促しても、先輩はなかなか口を開かない。ややあって、彼は意を決したように顔を上げた。
「実は俺ね、緊張してたんだ。ヨルを迎えに行った時からずっと。ヨルは行くって言ってくれたけど、本当は嫌だったらどうしようとか、俺が先輩だから行くって言ったのかな、とか考えててさ。だから変な態度をとっちゃって……挙げ句に怖がらせちゃうし。本当にごめん」
「……いえ」
変な態度とは、やけに陽気だったりわたしの話を聞き流しがちだったことだろう。あれは緊張していたからなんだ。そうか。この人、緊張すると空回りしてしまうタイプなんだ。
先輩相手にこんなことを言うのは失礼だけど、ちょっと可愛いかもしれない。
「気にしないでください。誘ってくださったときだって、わたしは嬉しかったですよ」
「……ありがと」
ひとまず笑ってくれたので、ほっと胸をなで下ろす。たった今気がついたことだけど、わたしはこの人の悲しそうな顔に弱い。故郷の弟を思い出すからだ。ハの字に下がった眉や、うるんで揺らめく瞳がどことなく弟のエトラに似ている気がする。
ちなみに弟は、今年で六歳だ。